大阪市立美術館
(2025/10/25-2026/1/12)
西暦2世紀(紀元150年頃)
大理石
像高193cm
ナポリ国立考古学博物館蔵

>
ギリシャ神話に登場する巨人アトラスは、オリュンポスの神々との戦いに敗れ、最高神ゼウスから見せしめとして天球を背負うよう命じられた。その悲しい姿が令和の今とても美しかった。
1546年頃、ローマのカラカラ浴場跡で発見され、名門貴族アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の所有に。その後、同家の宮殿に長く置かれたことから、「ファルネーゼのアトラス」と呼ばれる。1786年、ブルボン家の支配下でナポリに移動。現在はナポリ国立博物館の所蔵となっている。ヘレニズム時代の彫刻をローマ時代に模刻したものとみられ、制作時期は紀元150年頃だという。発掘時に残っていたのは天球と胴体、顔の一部で、手足などは16世紀の補作。当初部分と補作の境目などつい探してしまったのだが、それは仏像愛好家の習性か(笑) そして、なぜか慶派と比べてしまう(苦笑)
このアトラスさま、今も裸で、重い重い天球を背負い続けている。さらに、極東の地、日本に来て、多くの人々の目にさらされていた! ちょっとかわいそう。だけど、私はお会いできて嬉しかった! ご出身地であるローマのカラカラ浴場跡をダーリンと二人で訪ねた日のことも思い出した。だいぶ前の旅の記憶ではある。だが、とてつもなく長い歴史を重ねたアトラス様には、ほんの昨日のことのようだね、と笑われそう。

なお、大阪市美の企画展示「尊きものー神仏の美術」(2025/11/8-12/21)では、浄厳院「阿弥陀聖衆来迎図」(平安11-12世紀 重文)と小童寺「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(鎌倉14世紀 重文)がとてもよかった。浄厳院の来迎図は平安の和らぎがあり、一目拝見して私はとろけてしまった。小童寺の来迎図では、二十五菩薩菩薩が山の向こうからぞろぞろとお出ましになる。菩薩それぞれがいきいきと描かれ、来迎への憧れを加速させる。来迎図の隣の部屋には、神戸の古刹、太山寺の羅漢像2幅(14世紀)も。アトラス像はイタリアに帰ってしまうが、大阪市美の仏画はまた拝観の機会がありますように
信濃の平安鎌倉仏を巡ろう
〜佐久から上田平をぶっちぎり〜
知る人ぞ知る信濃の平安鎌倉の隠れ仏を巡る旅。お寺さまおよび役所や公民館の皆さまに大変お世話になった。8月初めの日曜日で、檀家寺さまは大変お忙しい時期。ご縁をつないでくださった皆様に心からの感謝を申し上げる。
・説法印阿弥陀如来坐像および両脇侍立像
鎌倉時代寛元年間(1243-47)頃 県宝
(『國華』1547号武笠先生の論文に、先月参拝した山形市・慈光明院の説法印阿弥陀如来坐像および寒河江市・慈恩寺の脇侍立像との近似性が論じられる)
・法燈国師像 県宝 像高127.4cm南北朝時代


・千手観音菩薩坐像
・十一面観音菩薩立像
・二十八部衆 など
平安後期と思われる千手観音坐像があまりに美しい。聖観音菩薩立像と不動明王像が盗難にあい、戻ってきていない。詳しい拝観記録はこちら→【信濃仏】観龍寺(千曲市)で”隠れ仏”を拝む - ぶつぞうな日々 part III
・鎌倉仏という文化財指定なのだが、もっと古様な気がして、うーむうーむと唸り続けた
・文化財指定のない菩薩立像が見事な鎌倉仏にしか見えなくて、さらに、うーむうーむと唸る
・お寺は盛衰を繰り返し、これら仏像群は現在は別の地区のお寺の所蔵となっているが、元のお寺のあった地区の公民館に今もまつられ、地区の皆さまに大切に守られている。尊い仕事をされている皆さまに心からの敬意を表したい
・ぼろぼろになった昔のお堂も合わせて参拝

