単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』が刊行されます - Close To The Wall
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2022.11.20後藤明生文学講義CDの付録リスニングガイドを執筆
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2022.09.30図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニア、ルーマニア』の書評が掲載
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2022.09.28単著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』刊行
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2022.06.10『代わりに読む人0』に「見ることの政治性――なぜ後藤明生は政治的に見えないのか?」等を寄稿
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2022.04.30「図書新聞」2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載
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もちろんこの「消された人物」というテーマは、キシュが『砂時計』を含む三部作で描いた、アウシュヴィッツで消息を絶ったユダヤ人の父の延長線上にあることは間違いない。本書でも時代が異なる中世のユダヤ人虐殺を描いた『犬と書物』が含まれているのはそのためだ。
ソ連・東欧の共産党時代の歴史を知らないと背景が結構分かりづらいところはあると思うけれども、筋書きは明瞭で、『汚辱の世界史』あるいは『ブロディーの報告書』系統の短篇群のように読めるとも思う。恥辱と復讐を描く「めぐる魔術のカード」は特にボルヘス的な印象を持った。
この後に続く物語、疑念と困惑の中に生まれる物語において、唯一の不幸は(幸運という者もいる)、それが真実であること、誠実な人々と信頼しうる証人により記録された物語であることにある。7P
とは第一篇の書き出し。こうあるのもあって私は読んでいてこれは事実に基づいたものだろうかと思ったけれども、ノンフィクションの一節を膨らませたものなど依拠する資料やモデルはありつつも、史実ではないという。多々存在した状況をフィクショナルな人物で描いたもののようだ。その点も『汚辱の世界史』が実在の人物に取材しつつもなかば伝説的な風聞を物語にしていて、歴史的に正確ではないことと似ているのかも知れない。しかし、中世のユダヤ人に対する改宗をせまった「犬と書物」は概ね既存資料の翻訳になっているともいう。
概ね10や20ページほどの短めの短篇が収められ、七篇で160ページほどの短い本だけれども、表題作は40ページ近い本書でも長めの作品だ。偽名を複数使って上流階級のサロンに紛れ込んだり、革命家へ資金を流すために行なった強盗事件の首謀者だったりした人物が一転逮捕され拷問に掛けられる。このボリス・ダヴィドヴィチ・ノフスキという革命的情熱を抱いた人物が虚偽の自白をするよう拷問に掛けられ、そうしなければ目の前で人質を殺すと脅され実際に殺されたり、陰惨な仕打ちを受けながら、拷問官との対立が描かれていく。
二人は、結局、利己的で狭量な目的を超えた道理から行動したのだと思う。ノフスキは自らの死、自らの転落において、自らの人格のみならず革命家全般の人格の尊厳を守るために戦ったが、フェデューキンはフィクションと仮定とを探究する中で革命の正義とその正義の遂行者の厳格さと一貫性を守ろうとした。ただ一人の人間、一つのちっぽけな有機体のいわゆる真実が損なわれる方が、高次の法則と利益が疑問視されるよりも良いと考えたのである。そしてたとえ取調べの過程でフェデューキンが頑固な犠牲者を狙ったとて、それはしたがって一部に信じられているような神経症の男やコカイン中毒者の気紛れではなく、彼自身の信念のための戦いであり、その信念は、犠牲者同様に、利他的であり、不可侵であり、神聖なものであった。彼の中に怒りと誠実なる憎悪を喚起するもの、それはまさしく被疑者の痛ましい利己心、自分の潔白なり自分のちっぽけな真実なりを証明したいという病的な欲求、固い頭蓋骨の経線に閉じ込められたいわゆる事実の輪を病的に回り続けることであって、彼らの盲目の真実は、より価値が高く、より優れた正義の体系に位置付けえない、そうした正義は犠牲を求めるものであり、人間の弱さを考慮せず考慮しうるものでもない。それゆえに、義務のもとに自白書に署名することは論理的であるのみならず道徳的でもあり、したがって尊敬に値するという一目瞭然の単純な事実を理解しえぬ者は押し並べてフェデューキンの仇敵となった。ノフスキの一件がフェデューキンにとって殊更に衝撃的であったのは、彼を革命家として高く評価しており、十年ほど前には、手本としていたからである。119-120P
個人や革命家の尊厳と大義のために個を犠牲にする思想の対立。そのなかで、歴史から消された個々人の側に付き、スターリンによる粛清の波に飲まれた人々を描くのが本書の各章になっており、副題「一つの共有の歴史をめぐる七つの章」の意図するところもそうだろう。
このボリス・ダヴィドヴィチ・ノフスキという架空のしかし実在してもおかしくない人物の章を書き終えたところでキシュが見いだしたのが、600年前にノフスキと同日に捕らえられた、イニシャルが同じユダヤ人が改宗をせまられた異端審問の記録だった。これを翻訳したのが「犬と書物」になる。癌で死ぬ男を描いた「死者の百科事典」を書いている時に作者自身が死ぬことになる癌が進行していたという偶然をキシュは生きたけれども、ここでも信じがたい偶然に際会し、それを小説に取り込んだことになる。
「犬と書物」のなかで、トゥールーズ市民が「ユダヤ人に死を!」と叫んで雪崩れ込んでくる暴動の場で以下のようなくだりがある。
私が読み書きに没頭していたところ、そうした人の群れが部屋になだれ込んできました。棍棒のように重い無知と、刃物のように鋭い憎悪で武装していました。彼らの眼を血走らせたのは箱ではなくて、書棚に並んでいる書物でした。絹を外套の下にしまい込み、書物を床に投げ捨てて足で踏みつけ私の眼の前で破りました。革で綴じられて番号を付けられていた書物、学識ある人びとによって書かれた書物、そこには、もし彼らに読む気があるなら、その場で私を殺すべき理由が千と書かれていますし、もし彼らに読む気があるなら、そこには彼らの憎悪を癒す薬と軟膏があるのです。それで私は言いました、書物を破らないように、多くの書物は危険ではない、危険なのは一冊だけだと。私は言いました、書物を破らないように、多くの書物は読むことが叡智へとつながる、読むことが怒りと憎しみに満ちた無知へとつながるのは一冊だけだ、と。すると彼らは言いました、すべては新約聖書に書かれている、あらゆる時代のあらゆる書物がそのなかにある。そこに、ほかのすべての書物の内容が収められているのだから、ほかの書物は燃やさなければならない、この「一冊」に収められていない内容がほかの書物にあるのならば、なおさら燃やさなければならない、それは異端の書だからだ、と。138P
