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世界一の税金嫌い(暫定)

国民無視の政治家が生まれる理由は政治システムの欠陥――クラファン型政治の提案(前編)

日本は一応、民主主義の国……であるはずだ。

――が、国民の意思が政治に反映されている、と感じている人は、果たしてどれだけいるだろうか?

とりあえず私は、政治に国民の意思が反映されている事の方が、少ないのではないだろうか、と思わざるを得ない。

例えば公共事業、本当に必要性と価値を、国民が納得した事業は何割あるのだろうか?

例えばODA、日本の現状を鑑みて、相手国を救いたい、と思っている人はどれほどだろうか?

それよりもっとやって欲しいことが無数にある――そう思っている人はいないだろうか?

日本は果たして、民主主義国を名乗る事が出来るほど、国民の意思が政治に反映される国だろうか。

今回は、政治システムの在り方と、国民の意思が反映されるためには、どんな仕組みが合理的であるのか、そこのところについて、少し深掘りをしていってみたい。

 

選挙主義国――日本

立候補者の質をどう保つか

さて、冒頭から日本の『民主主義国』と言う立場に疑問を投げかけた以上、日本の政治体制を先に規定しなければならない――が、これは考えるまでもないだろう。

日本は『選挙によって代表を選び、その代表が政治を行う国』である。

この仕組みによって維持されるシステムが『民主主義』と呼ぶに相応しいか疑問がある、となれば、現状のシステムは『選挙主義』と名を変えて整理してしまえばよい。

と言うわけで、本記事における日本の政治システムは『選挙主義』という事になった。

さて、その上で最初の、そして最大の問題がある。

それは――立候補者の質の問題だ。

仮に5人の立候補者がいたとして、有権者の殆どが『いや、全員代表に相応しくないだろ』と思っていたとしよう

だが、『選挙主義』である以上、候補者外から選ぶことは出来ない。

つまり、『最初から相応しくないと考えている人間を、代表に選ばねばならない』と言う状況は普通に発生しうるし、おそらく、これまでも無数に発生している。

だが、同時に『主張の内容』によって候補者から弾くのは、システム的な公平性・安全性の観点から言ってよろしくない。

それを許してしまうと、いくらでも恣意的な選別が出来てしまうからだ。

と言うわけで、選挙主義はここで早速詰むことになる。

 

国民の意思が反映されない政治

選挙結果は、国民の投票活動の結果は反映する。

だが、上記のように『誰も代表に相応しいとは思えない』と大勢が思っている候補者が当選すれば、高確率で『国民の意思が反映されない政治』が実行されることになる。

もしかしたら奇跡的に、実はその人は大勢が誤解しているだけで、素晴らしい政治家であった、と言う可能性も無くはないが……奇跡に頼るのは、もはやシステムとは呼ばない。

すると何が起きるのか?

選挙結果を盾に、『民意を得た』と金看板を与えられた政治家が、国民の意思とは無関係な政治を、堂々と行う事が出来るようになる。

国民に止めることは出来ない。

何故なら、そうした仕組みはほぼほぼ存在しないからだ。

一応、不信任を出すという手も無くはないが……即効性と実現性の双方に壁があるし、何よりも、『代表に相応しい候補者がそもそもいなかった』のなら、多大な労力を払って選挙結果を覆しても、得られるものは極めて少ない。

無論、上手く機能するときは上手く機能する。

素晴らしい候補者がいることもあるだろうし、そんな政治家が国民を代表して、良い政治を行う事は普通に考えられる。

というか、そもそもそれこそが『選挙主義』の目指すところだ――が、それは言わば幸運を前提にしたシステム建築と言える。

毎回宝くじで当たりを引き続ける幸運に期待する。

そんな制度設計は、そもそも設計ミスではないだろうか?