仁科盛家の家族が造立した覚音寺千手観音立像と多聞天立像(安曇野市)
妙海の最初の作とされる光久寺日光月光菩薩立像(安曇野市)
1203 年滋野一族による真光寺阿弥陀如来および両菩薩像(松本市)
観松院の銅造菩薩半跏像(松川村)など。
正福寺の不動明王立像(安曇野市)は初めて拝見したが、写真から想像していたより大きく、身体のひねりが独特で驚いた。
このように松本平の仏像が展示されていた。廃仏毀釈が激しかった地域でありながら、このように古仏が残ることに、心の平安を覚える。
展覧会では、千曲市営の霊園で永代供養墓の需要増を例に挙げ、最近の墓仕舞いや供養の変化にまで言及。古代の仏像から令和の信仰まで辿る意欲的な構成だった。
午年は観音さまのご開帳ラッシュイヤー! 以下、気になるところのメモ書きです(※今年開かないところも混じってますこと予めお詫びします)
1)正法寺(群馬県太田市)
ご本尊聖観音菩薩さま
12年に一度、午年の4月18日のみのご開帳
ついにやってきた午年! 今年も4/18のみで、9-16時頃を予定とのこと
像高155cm
桧の寄木づくり
平安末から鎌倉初
県指定
正法寺聖観音像 - 太田市ホームページ(文化財課)
ちなみに、仁王像は1658年、京都の七条仏師康祐の作で、かなりのイケメン系。市指定。康祐は浜松宝林寺の二十四神像の作者でもあり、興味深い。


2) 七沢観音寺(神奈川県厚木市)
午年ご開帳
2026/2/1-5/31
ご本尊馬頭観音菩薩さま
丈六の大勢至菩薩坐像
この勢至菩薩坐像は弾誓派の丈六の作例で、個人的に大注目。弾誓さま追っかけ活動が未熟のため、まだ拝顔できていない。この機会にお参りできれば

3) 仲仙寺(長野県伊那市)のご開帳は2031年
ご本尊十一面観音菩薩さま、通称、羽広観音さまは、馬の信仰があるので、午年のご開帳を期待。だが、しかし! ホームページには、次回ご開帳は2031年とあり、気が遠くなる!!
ちなみに、こちらの仁王像も京都の七条仏師康忠の作だが、制作年は1501年と正法寺像よりかなり遡る。本堂内の持国天と多聞天が鎌倉時代の作で市指定。かなり距離はあるが、堂外から拝観可能。

4) 大経寺(埼玉県八潮市)
ご本尊千手観音立像(円空さんの作)が子年と午年にご開帳。大きな立像で、私の個人的調べでは展覧会の出展はない。癒されたい方にお勧め。私は12年前の4月のご開帳の時に拝顔。今年も春にご開帳あるのかなぁ

まだあるけど、今日のところはここまで。
何はともあれ、とにかく、ともかく、実に、実に困ってしまうのが、正法寺さま! ご本尊聖観音菩薩立像のレプリカを7年前に高崎の博物館で拝見。その美しさに魅了された。すぐにお寺様にお問い合わせしたが、あくまで午年のこの1日のみしか開けないとのこと。3年前にお堂の前まで行ってみたが、当然ながら、閉まっていた。やっと午年を迎えたので、改めてお電話したところ、やはり今年も4月18日のみとのこと。1日のみは厳しい! お参りしに伺いたいなぁ。行けるかなぁ。この日は他にも開くところがたくさんありそうだが、仏像愛好家の皆さまはどうされるのでしょう。
何年か前、初めてお会いし、一瞬で恋に落ちた阿弥陀如来さま。久しぶりにお会いしたら、またしても一瞬にして恋の炎が燃え上がってしまった。隠れたまま静かに息づいていた炎に油が注がれたようだ。
どこが好きなのかポイントを絞って説明することはできる。でも、そんなものをいくら連ねても、この気持ちは伝えられない。そう考えながらお寺を出て、自転車のペダルを踏んでいたら、スガシカオの名曲が思い出された。
♪だってそうだろう
♪誰かを好きになるのに理由なんていらない
秋の近江、田んぼ沿いの道。こみあげる恋心をこの歌にのせて叫ぶ。稲穂が夕陽を浴びて、黄金色に輝いていた。
2022年秋