聖書だけがあればいいといのはトランプ政権の反学問的姿勢というかトランプを支持している一派の発想というのはこれに類するものか、という印象がある。
七篇200ページに満たない小著だけれどもキシュの作品においてもっとも翻訳されており、特に論じられることの多い代表作だという。本書によって、父を消したナチス、そしてスターリニズムと、ユダヤ人をめぐるもう一つの主題が読めるようになった。
訳者奥彩子には『境界の作家 ダニロ・キシュ』という著書があり、本作を論争と共に詳細に論じているので詳しくはそちらを読むのをおすすめ。本書の解説は非常にあっさりしているのでもうちょっと紙幅を割いても良かったように思う。
『境界の作家 ダニロ・キシュ』の本書に対する議論では、剽窃の疑いを掛けられた経緯を追い、キシュの作品が何を踏まえて書かれているかを明らかにし、裁判にも勝った顛末を記しながら論じており、非常に参考になる。またキシュのインタビューが訳載されていて、重要なポイントを含むので以下に引用する。僕が異論を唱えているのは、ボルヘスは自分の本に『汚辱の世界史』という題をつけたけれども、主題から見ると、「汚辱の世界史」などというものではまったくなく、何ら社会性のない、小さな子ども向けの物語であるというところです。繰り返しておきますが、主題の面において、です。ニューヨークのギャングの話、中国の海賊の話、田舎のギャングの話、すべて似たような話ばかりです。ですから、僕の異論は、一義的には、内容とあまりにもかけはなれた、ボルヘスの本の表題に対してのものです(ボルヘス自身、 そのことをどこかで認めています)。僕が思うに、「汚辱の世界史」とは、強制収容所を生み出した二十世紀のことです。なかでも、ソ連の収容所。「汚辱」とは、より良い世界をという思想のもとに、多数の同時代の人々を抹殺すること。そういった人道的な思想のもとに収容所を作ったうえ、その存在を隠蔽し、人間だけでなく、人間のもっとも深いところに根ざしている、より良い世界への夢をも破壊することです。220P
「人道的な思想」という箇所は反語だろうし強調か傍点がついていそうだ。ともかく、ボルヘスの換骨奪胎を行なった理由がここにある。また、訳書解説では触れられていないけれども、構成を踏襲したのがボルヘス『汚辱の世界史』だとすれば、主題面で踏まえているのはアーサー・ケストラー『真昼の暗黒』だという。こちらは一応持ってはいるけれど未読だった。ブハーリンをモデルに、粛清のために虚偽の自白を強要される過程を描いたものらしい。
世界文学のフロンティア 3 夢のかけら - Close To The Wall
ダニロ・キシュ - 庭、灰 - Close To The Wall
ダニロ・キシュ - 若き日の哀しみ - Close To The Wall
ダニロ・キシュ - 砂時計 - Close To The Wall
肺病を疑われ結核療養所に入れられた語り手が、医療ミスでの要らぬ苦痛や元々感染していなかったのに療養所にいるせいで結核の感染に見舞われるという悲惨な目にあうなかで、家族が誰も口にしない実父の存在など自身の根源について考えをめぐらせつつ、生への意思を固めていく。
ミスや雑な医療が蔓延する病院、すぐ死ぬ患者たちの集められた病室、戦争を生き延びた後に迫りくる死、祖父が死に、母が死にかけている状況で自分の由来とは何なのかを考え、病院に対して己に選択権を取り戻すための行動を始め、権力や共同体への抵抗のありようが描かれる。グラーフェンホーフで得た楽しく会話が出来る指揮者の友人や、その外で得られた歌うことの喜び、そしてドストエフスキー『悪霊』に強い感銘を受け人生でも最大級の影響を受けたことを記し、己の脳への不信から書き記すべきことをすべて数百枚のメモ帳に書くという芸術のテーマも散りばめられている。
陰惨なばかりではなく、病でないはずの語り手がグラーフェンホーフという収容所に入れられる不条理な導入から始まり、自分も皆と同じでないといけないと思ってなんとか陽性になるために痰壺に痰を吐き続けるという描写を経て、出られると分かった瞬間に陽性が発覚するなど、喜劇といっていいようなコミカルな描写も多い。
父への関心については、語り手が後の時代のこととして挿入した件がなかなか衝撃的だ。父を知る人物と会う算段をつけたのに予定の日の前日にその人物が事故死してしまったのだという。作中では首がちぎれたと劇的に表現されていてそれは正確ではないけれど、前日に死んだのは事実らしい。
オーストリアという国は、国内出の芸術家に対して決して居場所を提供することがない。遠慮なく、極めて残酷な仕方で、あらゆる国々へと彼らを追放する。ここに、またしてもその実例が見つかった。いつも私が言ってきたし、これからも言い続けるであろうことの実例、故郷においては軽んじられ、いや、軽蔑され、広い世界を求めねばならない芸術家の実例だ。42P
オーストリアの芸術家の扱いについて強く批判しているところがあるように、作者の代名詞とも言える故郷への呪詛は、人を閉じ込め支配する収容所や共同体への抵抗となって今作にも流れ込んでいる。人を死に吸い込む磁場を離れ、死から生への転換が自伝五部作で繰り返し描かれている。
前作『息』が、最愛の祖父の死によって自身の病気から息を吹き返して二度目の誕生を迎えた様子を描いたものだったけれども、今作では母の死を経たことで「人生が完全に無意味になり」、逆説的に療養所で「健康になることに、決めたのだ」と決断するさまが描かれている。
母については以前も父の失踪により親子関係に微妙な軋轢があることが触れられていたけれども、今作でも訃報が新聞に載る際に名前が間違われていて、葬式の時に語り手はずっとそれを思い出して笑いをこらえるという皮肉な描き方になっている。それでも亡くなれば語り手は人生の意味を見失う。両親が共にいなくなることで、自分の由来、起源、「原因」が見失われたという感覚になったのだろう。この次の自伝五部作の五作目は『ある子供』という幼少期の回想が描かれ、自伝五部作の最初の作品は『原因』と題されていて、この自伝シリーズは最初と最後が繋がる環のようになっている。
ベルンハルトで最初に読んだのがこれだけれど、反自伝的と呼ばれる『消去』は自伝的要素を排したもので自伝五部作と対になる作品らしいし、他の作品を読むにもここでベルンハルト自身の自伝的描写を踏まえておくのも有用だろう。以下他の箇所も幾つか引用しておく。
