高島屋日本橋店の高島屋史料館TOKYOで開催されている企画展「ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家ーサハリン少数民族ウイルタと「出会う」」に行ってきた。半年前からやるのは知っていていつ行こうかと思っていたら終わる間際になってしまったけど行ってすぐ図録を買うことができたし、これはこれで良いタイミングだったかも知れない。
デパートのフロアの片隅にある一室で開かれた小さな展示だけれど、ウィルタやニヴフや樺太アイヌなど北方少数民族の日用品や儀礼用品を間近に見られる希有な機会だった。前日に『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』を読み終えたところだったので、これがあの壜の中で銃弾を丸めた時に使っていたものか、と看板や衣服や生活用品などさまざまな実物を見ることができたし、ジャッカ・ドフニを建てて氏は六年後に急逝していたのか、とかその後のこともそこで知った。
そして本のなかで「I子」さんと書かれていた人、つまりゲンダーヌの義妹で二代目館長だった人の名前が「北川アイ子」さんだったのが一番オイ!と思った。伏せてねえじゃねえか。『ゲンダーヌ』ではアイ子さんの話はあまりされておらず、名前がイニシャルになってることも含めて本人か他人かは分からないけれどあまり表に出さないようにしていたのかも知れない。
展示室ではそのアイ子さんが山や海に儀礼を行なう様子を収めた98年頃の映像が流れていて、それが展示されている儀礼用の品や太鼓をまさに身につけ実用している場面だったので、振り返ると目に入る品はこうして使われていたのか、と分かるように配列されていて面白かった。映っているアイ子さんの家はいかにも田舎のおばあさんの家という雰囲気で、テレビが載っている段ボールは有田みかんの90年代ぽいデザインだったり、年季が入った掃除機が見えたり、そうした見慣れた景色のなかでウィルタの生活が送られているということも見える。儀式で山や海に置くお菓子が市販の個包装のものだったりしているのもそう。
上階ではこの展示に合わせた「新田樹 写真展 「雪」」とが開催されていて、これはサハリンに暮らす日本人女性たちを収めた写真の展示で、朝鮮人と結婚してそこに残っていた人なども含まれている。戦後日本の国境線の引き直しのなかで困難を受けた別サイドの人たち。
ごく一部にゲンダーヌが主語になった箇所があるものの、概ね共著者田中了がゲンダーヌの口述をもとにまとめた書物とのこと。田中はゲンダーヌの恩人というか運動の同伴者といっていい存在で、彼らから「親戚」とまで呼ばれ勤務先の学校で転勤の噂が出ると中止の嘆願がなされるほどだった。
1975年、田中の誘いで参加した民衆史講座でウィルタは滅び行く民族だと発言したゲンダーヌが、その集会で彼の話を聞いた人々の支援によって意思を変え、ウィルタの民族運動に関わっていくことになる。彼は資料館設立、慰霊碑建立、樺太の少数民族との交流という三つの夢を挙げた。
1978年刊行の本書は、その年に完成するジャッカ・ドフニに至るゲンダーヌの事績をまとめた格好だ。南樺太・サハリンでオタスの杜と呼ばれるウィルタとニヴフを集住させた場所で育ったゲンダーヌは成績優秀でウィルタとしてははじめて敷香支庁に勤務することになる。
幼少期の頃から始まり、実父ではなく伯父のゴルゴロの元で育てられた経緯や、「土人教育所」で自分の名前が北川源太郎という日本名になっていることに気づき、学習が面白くて一歩ずつ日本人に近づくことが楽しいという気分も語られている。卒業後、父からウィルタとしての狩りを教わっている。しかしこのことが特務機関に招集される才能ともなった。
当時の教官たちの言葉をかりれば、抜群の射撃力、機敏な動作、一度放てば広大なツンドラ地帯をわがもの顔で跳ねまわり、潜めば野ギツネのごとく、飛び出せば野性のトナカイに似た跳梁……。とくに射撃訓練で、三十間ほど離れた樹木に、両刃の安全カミソリの刃を立て、その刃をパチンと見事に撃ちはじくすご腕に教官連中は唸った。教官たちは教育しながら源太郎らに一種の恐怖心をいだいた、という。95P