仏像は人と人とをつなぎ、過去と現在と未来をつなぐ。2025年はその信念をさらに強めた一年だった。
訪れた寺社は195か所。展覧会も含めると、少なくとも1500超の尊像に拝顔できたのではないだろうか。
出会えた尊像と出会えた人々に心からの感謝を申し上げたい。
ありがとうございました!
みうらじゅん賞を見習って、特に思い入れの強い出会いにヒヨドリ感謝状を捧げたい。
何度も長野に通った一年だった。塩田平、佐久、小諸、松本平、諏訪、そして伊那谷。調べれば調べるほど、通えば通うほど、どんどん古仏と出会ってしまう。それが長野県だった。
善光寺と諏訪大社を抱く信濃には、明治初めの神仏分離を経てなお、古来の信仰が息づく。
仏像のお住まいは、お寺だけではない。無住のお堂や公民館にも。里人が大切にまつるみほとけのお像にたくさんお会いした。
お堂は老朽化しても、地元の集会所で観音さまを守り続ける人々に出会った。ぼろぼろのお堂には、今も、数十年前の賞状が貼られていた。子供の頃は仁王さんに上って遊んだそうだ。おじさまたちのその目は少年に戻っていた。

某公民館の仏像
— はらぺこヒヨドリ (@hphiyodori)2025年8月3日
写真1-2枚目
制作年代が私には難しくて、うーむうーむと唸る
写真3-4枚目
見事な鎌倉仏にしか見えないのだが、文化財無指定とのことで、これまたうーむうーむと唸る
お寺は盛衰を繰り返し、お堂はぼろぼろ。しかし、仏像群は近くの公民館で守られる。尊い#仏像#公民館の仏像pic.twitter.com/213ANgHmuW
4月の長野北部の地震のあと、すぐに覚音寺にご連絡させていただいた。被災した持国天さまにお見舞いにも伺った。一早い修復完了を願っている。
【覚音寺さま勝手に応援4】
— はらぺこヒヨドリ (@hphiyodori)2025年7月4日
4/18の地震で倒れた持国天さまにお会いしてきました。私は「覚音寺さま勝手に応援隊(自称)」なので、皆様に支援を呼びかけたいと思っているのですが、この光景を目の当たりにした衝撃が大きく、なかなか文章がまとまりません…#仏像#覚音寺#震災pic.twitter.com/dx7scZGV4A
2025年は私にとって、再びの妙海イヤーとなった。3件6体の妙海仏を堪能。松本市上波田の仁王像は子どもの味方。福満寺の日光菩薩、月光菩薩像は妙海最晩年の深みあるお像。千曲市の展覧会にも展示があった

上波田地区仁王門(長野県松本市)
— はらぺこヒヨドリ (@hphiyodori)2025年8月8日
善光寺仏師、妙海による、はっちゃっけた仁王像♡
元享2年(1322)
阿形像256cm 吽形像260cm
檜の寄木造り
ねじ曲がった眉に、四角く大きく開いた両目。大きな鼻。全身は筋骨隆々で、スマート。腰下の衣は軽やかに翻る#仏像#信濃仏#妙海pic.twitter.com/BPvpM4HF8i
長い年月を経て、今、こうして、みほとけに出会える奇跡。
そう、これは当然ではない。奇跡なのだ。信濃にフォーカスすることで得られるこの実感。信濃以外の地方仏をめぐる同好の皆様にもご理解いただけるのではないだろうか。
もし叶うなら、これからも信濃仏にお会いしにいきたい。まだまだお会いできていない尊像がたくさんおられるので!
信濃伊那谷、福与村の福沢地区に、俗に円満坊と呼ばれる閻魔堂があるーーー。江戸時代中期の文書にそう記録が残る。
その円満坊の片隅に、仏像の破片が入った麻袋があった。これを戦後に泰阜村出身の彫刻家倉沢興世が修復。
令和の今、この穏やかな平安の阿弥陀如来さまは、小さなお堂に静かにまつられる。
閻魔堂を「えんまん(円満)」と読み替えた洒落心。そして、バラバラの像を修復した地元の皆さまのご功績。
それだけで胸がいっぱい。もう言うことなし。以下の補足説明は蛇足なので、忙しい方はこれ以上読まなくて大丈夫(笑) 専門的な解説は文末に掲げた町作成の解説リーフレット(PDF)をぜひお読みください