ところが、戦争が終わって二、三年を経た今になって、やっぱり助かったわけではないことを、私たちは悟った。今、その打撃が襲ってきた。私たちを追いかけてきて、つかまえた。突然、ひといきに、報復するかのように。生き延びることは許されなかったのだ、私たちも! 33P
真実とは、それが百パーセント真実であったとしても、いつも誤っている。そしてどの誤りも、真実にほかならない、そう考えることで私は自分を前に進めようとした。そう考えることで前へと進む可能性を得たのであり、そう考えることで自分の計画を中断する必要がなくなった。このメカニズムが私を生にとどめ置き、私の存在を可能にしてくれている。祖父はいつも真実を語り、且つ、完全に間違えていた、私と同じように、誰もが間違えているのと同じように。我々は、自分が真実の中にいると信じるときには間違っているし、逆もまたしかりだ。不条理こそが唯一可能な道なのだ。58-59P
自分にとって故郷であったもの、おそらく私の場合と同様、自分に無理やり押しつけられたもの、信じ込まされたもののすべて、自分を圧殺するため、鉄頭巾のように頭に被せられたこの故郷というものから、永久に、金輪際自分を解き放ち、立ち去る決心をしたということ、すべてを捨てる決断をし、この決断を最後まで遂行したということだ。父は、両親の家に火をつけると、身にまとったもののほか何にも持たずに家を出て、駅の方へと向かった。噂によれば、父はよく計算したうえで火をつけたのだという。95P
自分の秘密を守るには、こうして誤魔化すほかなかった。以後、私は嘘と芝居の中に生きた。ここから放免されるように、それも、近いうちに放免されるように仕向けねばならなかった。だが、そのためにはここを支配している法を、それも絶対的に支配している法を破り、自分自身の法に従って生きる力が必要だった。有無を言わせず課せられた法に隷属して生きるのではなく、自分自身の法に従って生きるのでなければならない。医者の助言には、ある程度まで、益をもたらしてくれる程度までしか従うまい、それ以上であってはならない。114P
最初に翻訳された自伝五部作第五作『ある子供』が出たのは2016年か。二年で一冊、十年近く掛けての訳出。
トーマス・ベルンハルト - ある子供 - Close To The Wall 第五作、邦訳一作目
トーマス・ベルンハルト『原因 一つの示唆』 - Close To The Wall 第一作、邦訳二作目
トーマス・ベルンハルト『地下 ある逃亡』 - Close To The Wall 第二作、邦訳三作目
トーマス・ベルンハルト『息 一つの決断』 - Close To The Wall 第三作、邦訳四作目
アフガニスタンで生まれ、幼くして戦火を逃れてイランに亡命、2003年にアフガニスタンに戻り詩や雑誌記事などを執筆しジャーナリストとして活動し2014年に州議会議員に選ばれ、女性の権利と平等のために戦い、アフガニスタンが再びターリバーンの手に落ちるとオランダへと亡命というのが著者の略歴だ。その後アフガニスタンで詩や表現の禁止令が出されると、それに抵抗する国際的な連帯として呼びかけて作られたアンソロジー『詩の檻はない』が日本を含めた世界数カ国で刊行された。そんなソマイア・ラミシュの活動を知ることができるのが本書となる。
自爆テロから始まり、村や畑の焼け跡が現われ、銃が身近にある世界、女性へのヘイトクライム、女性に自由のない社会から力強く抵抗の言葉を綴る、弾圧に対する言葉の弾丸としての詩。さまざまな酷薄な現実のなかで私はいる、と存在を主張する言葉。
以下詩や散文の一説を引いておく。
1
私はあなたの最期の笑みを額縁に入れ、
壁に掛けて飾りたいと思っていた。
でも、自爆テロによって
私の家は吹き飛んでしまったの。
10
世界のどの地域も夜
夜明けの血は、明日へとつながる血管にはもうまったく流れておりません。
どの時間帯(タイムゾーン)でも、私は泣き叫んでいます。
あなたはいったい、どの時間帯(タイムゾーン)にいますか?
私たちの声が聞こえませんか?
自由な世界の皆さん、世界中の人たちを自由にしてあげて。
(中略)
時計を一世紀巻き戻して
苦いコーヒーを飲みながら、ようやく
あなたはリバティ・ロック・ラジオのニュースを咀嚼できます。
そして忘れてしまうのでしょう、こちら側の時間にいる
私たちのことなんて……。
世界のこちらのタイムラインでは
私たちはすでに死んでしまっているのですから。
16
詩を装填せよ、銃のように――
戦場の力学であなたは
武器を取らざるをえなくなる。
敵は何の言葉や仕草も持っていない、
合言葉も、
色彩も
合図も
符丁もない!
詩の言葉を装填せよ、銃のように――
以下は村上春樹の書評より。
人間とは、常に神話・伝説に助けを求め、自分自身の救いの道を探し求める呪われた者である。今日の私は自分自身の存在に不満を持ち、幾度も逃げ出さねばならなくなる。そのような断ち切ることのできない繋がりがわれわれにはあり、村上はわれわれに与える虫眼鏡でもってこの観察を助けてくれるのだ。44P
こう『海辺のカフカ』を高く評価しつつも以下のように女性観に対しては辛辣に批判してもいるところが注目される。
この小説では、女性は三つの側面(母親、恋人、姉妹)のうちに極めて限定されたものとして見出される。これらの女性たちはいずれも、一種の誘惑者として現れる。愛と誘惑と女らしさは過去の文学の繰り返しであり、この部分において村上は、新しい発見も変化も見出していない。44P
ここで編者岡和田はラミシュの引いた箇所の原文を探して丁寧な注記を加えており、翻訳でニュアンスが変わる部分があることも分かる。
あるイベントの質疑において語られた以下の言葉はソマイア・ラミシュにとっての詩とは何かを明瞭に語っている。
ロマン主義の詩、抵抗詩、社会詩……ここで言う抵抗とは、宗教や社会に対する抵抗のことです。詩とは民衆の言葉なのです。詩は民衆の夢と民衆の抵抗を描くものなのです。
詩は美を創造し、闇を照らして新たな意識を生み出すもの。つまりランプに灯される光でもあるわけです! 62-63P
基本的に英訳されたものから訳されているけれども書評はペルシア語からの訳出がされている。編訳者以外では中村菜穂、木暮純、野口壽一、金子明といった訳者陣が記されているけれども、他にもラミシュの後書きは発行編集担当の柴田望によって翻訳されていたりと多くの協力者によって成った一冊だ。
「詩と思想」2025年4月号掲載の「ナディア・アンジュマン小詩集」も編訳者岡和田晃さんに頂いた。ソマイア・ラミシュ詩集に名前が引かれる二十五歳で夫の暴力によって殺されてしまった詩人の詩と解説になっている。一節だけ引いておく。「何の意味もない」
音楽なんて、もう何の意味もない――なのに、どうして詩を作るの?
歌おうが歌うまいが、わたしは時間に見放されてしまっている。
(中略)
勝手気ままな酔いどれのように、わたしは詩を口ずさむ。
この身を閉じ込めている檻を、いつか破るべく思いを馳せて……。
それも、わたしが風になびく柳なんかじゃないと、彼らが承知するまでの間――
アフガニスタンの女は泣きながら歌い、わたしも一緒に泣きながら歌う!