思い人や婚約者などのロマンスめいたものも語られているけれども、青春時代は早く終わり、1942年特務機関からの招集によって訓練を施され、国境地帯でのさまざまな諜報任務に従事することになる。そのなかで同族の死が戦死ではなく「病死」とされる、原住民の扱いを知る。
憲兵隊に狩り出され、国境地帯の道案内をつとめていた同族ワシューカの戦死の報を耳にしたのはその頃であった。頭部貫通銃創で即死したときくが、その報告は「病死」であった。原住民の死は「戦死」扱いはされず、すべて「病死」とされた。109P
敗戦時、ゲンダーヌたちがある任務を命じられたけれどもこれは特務機関の秘密がバレることを怖れてあえて国境近くに送られ、そこで戦死して厄介者を始末できれば、という謀略だったことに気づく下りがある。そしてその後、ソ連に捕まり十年近いシベリア抑留が始まる。そのなかで同族が亡くなっていくのを目の当たりにする。
1955年に舞鶴に引揚げ、そこで国籍がないことを知り、戸籍登録する際にウィルタだと知られたくないと日本名のない母の名前を不詳としたくだりがある。彼はこのことを後に後悔する。運動以後、ウィルタだと明かしてくれるなとゲンダーヌとの交流を断った同族たちがいることが語られていて、それはゲンダーヌの就籍の際の選択と同じことでもあった。
ウィルタとして発言を始めたことで当時の上官たちが声を上げ、網走にやってきて対面したり、軍人恩給申請について証言の協力をしたりという流れができていく。しかしこの恩給についての政府の判断は否定的で、なんとウィルタは戸籍がないし特務機関も招集権はないので軍人ではないというものだった。
出原局長は、「軍人としての階級」がなかったとすれば、軍属と判断せざるを得ない。扇さんが召集令状を出したとすれば、特務機関長には召集権がないので、その召集は無効と判断せざるを得ない、従って軍人としての取扱いは難しい、と否定的な見解を示した。「……だとすれば……と判断せざるを得ない」といった類推から結論をひき出すのではなく、直接当時の上官から事情を聴き、そこを基点に総合的に判断ねがいたいと重ねて要請した。援護局長は私らがあげた扇、南部、大田氏のほか、当時の大本営参謀本部ロシア班の責任者からもそれぞれ事情を聴き、最終判断することを約束した。205P傍点を太字に
特務機関が独断で招集したとも思えないけれども、だとするなら当時の招集は違法行為となり、それ故にこそ責任が発生するのではないかと思うけれども、当時として法に基づかない行為だったので戦後も責任を負わないというのはとてつもない無責任で、なるほど天皇にも責任がないわけだ。このロジックのすさまじさ。戦前の脱法行為を追認して先住民族をペテンにかけたことを正当化しているのではないか。
特殊な地域での特殊な状況のもとでの諜報活動だから、すべてが秘密のヴェールにつつまれていたとしても、当時の旧軍人が健在であるかぎり解明できない問題ではない。特務機関長に召集権があったかどうかは源太郎たちには直接関係はない。「召集令状」によって狩り出され、多くの犠牲者を出したその責任を誰がとろうとしているのか。死んでいった多くの同胞、残された家族、何の保障もないまま棄てられている仲間に代って、源太郎は申立てをしているのである。当時の「召集令状」が有効か無効か、手続き上どうであったかは別なところで時間をかけて検討すればいい。「召集令状」にカッコつきはあり得ない。もしカッコつきだとすれば、源太郎たち少数民族をペテンにかけたことになる。17P
こうしたこともありつつ、ゲンダーヌは人々の支えとともに「オロッコ(ウィルタのアイヌ語呼称。この頃はそう呼ばれていた)の人権と文化を守る会」結成に参加し、自身の決意を述べるまでになる。
昨年までの私は『オロッコは亡びゆく民族です』と小さくなっていました。私自身、オロッコであることをかくして、日本人になろうとしていました。しかし今はちがいます。皆さんに激励され、わたしは日本人であることよりも、オロッコとして生きることを決意しました。
それはオロッコ文化を守るためです。オロッコ文化は、オロッコ自身の手で守らねばならないことに気がついたからです。245P