さて、ここからは蛇足。上記まとめだけでは拙ブログは終われないのだ(すみません)
まずは、お堂の名称のだじゃれに突っ込んでみたい。
「福與村 福澤」、「一真言宗 俗二圓満坊卜云焔魔堂」。江戸時代中期、『信濃州伊奈郡神社佛閣』にそう記載される。
つまり、このお堂は、本名が閻魔(えんま)堂で、愛称が円満(えんまん)坊だというのである。
「えんま(閻魔)」に「ん」を付けて、「えんまん(円満)」。
まさかの親父ギャグ?
いやいや、そんな単純なものではないと私は思う。
閻魔様といえば、地獄で裁判を司るとても恐ろしい存在。おたおたしていると地獄行きを命じられてしまう。そんなのは嫌だ。だからこそ、なんとかしたくなるのが人情というもの。
閻魔を円満と呼び変えることで、恐怖を希望に塗り替えようという意図が透けて見える!
ユーモアがありつつ、なんだかせつない!!
そんなとんでもない文字変換をやってのけた、当時の人々の心意気に感服せざるをえない。
この円満坊は今も、伊那谷の中央、松川町にある。天竜川の東の山腹に健在なのである。
円満坊の内部には舞台があるそうで、江戸時代には素人歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台として使われていた。幕末安永の頃に焼失したあと、再建。現在は、松川町、福沢自治会の集会所として使用されている。
そして、さらに驚くのは、この円満坊に、平安後期の円満なる表情の阿弥陀如来さまが伝わることだ。



この阿弥陀さま、その穏やかな美しさとは裏腹に、厳しい経験をされている。
かつて、この円満坊の舞台の一角には、バラバラになった仏像が麻の袋に入れられた状態で置かれていたという。昭和の終戦後、萩野仲三郎、丸尾彰三郎らによって文化財調査が行われると、破損した状態ではあるが優れた仏像だと評価される。さらに、昭和33年、下伊那史編纂会の依頼に応じて文部省文化財保護委員会 倉田文作が訪れ、「製作年代は、手法様式よりみて平安時代藤原後期、いわゆる藤原時代の優れたものとして特に注目される」との見解が示される。そして、昭和44年、地元福沢部落によって、円満坊本尊阿弥陀如来修理復元委員会が結成され、町教育委員会の指導協力のもと地元出身の彫刻家倉沢興世に修理復元を依頼。円満坊境内の高台に、耐震耐火コンクリート造りの阿弥陀堂を建て、修復された阿弥陀如来像を安置した。かなりの規模の一大事業である。なんとドラマチックだろう。関わられた皆様に敬意と感謝を伝えたい!
この阿弥陀如来さま、穏やかで上品なお姿である。丸顔に、小さな両目や口、鼻。薄い体躯に、浅く流れる衣文。像高は84.5cm。松川町の資料によると、像の構造は、「頭体幹部を正中線と両耳中央から体側を通る線で矧ぎ合わせた四材から彫り出し、内刳りを施し、割り首を行っています。この根幹材に左肩外側材、両足部材を矧ぎたし、左手は袖口上面と手先矧付けとし、右手は肩、臂、手首で矧いでいると思われます」。さらに、補修の状況について、同資料は以下のように続ける。「現在、表面は胡粉の上に墨を塗っていますが、これは江戸時代の補修といわれます。螺髪に一部が欠損し、鼻が木屎漆の盛り上げによる補修を受けているほか、肉髻珠、白毫珠、両耳朵、右手第一指、第二・三・四・五指半先、左手先、左袖口上面、右膝奥、裳先、像底地付廻りが後補(昭和44年)のものに変わっています」
これら経緯あってのこの美しい阿弥陀如来さま。2025年に出会えた奇跡に感謝したい。
円満坊の境内、阿弥陀堂のすぐ横にもう一つ、小さなお堂がある。2025年に改修工事が終わったばかりで、まだ木の香りが残るお堂には、南北朝時代の十一面観音菩薩坐像と十王像、地蔵菩薩像や不動明王像がまつられている。


・松川町資料館に華厳寺の毘沙門天立像(平安 120cm 寄木造り 町指定有形文化財)が寄託されている。公開時期については館に問い合わせを。
・松川町 清泰寺「木造閻魔王と十王一具」は町指定文化財。拝観は事前問い合わせが望ましい。境内に巨大な徳本上人名号塔もある