寮美千子さまからセント・ギガ詩集を恵贈頂いたのを機に、まだ読めていなかった寮さんの編著書を続けて読んだのでその感想を。寮さんは奈良に移住する前、私が学生だった頃に和光大学で物語創作の授業を受け持っていて、私は受講者だった。その縁で文壇バー風花での古井由吉の朗読会に誘われたり、アイヌの音楽家安東ウメ子氏を相模大野の相模女子大学に招いたライブではムックリを吹くボランティアをしたり、受講者のなかでつるんでいたメンツをベースに結成したのが同人文芸サークル「幻視社」だったりする。それも20年も前のことになる。
母を亡くした少年がある日遠足に行こうと家を出ると事故に遭い、気がつくと元いた世界とは異なり母が存命で父が不在、景色も社会もなんだか様子が違っていてもう一人の自分と入れ替わっているらしき状況に出くわす。そして今から行くこの世界の遠足は宇宙船に乗って行くらしい。その目的地、小惑星美術館は文字通り小惑星帯の天体にさまざまな生き物の彫刻がなされた宇宙に浮かぶ美術館だ。この宇宙への旅行、このスペースコロニーは何なのかという不可解な状況から、管理社会の真実が次第に明らかになっていく。
ガイアという言葉が使われているように、地球、生命、人間それぞれを繋がったものと見る発想を背景に、私たち一人一人が美しい夢を見続けることを強く訴える作品で、このテーマには二十世紀末のSFらしい懐かしさがあるけれども、気候の変化が著しい今になってこそ生々しく感じられるのではないか。
オゾン層は破壊され、空気中の二酸化炭素濃度は上昇する一方だった。大気も海も汚染され、森林は伐採された。砂漠は広がり別のところでは洪水にみまわれた。放射性廃棄物による奇形の急増、遺伝子工学によって創り出された未知の細菌やウイルスによる汚染。バランスは急激に崩れ、
さまざまな動物や植物が人間のために絶滅していった。
ガイアは瀕死だった。それでも、美しい夢を見ようと力を振りしぼっていた。なんとかしてバランスを回復しようとしたのだ。そう、何十億年と、ガイアは、まるでひとつの巨きな生き物のように、自らを育て、癒してきたのだ。241P
自然現象に人間的見方を読み込むことには注意がいるとも思うけれども、スペースコロニーの遠心力による重力と地球の引力による重力を区別して語るところは面白い視点だった。フィクションでも、コロニーの人工重力をニセの重力、と呼ぶ場面があったりもするわけで。
遠心力は孤独な力だ。だけど、引力は違う。ぼくたちは引きつけられ、いつもひとつになろうとしていた。
きっとそこから、すべてがはじまったんだ。たがいに引き合う力が惑星をつくり、生命を産み出し、育て、やがてぼくたちが生まれた。地球の上で、ぼくたちはいつも、そのやさしい引力を感じていた。254P
以下のくだりは本作の核心とも言えるところだけれど、今作がセントギガの理念と共鳴し、作者に執筆を依頼するきっかけになったというのが良く分かる部分でもある。
「きみたちは、わたしよりずっと険しい道を歩むことになるかもしれない。
しかし、きみたちは夢見る力を失ってはいけない。きみたちのひとりひとりが、夢見る天体になって、強い電波を発するんだ。そうすれば、たくさんの心がそれを受信して、いつかほんとうに、閉じた環を開く力となるだろう」264P
ぼくたちは、惑星から切り離されて、ひとりひとりが小さな天体だ。だけども、ひとりっきりで暗い宇宙に浮いているわけじゃない。ぼくたちは、みんなつながっている。木や草のように感星から生えて、見えない原形質に満たされている。
だから、わかるんだ。みんなの感じたことが、ラジオのように。265P
ラジオというモチーフが個々人の意思と連帯のテーマに繋がっている。ラジオグリーン、略してラグと呼ばれるロボットが主人公の相棒のような存在になっていて、愛嬌ある振る舞いをするのが読んでいて楽しい良いキャラだった。
両書のあとがきに当時の経緯が書かれているけれども、有料の衛星放送でCMも時報もDJもトークもなく、自然音と音楽とヴォイスによる24時間の音の潮流を作りたい、衛星から見れば国境のない地球に美しい音楽を反射させたい、というJ-WAVE設立に関わった横井宏とその盟友桶谷裕治が企画したものという。地球という星を衛星からの視点での言葉を贈りたいというそのコンセプトにちょうどぴったりとくるのがその年出たばかりの『小惑星美術館』だったといい、二人の熱烈な申し出を受けて著者が91から97年にかけて書い「ヴォイス」が本書の元になっている。
セント・ギガでは24時間を二つの番組、日の出から日の入りまでの「水の時」と日没から日の出までの「星の時」に分ける。またその境界となる、日本で日の出が始まってから終わるまでの二時間を、日本の何処で日が出たかをアナウンスする特別な時間に据える。そして各地での満潮と干潮の時間が時報代わりにアナウンスされるという。月の満ち欠けの告知もあり、音楽や自然音で構成された音の潮流は満月になるにつれて高揚し、新月になるにつれて落ち着いていくようにデザインされていたという。この二時間を基本区分としてその区切りに読まれたのが複数の書き手によるヴォイスと呼ばれる詩篇となる。
日の入り日の出の地球の回転と、満潮干潮の月との関係を基軸にしたように、「二」を基本単位としているようで、それ故にこの詩集もまたセント・ギガの編成にならって水、天候、四季、自然現象などを詩にした『水の時』と、月、夜、夢、鉱物、星を詩にした『星の時』の一対で編まれている。そしてこの「二」への意識は既に亡くなられた二人の企画者、横井宏と桶谷裕治の二人を連星・双晶になぞらえたエピグラフにも現われている。私家版として20年前には編集製本していたという本が今一般に刊行されたことで、セント・ギガという放送局があったことを思い起こすためのモニュメントといえる一冊になった。
『水の時』冒頭に置かれた「音楽が降りてくる」(最後に引用)が最初に書かれた二篇のうちの一篇とのこと。ヴォイスの様子がよく分かる一篇で、ここまでセント・ギガの放送形態のことを書いたのは、この詩がどのような状況で読まれるものなのかが本書を読む上で非常に重要だと思うからだ。「音楽が降りてくる」という詩がその文字通り宇宙から降りてくるわけで、詩という可搬的な形態の面白さがある。この空と繋がるイメージのほか、四季のめぐりや自然と人間とに流れる水の循環を描く詩の数々は人が何かの輪のなかにあること、詩自体もまたそういう音の流れのなかにあることが重なる。