「オロチョンの火祭り」など観光用に創作された先住民族の祭についての批判や、ウィルタの人々が文化的に低劣なように書かれた書物などへの批判、埋葬方法についての誤解まじりの伝聞など文化的な誤解をただすくだりも本書にはある。「ウソが 本当になったら おそろしいことだ」(259P)。
田中了が通訳した、ウィルタ語でゲンダーヌが読み上げたという報告書の一節。
私を時どき新聞やテレビでみてご存知かと思います。
さて、あの大きな戦争が終って三十二年がすぎました。
しかし、私には戦争は終っていない。
私たちウィルタやギリヤーク、またほかにもいたあの大勢の土地の人(同胞、民族)たちは、あの大きな戦争の時に連れ出され(狩り出され)て殺され、そして棄てられました。
チクショウ!(ゴシプシエィ)この罪(責任)は一体誰がとるのか。日本の政府ですか、それとも日本の天皇ですか。
戦争が終って三十年たっているのに未だに何をしているのか。
死んで消えていったあの若い同胞は日本の国のために死んでいった。
しかし未だに日本の政府は私たちを日本の国民(日本の国の人)として認めようとしない。
私も日本人になって戦いました。ワシューカやヘイジロー、イガライヌも日本人として戦って死んでいきました。
私たち少数民族は樺太ではクウィ(アイヌ)よりももっと悪い(下の)土人として使われました。戸籍すら与えられませんでした。
ウィルタの言葉では犬よりも悪い、というのがありますが、それと同じように扱われたものです。
戦争の時には日本人として使う。戦争が終ればまた棄てる。チクショウ、私たちは犬コロじゃないんだ。ええい、チクショウ! いつになったら私の戦後は終るのか。84P
少数民族の権利運動や、文化運動にかかわることになった北方少数民族ウィルタの一人がたどった人生をまとめた非常に貴重な本だろう。ウィルタが当初オロッコとアイヌ語呼称で呼ばれていたことも含め、北方先住民と言えばアイヌという状況に対しても別の視点を提供するものになっている。
「若い皆さんに私が訴えたいのは、友人を大切にすることです。人を大切にすることは、その人をよく理解することです。
相手を理解することは、差別をとりのぞく第一歩です。
差別があるかぎり民主主義はありません。
私たち少数民族を差別している間は、日本は民主主義国家ではありません。
若い高校生の皆さんが差別をしない、そして差別をなくす立派な人になられることを期待して、私の挨拶を終ります。アグダブセ」 291P アグダブセ=ありがとう
アイヌの祭に参加したゲンダーヌが常とは違う酔い方をしていることを目撃した共著者田中の感慨も印象的な箇所だ。シシャ=和人。
『安心したんでしょう。アイヌはシシャとはちがいます』――私にはショックであった。私ともよく飲む。ときには酔った源太郎氏を送ったこともある。だが、阿寒では酔い方がちがっていた。言われて後で気がついた。私はまだ本当のハラムビ(親)にはなっていないのである。まだ距離がある。私自身が気づかずにつくっている距離かもしれない。シシャを意識させているうちは、ほんものではない、そのことに気がついた 272P
私は十年くらい前に千円しないくらいで古書を買ったんだけど、今かなりの高値が付いている。ゲンダーヌ逝去十年後に田中了による続篇が書かれているけどそれも高い。合本でちくま学芸文庫あたりで再刊されないかな。
収蔵品の写真は当日のことを思い出せて良いのだけれどやはり写真と実物ではものごとのディテールが違っていて、晴れ着のポクトは近づいてよく見ると食べ物をこぼしたかのような生活感ある汚れが見えて生活のなかで実用していた痕跡が見えて印象的だったのはさすがに図録では見づらい。
収録文では特に北川アイ子と知己だった元ウィルタ協会事務局長による半生の語りは『ゲンダーヌ』読者にとって死角となるところで非常に重要なのと、ジャッカ・ドフニの運営に関わっていた人が八〇年代後半に一度閉館してからの再開を語ったところは年表にない重要な行間。私は事前に『ゲンダーヌ』を読んでから行ったので、いくらか著作に書かれたことの裏付けを見るような気持ちでもあったけれど、そうしたこと以外で印象的だったのは年表ではゲンダーヌはジャッカ・ドフニ設立後六年で急逝してその後は義妹の北川アイ子さんが館長として長かったこと。