※2025年5月26日のメモを掲載※

大阪関西万博2025に合わせて、日本の古美術の粋を集めた展覧会が、大阪市立美術館、奈良国立博物館、京都国立博物館の関西3館で開催中。
私は一つのテーマを掘り下げた企画展が好き。特定の仏師や地域に限定した仏像展は特に好き。料理で言えば、一つのテーマをフルコースで味わいたいのである。その像がなぜ、その時代に、その地域でつくられ、信仰されてきたのか。そんなことが考えられるようになるからだ。
一方、国宝展は、メインディッシュだけを並べるもの。貴重な機会ではあるが、消化不良となりがち。しかも、国宝というだけで、大勢の人が押し寄せ、人と人の頭の間から作品を拝見することになる。
まあ、そうは言ってもね。
やってしまいました、国宝展の3館制覇。
奈良は前期と後期とも鑑賞。
以下、短く感想を。
・百済観音菩薩様がまさかの露出展示かつ360度展示。人混みの中、静かに泣いた。百済観音さま、唯一無二のお像!! この素晴らしさ、言葉にできない!!
明治の終わりから昭和の初めにかけて、奈良国立博物館に展示されていた期間があり、その際に和辻哲郎が拝観し、「百済観音」と称して紹介した…。そんな解説も泣ける。

・唐招提寺礼堂の清凉寺式釈迦如来立像(〜5/18)。礼堂は常時公開されおらず、なかなか拝観できないお像かと。この一室は、優填(うてん)王の話から釈迦如来像を考えるものとなっている。その丁寧な解説から、唐招提寺像と本家清凉寺像との関係も理解できた。奈良の西大寺の清凉寺式釈迦如来立像は、叡尊一門が本家清凉寺像のパワーにあやかろうと、そのそばで彫り上げたという。唐招提寺の清凉寺式釈迦如来立像も、その影響のもとで造られたもので、柔らかな表情や素地に切金など、西大寺像に似る。解説にはなかったかもしれないが、思い返すと、鎌倉極楽寺や茨城県鉾田市の福泉寺の清凉寺式釈迦如来立像も西大寺や唐招提寺の像と同じ雰囲気だ。どちらも叡尊の弟子、忍性のお寺。
後期は唐招提寺像に代わり、本家の清凉寺像を展示。清凉寺本堂より明るい照明を受け、間近で拝観できる。そして、後期には、なんと西大寺の叡尊坐像も同じお部屋にお出まし。泣けます。閉館後の夜、叡尊さんは清凉寺の釈迦如来像の前でお祈りされてるに違いない。

・後期に私の大好きな法華寺阿弥陀来迎図がお出まし! 法華寺の狭い展示室で拝見した時も感動したが、奈良博の広い壁面を使った展示を拝見し、さらに感動。赤い衣を纏い正面を向く阿弥陀さま。斜めにこちらに背を向ける観音菩薩と勢至菩薩。幡を掲げる童子。来迎図好きな私が特に特に好きで好きでたまらない来迎図。

・獅子窟寺薬師如来坐像! 久しぶりに拝観できた! ガラスケースありだが、360度! もう美しくて、凛々しくて、ため息しかでない!! そして、お世話になっている勝林寺のご本尊様とそっくりであることを再確認した。佐々木香輔さま撮影の写真がこれまたとんでもなくすばらしく、お小遣いはたいてクリアファイルを購入。
・新薬師寺本尊薬師如来像の光背化仏
国宝展とうたっていながら、ご本尊様ではなく、その光背の化仏だけの展示。でも、おかげで、化仏の表情の違いなど、解説読みながらじっくり拝見できた。結果よし!
最後に、漢委奴国王の金印の列に並ぼうとしたところ、「今、お並びいただいても、閉館時間になりますと打ち切りです。ご覧いただけない可能性がありますので、ご了承の上でお並びください」と言われる。びっくり。さっさと撤収し、再び獅子窟寺薬師如来像へ。閉館までの時間をじっくり拝見して過ごした。これもまたよし。
会場を出て気づいた。大倉の普賢菩薩像、拝んでない! 金印の待ち列のところにおられたのかな!?
古来から海外とのつながりの中で日本美術を考えるもの。とてもよいテーマで、展示数も多い。だが、仏像の数は少なく、しかも初見の像はない。萬福寺の羅睺羅尊者像が撮影可能。羅睺羅尊者が腹を切り開いて、自分の中に仏がいると示す。その強烈なインパクトが人気の像なのだが、私には強烈すぎ。なにより、悲しすぎる。腹を割って話すという言葉があるが、実際に切り開かないと、理解してもらえないのか。言葉だけでわかりあえないのか。国宝展の片隅で、人と人とのコミュニケーションについて考えてしまった。
(ちなみに、明治古都館の公開もよかった)
【追記】
2025年の年の瀬、一年間の展覧会を振り返ると、奈良の超国宝展が飛び抜けて素晴らしかったと思う。今年5月の短いメモ書きをここに残しておきたい。2025.12.29ヒヨドリ
※参考サイト※
・法隆寺百済観音の画像
「超 国宝-祈りのかがやき-」(奈良国立博物館)開幕。これまでにない国宝展|美術手帖
・唐招提寺釈迦如来立像の画像
礼堂 | 伽藍と名宝 | 唐招提寺
京都浄土宗寺院特別大公開2025
10/12(日)13-15時公開
正覚院(宇治市)
十劫山正覚院長楽寺は、もともと木幡山麓に創建された浄明寺であったが、応仁の乱で焼失し、衰退。安土桃山時代、文禄3年(1594)に、木幡の豪族野田清玄が再建、僧離垢誉(りくよ)を中興とする。
平安の観音像(市指定)と鎌倉時代後期、円派の仏師、朝円による毘沙門天像(府指定)をお目当てにお参りしたのだが、本堂のご本尊阿弥陀如来立像の平成の修理にまつわるお話に感動したし、本堂に隠元さまと独湛さまという黄檗宗の禅僧の文字が掲げられるのもよかった。