少なくとも、私にそんな幸運はとてもない。

宝くじ依存で人生設計を組み立てたら、生活があっという間に破綻してしまうに決まっている。

 

政治制度はどうあるべきか

システム設計の大前提

さて、システムを設計する上で、絶対に考えなければならない要素は一つだけだ。

『いかに最悪を回避するか』

これである。

例えば車、現実的・物理的限界はあれど、とにかく乗員を守るために全力を尽くす。

例えば機械、分かり易い位置に非常停止ボタンを取り付けるのは常識だ。

例えば企業、自然災害やシステム障害があっても、重要な事業は継続できるよう考える。

例えば家庭、病気・怪我・災害に対応するため、保険によって備えを考える。

うん、社会におけるあらゆる分野、あらゆる場面において、『最悪への備え』は常に意識されるものなのだ。

だが、国家を運営する、と言う超重要案件である政治においては、その機能が存在しない。

一応、存在自体はしているが、利用に現実性がない。

前述した通り、システムとは常に「最悪を避けるため」の仕組みを優先しなくてはならない。
これは工業、医療、金融、軍事などあらゆる分野の常識である。
だが政治制度だけが例外で、
成功したらラッキー”という構造のまま百年以上運用されてきた。

これは制度設計としてあまりにも異常だ。
「うまくいくと信じて動く」システムが、国家運営に割り当てられている。

これは、政治システムの危機管理構造が、一般家庭以下である、と考えるに十分な状況なのではないだろうか。

なお、一応「内閣不信任」という安全装置はある。
だが、実際にはほとんど使えない。
なぜか?

  1. 議席過半数を押さえている政権にはそもそも届かない
  2. 不信任を出すには野党の大義名分と政治リスクが大きすぎる
  3. 不信任成功後も、代わりに誰がやるのか問題が即座に降ってくる
  4. 国民は“選挙疲れ”を起こすため頻発が許されない

こうして、不信任という本来の安全装置は
「理論上はあるが実質機能しない」
という状態に置かれている。

もはやこれは『暴走を止める安全装置』ではなく、

一か八かで『政権交代を賭けたスイッチ』に過ぎないのだ。

 

何故そんな仕組みなのか?

当たり前だが、この程度の危険性は、大勢が気づいていたに違いない。

言われるまでもない、と思う人は大勢いるはずだ。

が、それでも何故この仕組みが維持されてきたのか――それはおそらく、『現実的な代替案』が無かったから、ではないだろうか。

政治とは巨大な権力だ。

そして、巨大な権力に細かな安全装置を取り付けていくと――概ね機能不全に陥る。

例えば、政治家を監視するための監視機関を作るとしよう。

そうなれば、今度はそこが巨大な権力を持つことになる。

巨大な権力を持つのであれば、やはり選挙で選ぶべきだろうか?

では、その選挙で選ぶ人間の能力や妥当性は、どのように確保すればよいのか。

加えて、監視機関が妥当に機能しているかどうかもまた、問題になってくる。

かくして、監視網は鼬ごっこで膨らみ、監視システムは意思決定に多大な負荷をかけ、様々な仕事が停滞するのは目に見えている。

よって、『ともあれ国民が代表を選んだ』といえる『選挙主義』は、一定の合理性があったのだ。

 

――だが、それは改善を放棄してよい理由にはならない。

 

まとめ

私たちは、『選挙で代表を選ぶ』ことを『民主主義』と呼んできた。

だがそれは、政治への民意の反映を保障するシステムではなかった。

ただ『選挙によって誰か代表を選ぶ』だけのシステム。

よって私は、これを“選挙主義”と整理したのだ。

民主主義とは、

『国民の意思が反映される』

事を目指している。

現状の選挙主義は、

『国民が選んだことにしてしまえば、後は何をしても良い』

という構造が含まれている。

この違いをご理解いただいたところで、

次回は、この“選挙主義の合理性”を残しながら、
民意が実際に反映される仕組みをどう組み直せるかを考えてみたい。



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