2007年に亡くなるまで館長を務めておりむしろジャッカ・ドフニはアイ子さん時代の方が長いわけだ。そして日本でウィルタを名乗る人はアイ子さんで最後だったとも解説されていて、『ゲンダーヌ』で描かれた運動はウィルタとしては途絶えたようにも見えた。しかしアイ子さんの教えを受けたウィルタ紋様の刺繍を学ぶフレップ会が刺繍で作ったサハリンの地図を提供しており、そのような形での継承もまた存在していることがわかる。本書ではそのアイ子さんのサイドからの情報が多く、『ゲンダーヌ』では「I子」表記だった彼女の重要さが浮き彫りになっている。
阿寒湖畔のアイヌコタンで育ち幼少の頃からジャッカ・ドフニに訪れていたという瀧口夕美と、サハリン紀行文の著書がある黒川創の記事と対談がある。展示会入り口にあった彫刻は瀧口氏の父瀧口政満によるもので、満洲生まれの彼が日本でアイヌ彫刻と出会って阿寒湖へ移住し彫刻を始めたらしい。この二人の記事ではアイ子さんが兄ゲンダーヌの弱腰なところを苛烈に尻を叩いてしっかりしろと叱咤していた様子が触れられていて、なかなか意外だった。アイ子さんたちにとって北海道とは一度も訪れたことのない「日本というはじめての土地へ「引き揚げた」」引揚者でもあること。司馬遼太郎の『街道をゆく オホーツク街道』にアイ子さんが出てきてるとは意外だった。
弦巻宏史の「民族の心――北川アイ子さんとの対話から」はアイ子さんの晩年を知るウィルタ協会事務局長によるアイ子さんの半生を語っているもので、激動の人生の一端が窺えて印象深い。軍国少女として活動した戦中から一転、戦後は「土人」は日本人じゃないからここに残れといわれたこと、退却する日本軍が街や家に放火していったこと、ソ連軍が連れてきた少年が親に会っても自分を置いて行った親は親じゃないとソ連軍に同行していったこと。結婚したエベンキ族の夫がスパイと見なされシベリアへ流されたあと、生活の苦しさもあって絶望して川に身を投げたけれども浅くて死ねなかった話やその後朝鮮人の青年と結婚して、最初の夫が他の街で再婚していたのを知ったこと、そして朝鮮人の夫も祖国に帰りたいと音信不通になったこと。1967年日本に渡って兄ゲンダーヌらとともに生活しながら、ウィルタ民族運動に併走し彼の尻を叩きながら、資料館ができると収蔵品の制作にかかわり、ウィルタとしての精神性を保持しつつ生活し、父や兄の死を見送りながら2007年に亡くなるまでを著者は語っている。
青柳文吉「資料館ジャッカ・ドフニの90年代を振り返る」では、ゲンダーヌが亡くなって八〇年代後半に一度閉館を余儀なくされたあと、90年の国連の総会で1993年から10年を「国際先住民の10年」とする世界的な流れが起こり、ここでアイ子さんを館長としてジャッカ・ドフニが再開する端緒となった。こうして93年秋にアイ子さんを館長として再開することに決まり、ジャッカ・ドフニは94年4月に再オープンしたという。しかし休止が長く客足が伸び悩んでいたところ、ボランティアの協力によるグッズの販売が始まり、そしてフリーマーケットを企画したところこれが予想以上の反響を呼んだという。
先住民政策や戸籍国籍について論じた加藤絢子「日本帝国と樺太先住民族」、樺太アイヌやウィルタ、ニヴフの近代史を描く田村将人「日露/日ソの境界変動と樺太アイヌの歴史」、オタスの杜を博物館の歴史から論じる犬塚康博「ジャッカ・ドフニと博物館の歴史と構造」が収録されている。
そういえば、『ゲンダーヌ』でゴルゴロさんが木椀の贈り物を認めておらずこれはイタンギじゃないか、ジャッカではない、と意固地になる箇所があったけれど、展示とかを見るにウィルタにとって木製品は日常用品で、金属製品は宝物だという文化的線引きがあるように思えた。
あと、サハリンが北海道と同じくらいの面積があるというのは意外に重要な点だとも思った。広い。
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