本堂のご本尊阿弥陀如来立像は江戸時代の作とされる。法然上人800年大遠忌を機に、平成24年(2012)4月12日から8月9日にかけて修理したところ、胎内から写経や願文等が確認され、さらに光背には江戸中期のご本尊修復に関する記述が発見された。
ご本尊躯内封入物
・阿弥陀経写経と願文
いずれも焼け跡があり、年号の記載がない。願主は(脱)心、同、壽清比丘尼。正覚院には安土桃山時代以降34代の住職の記録が残るが、その中に、この名前の記録がないため、応仁の乱で寺が焼ける前の御歴代の可能性がある。仏師名は聖比丘⚪︎心(⚪︎の文字は判読不明だが、怒に似た文字)。一人三銭を万人講にて一万人から集めたという記述もあるという。3銭とは150〜300円程度(修復時2012年の資料による)とのこと。経済史に疎い私でも、一万人もの多く庶民の皆様が少額ずつ寄進して造立された尊いお像だということはわかる。
・新たな願文
「明暦三年(1657)霜月十八日開眼、願主業蓮正誉」と記載される。
・その他(愛宕山の火防札、イチョウの葉、南天の葉)
愛宕のお札は今も火災避けのパワーがあると信じられている。また、イチョウの葉は古来より火災の際に水を吹くと言われ、また南天には難を転じるの意味もある。
正覚院さま作成資料を読むと、これらの胎内納入物から、住職様が以下のような私的考察をされていることがわかる。
ーー正覚院の創建、再建当時の詳細は不明であるが、応仁の乱による焼失より前、または、1594年の再興より前に、浄土宗寺院として阿弥陀如来さまをお迎えしていたしても不思議ではない。大切なご本尊が火災で焼けてしまったので、新たに造立した阿弥陀如来様(現在のご本尊様)に、古い願文(焼け跡が残るも、焼け残った)と新しい願文の両方収めたのではないか。さらに、愛宕の火防札やイチョウと南天の葉も胎内に収めたところに、「大切なご本尊を失った悲しみ、また新たなご本尊様に対する強い願い、思いが感じられる(正覚院資料原文ママ)」ーー
このご考察はしごく妥当なものだと私には感じられる。これら願文は、宇治市歴史資料館と相談のうえ、裏打ち保存し、ご本尊様の胎内に戻したのだそう。ご本尊様の心臓ともいうべき大切な文書が、修理を経てまた胎内におられることに感銘を受ける。数百年後の修理の際、人々はそれどう受け止めるのだろう。
今回の修復により、ご本尊はきれいに金を貼り直し、今は金色に輝いておられる。お寺様の「これであと200年はだいじょうぶ」とのお言葉が心に沁みた。阿弥陀様の信仰はこうして受け継がれていくのだろう。


像高102.8cm、一木造りで彫眼。平安後期の作として、宇治市の文化財に指定。堂外からの拝観で、観音様がお厨子の中におられるため、お姿はとても見えにくい。比叡山横川の聖観音さまと同じく、胸の前で蓮華の蕾を掲げるポーズを取る。両手の肘から先は後補とのことだが、 そのポーズには無理がない感じがする。また、説明書きには、「寄木造全盛時代の一木造として、全面に鑿目がみられる点は、霊木化現仏風の特色と解することもできる」とある。だが、双眼鏡で目を凝らしても、残念ながら、鑿目は見えなかった。いつか明るい照明で拝みたい。

