前回私は、現状の民主主義を、その機能から“選挙主義”という名前で定義し、その問題点を整理していった。
代表に相応しい人間が、候補者にいなかったら?
現状の仕組みは、国民の意思を政治に反映する物になっているか?
問題ある代表が選ばれたとき、静止する仕組みは機能しているか?
そもそも『国民が選んだ』を免罪符に、好き放題できるようになっていないか?
あらゆるレベルにおいて、現状の“選挙主義”は構造問題を抱えていた。
だが同時に、それがこれまでの社会において、一定の合理性を持っていたことも認めている。
政治権力に安全装置を付けると、それ自体が権力化してしまう、という際限のない問題が発生してしまう。
ならば、無駄に組織を膨らませない意味でも、『国民が選んだ代表を信じる』というのは、合理性は存在するのだ。
だが、それが改善を放棄してよい、という理由にはならない。
では、どのようにしたら政治は、国民主権、民主主義を誕生させることが出来るのだろうか。
中編は、その一つの解答をまとめていきたい。
さて、前回も繰り返した通り、システムとは『最悪を回避する』事が大前提となる。
だが、現行の“選挙主義”では、最悪の政治家が選出される可能性、というのはどうしても排除することが出来ない。
そして――この問題は解決することが出来ない。
理由は、前回も記したとおりだ。
これを無理に解決してしまう――例えば立候補にあたって思想チェックが入るとか、何らかのテストでいて一定以上のテンスを取る、等の事前のふるい落としを掛けてしまうと、違う問題が発生するためだ。
一つは、システム上の公平性の問題、国民が選ぶ前提であるのに、その前に国民が選べない枠を作ってしまうことになる。
もう一つは、リスク管理上の問題、振るい落しを行う側に問題が発生した場合、『国民が望むような人間がそもそも候補として立てない仕組みになる』という危険を排除できない。
よって、これは解決できないというよりも、解決してはいけない問題、という事になる。
では、どうすればよいのか?
そんなに難しい問題ではない、要は、選挙結果と政治権力を、切り離してしまえば良いのだ。
そもそも、政治家の『政治権力』とは、どんな力だろうか?
ここで多くの人は、代表として選ばれた、という事実に付随する力では? と思うかも知れないが、違う。
代表に選ばれただけでは、実際の権力は手に入らないのだ。
もし代表に選ばれた、という事実に権力が発生するなら、与党でも野党でも関係ないことになってしまうが、大きな権力を持つのは与党政治家だけだ。
では、政治権力とは何なのか――それは『国の予算へ決定力』だ。
これは考えてみれば当たり前の話で、国民に選ばれたからこの席に座ってます、けれど何も決めることは出来ません、では誰も価値を感じない。
逆に、その人間が国民から選ばれるというプロセスを経ていなくても、『国家の予算・利権に決定権があります』となれば、誰もが大きな価値を感じるだろう。
つまり、“選挙主義”の選挙とは、政治権力を持たせるための儀式ではあるが、その結果自体が政治権力を発生させる、というわけではない。
権力の厳選とは、現代社会において『金の決定力』なのだ。
となれば、本当の国民主権を実現する方法も見えてくる。
つまり、『金の決定力』を国民の側に移してしまえば良いわけだ。
さて、『金の決定力』が権力であるならば、国民が国家主権を握る手段は極めて単純となる。
それは、予算の使い方の最終決定権を、国民が握ってしまえば良い、というだけの話だ。
やり方は極めて簡単、国の仕事を無数の選択肢に分散して、それに対して国民が、やって欲しい仕事を選択し、毎月直接『予算の振り込み』を行えば良いのだ。
うん、デジタル時代である現代なら、この程度の仕組みあっという間だ。
無論、国には『欠くことの出来ない仕事』というのもある。
国防・治安・教育のような制度で、これらは『毎月一定額』が決められている物とし、段階的に『医療』や『文化財保全』といった国に欠くことは出来ないが国民にも一定の負担を求める枠、『スポーツ振興』『文化振興』のような、今後の国の方向性として完全に国民に予算を委ねる枠の3段階にしてしまえば良い。
すると、ここまでは全て『予算を受け取った官僚の仕事』に整理できる。
うん、『既にある仕事』を行うのは、政治家である必要はなく、むしろ専門家に預けてしまった方が良いからだ。
そして、ここから先が政治家の仕事。
つまり、『新規事業の立ち上げ』と、『不要な事業の廃止』である。
だが、それらをやろうにも、そもそも財布は『国民主権』の名のもとに国民が握っているので、この時点では政治家には何の実行力もない。