夜の詩は夜に流れ、夏の詩は夏に読まれ、潮の満ち引きの詩はそのタイミングで衛星からラジオとして流れていた、ということを想定しながら読むと雰囲気が感じられて良いと思う。
『水の時』は四季や自然現象を題材にする昼の詩で「水の彫刻」や「秋の海」など水と生命の循環が底流しているのが印象的だ。
水の彫刻
その夏の ある日
ふいに まぶしい鏡の光が目に入ると
急に すべてが 透きとおって
ただ 水だけが 見えた
樹木は ゆるやかな噴水
透明な大地から 静かに水を吸いあげ
葉は 青空を映して 揺れる
走っているのは 子どもの形の水
追いかけているのは 子犬の形の水
笑い声が 光になって きらめきながら こぼれる
飛びたつ鳥も
はばたく蝶も
咲き誇る花も
命あるものはすべて 水の彫刻
めぐりながら流れる 水の彫刻
その夏の ある日
いたずらっ子の鏡の光で 目を射られると
急に すべてが 透きとおって
ただ 輝く命だけが 見えた
『星の時』は夜や月、夢、鉱物などの題材でも分かるように幻想小説の欠片のような感触があり、「月の夢」「月の神殿」「星の楽譜」「結晶都市」「銀河の船」などが良かった。
星の楽譜
きらめく星は
あれは ほんとうはオルゴール
北極星を軸に ゆっくりと回る
推奨の円盤に埋めこまれた 金と銀のピン
耳を澄ませば
ほら 聴こえる
星座たちの旋律
結晶都市
都市が 夢見ているから
夜は美しい
まるで 光でできた森
以下が最初に書かれたという「ヴォイス」。
音楽が降りてくる
音楽が降りてくる
空から 星から
音楽が流れる
川のように 絶え間なく
天の河の 透明で希薄な水が
地上に 流れこむ
水晶の水に浸されて 洗い流される地上の塵
都市は 美しい廃虚になる
潮の満ち引きのリズムを
ゆっくりと 思い出しながら
時が ゆるやかに 流れだす
わたしたちは いままで
なにをそんなに 急いでいたのだろう
体のなかの海が 静かに満ちてくる
水平線から 月が現われる
音楽が打ち寄せる
わたしのなかの 海から
そして 遥かな星から
星のしぶきをあげて 砕ける波
わたしは じっと 耳を澄まし
小さな 渚になる
編者はレンガ造りの名建築を見に、奈良少年刑務所を見学した折に刑務所の教育官と話したことがきっかけで「社会性涵養プログラム」の一環として詩の授業を受け持つこととなり、本書はそこで書かれた詩を収め、各篇に編者のコメントを付し、末尾に解説などを収めている。
「彼らはみな、加害者になる前に、被害者であったような子たちなんです。
極度の貧困のなか、親に育児放棄や虐待をされてきた子。
発達障害を抱えているために、学校でひどいいじめを受けてきた子。
きびしすぎる親から、拷問のようなしつけをされてきた子。
親の過度の期待を一身に受けて、がんばりすぎて心が壊れてしまった子。
心に深い傷を持たない子は、一人もいません。
その傷を癒やせなかった子たちが、事件を起こして、ここに来ているんです。ほんとうは、みんなやさしい、傷つきやすい心を持った子たちなんです」4P
これは前書きにある刑務所の先生の言葉だ。傷つきやすいその心を教室に向けて開くための言葉として詩があり、自分の受けた痛みや後悔、大事にしている思い、記憶など色々なものを言葉にして他人と共有すること。そうして自分の思いを自分で見つめ直し、自己を安定させ、自分がここにいてもいいのだという感覚を育てることが試みられている。
解説で詩の教室を行なうための条件が列挙されているけれども、人の作品を否定しないことや辛抱強く待つことなどの教室のあり方は、アルコール依存症の人たちが自分の「底付き」経験を人前で語り、依存症からの脱却を目指すグループワークにもよく似ている。よく似ていながら詩の教室ではそこに詩という作品を挾むことで、必ずしも自身のつらい経験を告白しなくてもいい、とハードルを下げている側面もあるだろう。言葉、作品として作った上でいったん自分と切り離して、作品への感想を共有することでワンクッション置いている、と思える。
自分を大事にできない時に他人を傷つけた痛みを理解するのはおそらく難しい。そうして、社会から脱落してしまった彼らを社会に再び包摂するため、あるいは更正のスタートに立つための自己の見つめ直しが行なわれ、コミュニケーション、自己肯定感の涵養へのルートを踏み固めているのだろう。
もちろん、心を表現しきれている詩ばかりではない。しかし、大切なのは、本人が「詩」だと思って書いたものを、「詩」だと思って受け止めてくれる仲間がいること。その瞬間、どんな言葉も「詩になる」のだと、わたしはこの教室で学ばせてもらった。「詩になった言葉」は、その人の人生を変えるほどの力を持つことがある。「すぐれた詩」だけに、価値があるのではない。どんな言葉であろうと、人と人の心をつなぐものになったとしたら、それは本人にとって、かげかえのない言葉になるのだと思い知った。181P
詩、言葉をラジオの比喩を使ったりしながらそれぞれの意思が伝わるというモチーフは『小惑星美術館』にもあり、セントギガ詩集を経てずっと作者の信念として流れているのだろうと思える。
そうじゃないんだ。わたしたちは、ひとりひとり、まったく別の人間だと思っている。けれどわたしたちは、もっと大きなものの、その一部かもしれないんだ。わたしたちの間を、見えない原形質が満たしていて、それが、何かを伝える。『小惑星美術館』225P
表現でもあるけれども私的な事情のカムアウトでもあったりと、個々の詩は本の流れでコメントとともに読んだ方が良いとも思うのでここには引かない。しかし刑務所にあって刑務所を批判するパンクな詩が面白かったので引用してみる。
SILLY PRISON おろかな刑務所
右向け右 前にならえ 五指揃えろ
これはなにかの宗教か?
コンビニの列で 前にならえ
釣り銭片手に 右向け右
ここは一種の バカ製造機
ほんとうに大事なものを見失い
いらぬものばかり 身にまとう
オヤジのための整列で
オヤジのための行進で
なにがおれらの更生か?