像高125.4cm。寄木造り。玉眼。当初の彩色がよく残る。お厨子に入っていないので、観音像よりもかなり見えやすい。見事な盛り上げ彩色や切金も見える。
右足枘の銘から、三条仏師の法印朝円の作と判明。「三条仏師とは、平安時代中頃に定朝の弟子長勢が京の三条に始めた仏所の門流に属することを示し、京風の優美な作風に特色がある」(正覚院資料より)
京都府教育委員会の資料には、朝円について、以下のような記載がある。
足枘にみる法印朝円は、定朝の弟子長勢の流れを汲むいわゆる三条仏所に繋がる円派仏師で、正和4年(1315)、日吉社の神輿造替に際して、木仏師として法眼良雲、法眼性慶等を指揮して「三条法印朝円」の名で参加している(『実衡公記』正和4年2月24日条)。同名ながら三条高倉に住房を構え安元3年(1166)に大覚寺五大明王像を作成した明円の直弟子の朝円とは別人で、鎌倉時代の三条仏所には約一世紀を隔てて二人の朝円が存在したことになる。明円の跡を継ぐ三条円派仏師のうち、これまで作例の知られてなかった鎌倉時代後期の法印朝円の作が確認されたことの意義は大きい。
また、左足枘には「神主 泉八右エ門」とあり、本像は、正覚院の近くにあった田中神社の旧蔵とも考えられるが、詳細は不明だという。田中神社は明治42年、木幡の許波多神社に合祀されている。
京都浄土宗公開時に拝観。
正覚院 京都府宇治市木幡正中20(六地蔵駅近く)
https://shougakuin-kyoto.com/
a) 正覚院さまでいただいた資料「法然上人八百年大遠忌記念本尊阿弥陀如来修復」(平成24年8月盆、住職 寺川孟寛)
b) 『京都の文化財 第20集』京都府教育委員会、平成15年(2003)
https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/wp-content/uploads/2022/05/bunkazai20.pdf
c) 『文化財保護No.20 守り育てようみんなの文化財』京都府教育委員会
https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/wp-content/uploads/2022/05/mamori20.pdf
d) 独湛性瑩に関する過去の投稿
https://x.com/hphiyodori/status/1725626052972880159
https://x.com/hphiyodori/status/1725616309646536901
※写真 毘沙門天像のカラー写真は上記参考資料c)の表紙より。それ以外は筆者が現地で撮影。聖観音菩薩像は境内説明看板を撮影。私が参拝した公開時、観音堂内は撮影禁止、本堂内は撮影可能ということだったので、念のため、その旨付記しておく。