よって政治家は、自身の理念と理想を国民に説明・説得し、理解を得て、不要事業の予算削減・新規事業への予算獲得を行わなければならないわけだ。
国民に事業を説明し、理解を得て、予算を確保する、政治家の本来の仕事といえる。
では、このシステムの利点と問題点、その解決に一案について考えていこう。
この政治システムの利点は多い。
何せ国民にすれば『何に使われているか』という納得感が高いし、国民が直接予算を出すので『予算の透明性』も高い、政治家は毎月の予算を得る為に成果を示さなければならないので『説明責任』もバッチリだ。
税金で予算を集めて、国民不在で決定が行われる、現行の政治システムと比較すれば、その利点は明らかだ。
加えて、無駄な予算の削減も出来る。
何せ『国民が直接予算を管理』するとなれば、多くの国民が無駄と判断した事業予算は、すぐに消えてなくなる。
そして政治システムにおける最大の利点、それは、『能力の足りない政治家が選ばれても、決定力を持てない』事だ。
当たり前だ、国民が実行して欲しい事業を提案・説明できなければ、そもそも予算が集まらない。
そう、選挙主義最大の問題点を、このクラファン型政治システムはカバーできるわけだ。
逆に、国民の実現して欲しい提案の出来る、説明能力の高い政治家は、国民から予算を得て、実績を積むことが出来る。
政党政治も意味を失う、決定権は『議員の一票』ではなく、『国民の選択』にかかっているからだ。
どんな事業を提案するか、というプロジェクト単位の集合は出来ても、常に一塊となって人数を確保する、という事の利点が消滅するのだ。
というわけで、クラファン型の政治システムは、予算面でも、透明性でも、国民の政治参加でも、政治家に本来の仕事をさせるという意味からでさえ、非常に利点が多いわけだ。
――が、無論問題もある。
よって次は、その問題点と解決の方法について、軽く触れてみたい。
クラファン型政治システムは、先ほども述べた通り利点が多い。
だが、無論問題点も存在する――それは、『予算を出せる人間が決定権を持つ』という点だ。
選挙の原則は一人一票、国民一人一人が同じ権利を保有している前提がある。
これはまぁ、企業の組織票とかを考えたら建前ではあるが、けれど、建前は大事だ。
それを蔑ろにすると、そこからズルズルとシステム全体が崩れてしまう。
そしてその一人一票の原則に対して、クラウドファンディングというシステムは相性が悪いわけである。
何せクラウドファンディングとは、予算を集めるのが目的であって、『誰からどれだけ集めるか』は関係ない。
よって、クラウドファンディングのシステムをそのまま政治に導入してしまうと、大量に予算を出せる富裕層が、少数で政策の決定権を持ち、大勢を説得、理解を得るよりも少数の方が手間の掛からない政治家は、政策全体をそちらに偏らせる、という危険があるわけだ。
一人一票、という大前提があるからこそ、国民の多くに公平な政治が実行できる、という建前が完全に崩壊してしまうわけだ。
――が、クラウドファンディングのシステムを直接導入できないなら、その仕組みを応用して、問題のない形に変えてしまえば良い。
が、それをここから始めると長くなりすぎてしまうので、その説明については時間に譲るとしよう。
次回は、クラファン型民主主義その問題解決策と、可能性について考えていきたい。
今回の記事は、政治家ならば『言わないでくれ』と思うような内容が多かったかもしれない。
近代、国家は国民に『選挙権』を与えることで、『これが国民主権だ』と言ってきたし、
多くの国民も、そう学習し、それを信じて生きてきたからだ。
だから、政治家は失敗の責任を本質的には求められること無く、不満なら落選させればよい、それが民主主義なのだ、と言われてきた。
だが、本当は殆どの国民が分かっていたはずだ。
――民主主義など建前だけ、国民に主権など存在しない、と。
与えられているのは、どこまで効果があるかも疑わしい、けれどこれしか政治への干渉力を与えられていない、選挙という一瞬における一票だけだ――と。
しかしクラファン型政治システムは、『予算を国民が握る』ことで、国民が直接的に主権を行使することの出来るシステムになる。
ではその理念をお伝えしたところで、具体的な制度設計については、次回に譲りたいと思う。
本記事の前編はこちら↓
国民無視の政治家が生まれる理由は政治システムの欠陥――クラファン型政治の提案(前編)
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