だから増える
ゴマスリ野郎 ゲスなチンコロ クソなシャリ上げ
負け犬が 負け犬をいじめる 負のスパイラル
こんなクソ溜めから 早くサイナラ
そのために……
右向け右 前にならえ 五指揃えろ
バカな宗教にのめりこむ 132P
以上の文章をツイッターに投稿したら、寮さんのフェイスブックで紹介していただきました。ありがとうございます。「いままで、わたしの多ジャンルの作品を、このように横断し通底して紹介してくれる人はいませんでした」とのことで、長年のキャリアのある書き手ですらそうなのか、と驚きました。そしてこれはひとえに寮さんの文業に強固な一貫性があるからこそだと思います。
アニメ版がやっているところだけれど二期が始まる前に春期から読み返して冬期まで読み終えた。秋期までは10年前くらいに読んでいたけれどさすがにそのまま最終巻だけを読むのもアレなので改めて一巻から読み返したけどやっぱりそうして良かった。読み終えたのは二期終わる前だったけど、なんだかんだでブログにまとめるのを忘れていて、区切りよくアニメの秋期が終わった時点で上げるか、と思ったのでこんな時期になった。アニメで初見の人は以下は読まない方が良い。
しかし、小鳩くんに推理というエサをちらつかせてバクバク食べてくれるように状況を整えた小佐内さんの魔性が再読するとえげつないほどに感じられる。ここの章題が切り返しされるところは鮮やかだ。スイーツセレクションの地図を渡したあたりからはずっと掌の上で踊らされていたけれど、そうまでして小鳩くんを動かそうとした理由がドラッグに手を出して補導された過去を持つ暴力も辞さない級友からいかに逃れるかという恐怖にあることをあなたは決して理解しない、という小佐内さんの指摘は確かに小鳩くんの急所ではあるし、秋の恋愛沙汰を小鳩くんがどう捉えていたかに繋がる話にもなっている。
「傲慢なだけの高校生が二人」が残るというラスト、まあ本当にそうとしか言えなくてね。しかしまあ再読して改めて、この嫌なやつとヤバイやつのコンビでどうしてこれで青春小説の顔つきできるんだ?って感じはする。能ある鷹が爪を隠そうとして頑張ってるけどついつい頭の良さを発揮してしまったり、男女二人でいる高校生が自分たちは恋愛でも依存でもないと言い張っているの、普通に考えたらすごい感じの悪い話なんだけども。探偵行為の傲慢さと思春期の自意識を重ねるのはなくはないと思うんだけど、語り手が探偵で相方が犯人というのはわりと珍しいのかな。
小鳩くんが成熟した容姿の女性が好みだとか、儚げなところではこの人も小佐内さんには叶わないとか、地の文での語りは小説ならではの面白さがある。
「傲慢なだけの高校生」が能力の低い同類を粉砕するし、心底どうでも良いと思いながら恋人関係を続けたり、人を影から動かして操作したりといや、すごいんだよな。そうして迂回の後、自分たちは市内、高校レベルではそこそこに有能な人間で、同レベルで話ができるのはお互いくらいしかいないと気づいてたった一人相手がいればいい互恵関係という言い訳ではない恋人関係に極めて近いものとして二人が関係を結び直す。というと賢しらな感じだけれど、ようやく気の合う相手はこの人しかいないと認めた悪あがきをまだやってるな、と思えばいいようにも思う。小鳩くんにとっての解くべき謎を持っている相手は小佐内さんくらいで、小佐内さんにとって自分のことを分かってくれると期待できる相手は小鳩くんくらいだ、という関係。
仲丸さん、瓜野くんは本当ヒドイ目に合ったよね……。仲丸さんはともかく、瓜野くんはまあ自業自得ではある。でもそうして自分たちの身の程を自覚する過程でもあってそれは青春小説的だとは思う。
アニメではカットされたけれど知恵働きを繰り返しても仲丸さんが全然気づかないので小鳩くんはいわば仲丸さんのことを舐めはじめていて、それがファミレスでのトマト事件という空振りに至るわけだけれど、ここで仲丸さんに小鳩くんの相手を舐めた態度が気づかれたとすると、瓜野キス未遂事件と似た構図を描いている。話をさえぎって自分の行動を押しつける点で瓜野と小鳩はここで同じようなことをしているわけだ。
小佐内さんは栗きんとんの比喩のように瓜野くんを使って小市民になろうとはしていたんだけれど、彼女の言葉は彼にはほとんど通じないしそもそも聞こうともしなくなるし、そこで行なわれたキス未遂によって彼女の逆鱗に触れてしまう過程がアニメに描かれるとだいぶホラーな演出になっていてすごかった。そして小佐内さんの瓜野くん問い詰めパートが羊宮妃那の声によって展開されるアニメ16話の迫力。
探偵行為は人の明かされたくないプライベートに口を突っこむことになるもので、その「報い」について考えながら、自分がしたことは本当はなんだったのかを問い続けるなかで堤防道路で起こった二つの交通事故の関係が明らかになっていく。最初と最後の事件を並行して語っていくという構成は最後を飾るに相応しい仕掛けだろう。「報い」がキーワードとなるように、小鳩くんの探偵行為の罪と罰が今作の核心をなしている。昔、春夏を読んだ時も探偵の傲慢さがテーマになってて面白いと書いたような覚えがあるけど、今作ではそこに正面から突っこむことになる。
事件の詳細はミステリなのでここには書かないけれども、小鳩常悟朗にとってこれらの事件の顛末は自分は無神経さで人を死なせてしまったかも知れないという悔恨と、とっさに人を助ける人間でいることができたという喜びの入り交じるものだったのかも知れない。犯人を明らかにする知恵働きで評価されたいという自己肯定と善意。その無邪気さが原因ともなって、この件があっても今なお知恵働きをやめることはできない小鳩くんの性根を自覚しつつ、謎の本丸を避けて暴けば暴ける安易な人間関係に推理を進めてしまった失敗を糧に生きていくことになる。
小鳩常悟朗が中学生当時は相手の事情を色恋関係ぐらいにしか推測できなかったという事実は、小鳩小佐内の関係もまた複雑な内面を抱えていようとも外部からは端的にそうとしか思われない、ということの反映でもある。自分のしたことが返ってくるという仕掛けが幾重にも張り巡らされている。
『冬期限定ボンボンショコラ事件』及び「小市民シリーズ」ネタバレ感想補遺または続編 - 蝸牛の翅(つばさ)
こちらの感想がかなり丁寧に作品を読んでいて、私はこの作品の半分も読めてないなと思った。「報い」に関する読解もなるほどだ。被害を受けないように影から動くことが常態化してしまったせいで小鳩くんだけが恨みを買い標的にされてしまう、影の支配者的な行動の報い。
確かに小鳩くんにとって小佐内さんを助けられたことは悪くない選択だったんだろうけれど、そこで小佐内さんに対しては間違った解答をし続けている、という指摘は確かにそうだ。語り手は人の感情が分からないので、するっと読んでいるとそこを踏まえた部分を読み落としかねない。事件をめぐる死角が見えても、語りの死角について小鳩くんはまだまだ分かっていない、という二重の死角をめぐるトリックがここにある。
でも冬期を読むと分かるように、人の心が分からないというのは普通そうするような、没論理と言われる偏見からの行動をしないことによって小佐内さんに認められるわけで、事態は二重になっている。ということは以下の記事でも言われていた。
米澤穂信『冬期限定ボンボンショコラ事件』及び「小市民シリーズ」ネタバレ感想 - 蝸牛の翅(つばさ)
小佐内さんの心情を小鳩くんの語りの隙間から窺おうとする探偵めいた記事になっていて面白い。冬期を読むと小佐内さんの小鳩くんへの感情はぼんやりとは分かると思うけれども、非常に具体的に指摘している。先に続篇をリンクしてしまったけど、この二つの記事は小市民シリーズについてもっとも深く読んだ論考なのではないだろうか。他にあるのか調べてないけど。小市民シリーズについてはこの二つの総括記事で充分で私が何か書くこともない気もしたけど、まあ自分の感想として書いている。
しかし、小柄な少女がいかに世人から舐められ、軽く見られ、時には強引な性的接触を受けるか、そしてそれがいかに男性には理解されないか、ということを基底的な主題としてこのシリーズが始まっているというのは驚くべきものがあるような気がする。誰か身内か親しい人に小柄な女性がいたのかも知れない。
あんまり冷静だから、小佐内がお前を刺したんじゃないかと思ったらしい。31P
これ、秋に続いていつでも小佐内さんが犯人扱いされるの笑ってしまう。
小佐内さんはほとんど弱みを見せない、というか弱音を言っている時でも弱っていたり怯えていたりするようには見えないように描かれている。怯えを見せたり弱っているように見せれば同情的に見る人は増えるかも知れない。しかしそれは憐れみを向けられたり、軽く見られ、舐められることと同義なので小佐内さんはそのルートを取らない。理解されないからと言って同情を誘うこともしない、そこに小佐内さんの毅然としたあり方がある。しかしその裏には相応に不安や怯えや恐怖を抱えており、それが見えづらいからこそ小佐内さんは一方的な攻撃性の塊のように見えていて、小鳩くんもそうだし、それ以上に読者や視聴者もそうだったりする。
そう理解しようとしたとしても小佐内さんの冤罪ひっかぶせとか瓜野くんに対するえげつない行為などの事績については賛否が分れるというのも分からないではない。ただ、瓜野くんについては、あのキス未遂はつまり性暴力だったわけで、だからこそ彼の功名心や有能さアピールなどの男性性を根底から挫く作戦に出たんだろうとは思う。あるいは、まだ小鳩くんともしていないファーストキスを奪われそうになったことにシンプルに激怒した、という可憐な乙女としての心情を推察しても良いかもしれない。
しかし車が消えるトリック、なるほどと思うけどでもあんまり納得感がないのはさらっと片付けられてしまうからかも知れない。あと「塩味(しおみ)」という表記、これシオアジかエンミで音訓を揃える方がすわりが良い気がする。辞書でもこの読みは出てくるんだけどこの読みにする理由が何かあるんじゃないかと思った。
本と言うよりイベントだけれど簡単な感想をここで。
実はこれはまだ通読していないのだけれど該当論文は読んだ。年譜にあるけれど、やなせたかしの詩集を出すために山梨シルクセンター(サンリオ)が出版部を作ったわけで、山野浩一が監修するサンリオSF文庫が生まれる遠因がやなせにあるというのが面白い。
本屋lighthouseの通販に挾み込まれた紙片に書かれていた?という短文を集めた小冊子。独特の由来を持つ通り、不可思議な、異界的な一瞬を切り取って駆け抜けるような感触の、いつものスタイルをより圧縮した散文詩的なたたずまい。目次にタイトルを付された文章はそういうスタイルだけれど、左ページに日付とともに載っているのは短い日記のような文章で、抽象と具象を反復していくような体裁を持つ本になっている。
日常の出来事や気づいたことを短く書き留めている、それぞれは三ページほどの短い文章になっていて、「全部私小説だと思って書いている」とあるけれども確かにたくさんの小説の小さな芽のようでもあり、まだそれが本格的に成長する前のスナップショットという感じがある。平和教育、平和都市の広島に住んでいてなおなぜ投票率が著しく低い都市になってしまっているのかという問い、平和教育が「物語」にしかなっていないのでは、という懸念が書き留められており、著者が様々な政治運動にかかわり、ツイッターでも毎回戦争反対絶対反対と付記していた姿勢が覗える。
近くに遠くにいろいろなものが潜んでいて、それに気づくことの面白さと不思議さがいままでもこれからも多分私になにかを書かせてくれる。115P
著者にとっての書くことの原点をこんな風に表現してもいる。しかし「小山田浩子」ってペンネームだったのか、とちょっと驚いた。
以前イベントでも話されていたけれど、東京に来て出会った最初の有名人がアントニオ猪木だったため、とうきょう、と聞くと猪木のイメージが不可分になってしまっているという話は笑ってしまう。あと最近流行りのかき氷を「複雑なかき氷」と表現してるのがだいぶ良かった。
読んでいても慄然とするのは「お金」の章、家具類を整理することになって色々ひっくり返していたら棚から出るわ出るわの合計12万円の現金が出て来た話はすごかった。多めに用意したピン札を取っておいたのが出てくるのとかはまだ分かるけど、由来の分からないお金がたくさんあるのは怖い。
子供の頃の作文でお題を出されて物語を書くという課題が出た時、空想が広がる余地などなくただ子供二人を宝島に到達させるにはどうすれば現実的に可能かを考えいつまで経っても物語が始まらない長文を提出したという話は、ある種ありふれた小説を書くことに躓いたからこそ作家をやっている、とも思えて、これはこれで作家らしいエピソードでもあると思った。たとえば後藤明生がストーブの説明書きを書き写したような。
エッセイなら普通もっと必要に応じたものが書かれていくものだと思うけれども、ここでの雑然とした人の会話などの描写によって状況を構成する要素を積み上げていて、書き手の文脈、物語に回収されないものがそこにあり、空間や状況の再現を試みているような独特の読み味がある。確かに小説的。書いているうちに虚実が混ざり、複数回の経験が圧縮されていたり、まえがきに曰く、「エッセイなのですが私小説であり、事実でありフィクションでもある」、著者ならではの文章になっている。刊行が遅れて別の版元から出たのは担当編集が退社して連載が宙に浮いたからか、と窺えるところもある。
イタズラをする子供を叱って泣き出してしまい、周囲の客から非難のように聞こえる言葉を耳にして、とてもじゃないけど落ち着いた気持ちにはなれない状況で食べたために一切味の記憶がないラーメン屋を再訪する話がなんともいたたまれないエピソードもある。しかし概ねおいしい料理を味わったエピソードでもあって、そこにまつわる周囲の状況や過去の回想という食事を媒介にしてさまざまな話が語られていて、コロナ禍での状況や女性としての困難、あるいは「河合夫妻逮捕」といった時事問題と不可分の生活が語られるのも連載という形式の面白みだ。
「思い出のお好み焼き」という章は、お好み焼きを出前で届けてくれるという広島特有ではないかという場面から回想が始まり、母の作ってくれていたお好み焼きの味や自分たちで作ってみたら案外難しかったり、行列のできるお好み焼き屋が自作よりだいぶまずかったという幾つもの思い出を経て、冒頭の出前が届くという構成のうちに広島人のお好み焼きにまつわる思いを詰め込んだ、とりわけ見事な一篇だった。
書き下ろしの最後の一篇「ファミレスのハッピーアワー」は平日昼間、ビールが格安のファミレスのハッピーアワーに一人で来た時のことを書いたもので、帯に取られた「誰もがハッピーなアワーを過ごす権利がある、それを忘れないようにする」の前に「誰もが、パレスチナの人々ももちろん」とある。
どうしたらいいのか本当は全然分からない。でも、でもだからなにもしない見ない知らない聞かないでいることをしない、誰もが、パレスチナの人々ももちろん、誰もがハッピーなアワーを過ごす権利がある、それを忘れないようにする。ちょっと酔っている。でもまだ普通に歩ける。266P
後半の部分だけなら雰囲気の良い文言だけれど、実際に読んでみるとそこにはさまざまな社会的政治的な意味合いが込められたものだったことが分かるのが読んでいて刺さる瞬間だった。私小説的スタイルにつねにこの意識があるのが作者の抵抗の実践でもあるんだろう。
少数者が政権を独占していた貴族政にあっては、役人も役人を裁く側も、どちらも狭い範囲のエリート階層出身であった以上、収賄罪をきびしく摘発するしくみは期待できなかった。民衆がエリートの犯罪を裁くことができる民主政の世の中になってこそ、贈収賄といった公職者の罪を告発することが、一般市民にも可能になったのである。賄賂に対するきびしい社会規範や法的訴追制度の発展は、やはり民主政の完成を前提条件としたものであった。141P
デモステネスいわく、
つまり、富裕者が富の力によって正義をゆがめることこそ、賄賂が悪であるゆえんである、というのである。富の力が司法という民主政の意思決定過程に、賄賂という形で影響をあたえることに、彼は不正義を見いだしたのであった。144P
人を殺すことはなかったけれども強烈な下痢、マラリアなど病続きで過酷な軍隊経験を語っていくわけだけれども、そこには常に疑いと後悔とがあり、語りを蛇行させていく。
だが、こんな物語は、北川にはしゃべれない。あのとき、北川がぼくにはなしてくれたのとは内容がちがうというのではない。内容もちがうだろうが、内容の問題ではない。内容もちがうだろうが、内容の問題ではない。いや、それを内容にしてしまったのが、ぼくのウソだった。あのとき、北川がぼくにはなした、そのことがすべてなのに、ぼくは、その内容を物語にした。65P
この「内容」と「物語」をめぐる逡巡。語る時にはどうしても「物語用語」を使った「物語」になってしまうという逃れられなさ。
「そんなのには、説明用の時間がある。変化には時間がある。しかし、これは、ひょいと、そこに、ウドンがあったのだ、気がついたら、ひょいと、そこに……というのもちがう。気がついたら、というのにも時間がある。なにかがウドンになったのではない。なにかになるのには時間があるが、ひょいと、そこにあるのには、時間はない。
なんにでも時間があるとおもうのは、ある視点にたっての、そういう見方だろう。実際には、こんなふうに、時間がないことも、ちょいちょいあるのではないか。なにかを物語るときには、どうしても、時間がいるのだろうか……。」187P
「ぼくは、なにかを事実とよぶことにも、疑いをもつ。事実といえば、事実そのままで、これくらいはっきりしたものはない、とおっしゃるだろう。しかし、そういうことになっているのが事実で、これも、やはり物語用語ではないかともおもうのだ。」213P
「寝台の穴」という一篇はコレラ患者がわざわざトイレまで行かなくて良いように寝台に尻をはめるための穴があることから始まる。軍隊では軍靴の方に足を合わせろ、という言葉を「合理」と語り手は呼んでいるけれども、この下りは「物語用語」に合わせてものを語ることについての話でもあるだろう。人に通じる言葉を使って語る以上、「寝台の穴」「軍靴」のようなできあいの形に自分をはめていくことが「合理」となる、という「物語」の引力をめぐり蛇行と逡巡を重ねながら語りを続けていくような連作集だと思った。
芥川龍之介の「地獄変」を「藪の中」の語りの手法で再解釈するという短篇。この二作を女性への暴力が埋め込まれた「レイプ小説」として捉え、結び合わせ、近代文学の名作のミソジニーを批判的に裏返すという批評的再読の試み。
芥川の短篇を踏まえたものと知ってまず「地獄変」と「藪の中」を久しぶりに読み返すことから始めたけれど、「藪の中」は殺されたのは女性だという印象があったけど違っていて、それでいて終盤の展開にはいずれにしろ女性を悪女として描くところがあって、これは結構記憶と印象が違っていた。「地獄変」はちょっとさらっと読んでしまったところ、最後になっても妙に釈然としないところがあって、作者のコメントで「信頼できない語り手」の作品とあってその発想はなかったので、なるほどそう考えると字面を読んだだけだと受取り損ねるなと。
「娘に懸想した大殿様の横暴に、絵師が芸術の次元で打ち克つ」というのが「地獄変」の定番の解釈らしく、これも結構意外だった。絵師自身は娘を捧げたのではなく、大殿から取り戻そうとしており、燃やされる時も助けに行こうとしていて、決して捧げるつもりではないのも読み返して気づいた。
今作は「地獄変」において、娘と大殿と絵師の父との関係を複数の視点でそれぞれの解釈によって何度も塗り替えながら展開していく、物語読解の多様性それ自体を主題にしたような短篇になっていて、「藪の中」がそれ自体物語の複数の解釈のモデルでもあると見るようなメタフィクションになっている。
芥川龍之介は二十年くらい前に文庫版全集はとりあえず小説部分だけは揃えて読み始めていたんだけど、一巻100ページくらい読んだところで止まったままだった。樺山さんはこの同人誌で日本近代文学の再読と読み換えを試みる短篇を連作として続けていくのだろうか。「団地妻B」とかそういう読み換え系短篇は既に結構ある気がするけど、まとまることはないのかな。
「愛らしいものはいつも誘拐される」、表題作のこの不穏な言葉、キュートアグレッションを思い出すくだりでもある。「眠りの代わりに死を願いそうになる」語り手など、美的なものを求めつつどこかで死や終末を待望する生と死の狭間の感覚がある。
第三篇の「れいめい」は玲と明、二人のあいだでやりとりされる言葉が切り詰められたり造語をしたりと二人にしか分からない言葉が次々と作られていく様子が親密さを示唆しながら、次第に言葉がほとんど祝詞のようにもなっていく呪術的雰囲気がある。この雰囲気は『祝福』にも通じるし、この小著を高原入門として読んでみるのも良いかもしれない。
物語的というよりは詩的と言った方が良いようなニュアンスの本で、ミルキィイソベによる造本も美しい一冊だ。
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