白山神社(鎌倉市今泉)にて、9月の第一日曜日の祭礼の際、短時間だけ毘沙門天さまのお厨子が開く。
行基の作で、源頼朝が京都の鞍馬寺から譲り受けたと伝わる。像高160cm。県指定有形文化財。
着衣を薄く粗めに彫り出し、身体全体の動きも穏やかなので、地方の作という感じがしたが、どうなのだろう。
9月第一日曜日、午後2時頃から神事がある。神事の終わりに、「それでは毘沙門天さまのご開帳です。皆さまどうぞ」とアナウンスがある。
お前立像の等身大の毘沙門天立像と少し小さめの両脇侍像がずりずりっと引き出され、その後ろの秘仏毘沙門天立像の扉が開く。
一人一人順番に奥に進んで、間近で拝観できる。だが、「拝むと目が潰れるという言い伝えもあります」という、注意事項も小声で伝えられる。そのせいか知らないが、堂内の20-30人ぐらいが一通り拝観を済ませると、すぐに扉は閉じられた。
秘仏毘沙門天さまを拝めたのは、15:00頃からわずか15分程度だった。
国清寺毘沙門堂(伊豆の国市奈古谷/臨済宗円覚寺派)
2025/9/14
毘沙門天さま50年に一度のご開帳
運慶仏で有名な願成就院のある旧韮山町(現在の伊豆の国市)に、国清寺はある。仏殿の釈迦如来坐像は鎌倉時代の凛々しいお像で、市の指定文化財。仁王門の金剛力士像は鎌倉時代で県指定。そして、数えきれないほどたくさんの仏像の破片・欠片が残る。それらの一部を上原美術館でご覧になった方も多いのでは。
これほどの古仏がおられるのに、あまり知名度は高くない。寺名の読み方も資料によって「コクセイジ」と「コクショウジ」があり、難しい。
そんな国清寺で、毘沙門堂の本尊秘仏毘沙門天さまが50年ぶりにご開帳されるという。釈迦如来像の修復を手がけられた牧野先生から教えていただき、お参りしてきた。
伺ってみるとなんと、たくさんの人の集まるご開帳だった。知名度が低いなんて、私の思い込みに過ぎなかったようだ! 50年ぶりのご開帳の賑わいと楽しさをここに記したい。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
牧野先生の著書を読んで国清寺をお参りしたのが7年前。仏殿から文覚上人ゆかりの山道を登った仁王門の先に毘沙門堂があるのは知っていたが、その堂内に上げていただくのは、今回が初めて。
50年ぶり、令和7年(2025)のご開帳は、9/14(日)の一日のみ。一般に、秘仏は、7年や33年に一度など、開扉の周期が決まっていることが多い。それでも、実際には、晋山式や堂宇の改修、展覧会への出展などで、特別に拝観できる機会もなくはない。しかし、この伊豆の国市奈古谷の毘沙門天さまは、前回のご開帳が昭和50年(1975)だったというから、かなり”ガチでマジな”秘仏ということになる。
1975年といえば、年末に名曲「およげ! たいやきくん」が発売された年である。令和のよい子たちは知らないかもしれないが、店のおじさんと喧嘩して海に飛び込む「たいやきくん」は昭和のよい子たちのヒーローだった。子門真人の歌声は優しさと悲哀に満ち、その髪型はなぜかモジャモジャだった。このレコードジャケットを一目見れば、50年という時の長さを実感していただけるのではないか。「だんご三兄弟」(1999年)でもだいぶ前なのに、こちとら「たいやきくん」である。気が遠くなるほどの時を経て、やっと毘沙門天さまはご開帳されのである! (だんご三兄弟のヒットを機に「中開帳」とはならなかったらしいw ←当たり前か^^)
そう、これはもう、行かなければならない。そもそも牧野先生に教えていただいたご開帳なのだから、行かない選択肢はない。海に飛び込んだ「たいやきくん」のように、自由に泳いで、伊豆へ参上せねばらない!

さて、ご開帳当日、私は朝早くに、勢いよく自宅を飛び出した。友人の運転する車に乗せていただき、朝9時前に国清寺観音堂の前に到着。毘沙門堂はここから2キロほど山道を登った中腹にある。山道とはいっても、舗装された道で、歩きやすいことは知っている。だが、この日は毘沙門堂の近くの臨時駐車場まで車で行き、そこから歩くつもりだった。
が、ここで問題発生。観音堂前にて、トランシーバーを握りしめた交通案内員の方2名に行手を阻まれたのである。毘沙門堂までの山道は車が行き交うことができない。「もうすぐ上から車が一台降りてくるので、それまであと2-3分待ってほしい」とのこと。トランシーバーで上の係の方と連絡を取りあっておられるようだ。朝からお疲れ様です、という気持ちで、とりあえず車内で待った…。そして、待った…。そして…、さらに、待った…。
10分間が静かに経過したところで、案内員の方が、「あのー、上の駐車場がもう満杯なんで。そっちの駐車場に停めて、そこからシャトルバスに乗ってください」と。ががーん。折しも、ワゴン車1台とセダンのタクシー1台が山上から降りてきた。どうやらこの2台が”シャトルバス”らしい。そして、指定された「そっちの駐車場」(仏殿前の公民館そば)に行くと、もうすでにシャトルバスを待つ人の列ができていた…。これでは乗車できるまでに30分ほどかかりそうだ…。
とういわけで、はからずも毘沙門堂の手前2キロの地点で出遅れてしまった!
なにせ50年に一度のご開帳である。多少の問題の発生は想定しなければ。むしろ、それを喜んで受け入れるのが、参拝者としての正しい作法である。
だが、しかし。私には、国清寺の次に、別のお寺様で拝観のお約束があった。できれば遅滞なく毘沙門堂まで到達したい….。しかも、事前情報によると、10時30分から法要があり、一時的に拝観できなくなってしまうという…。その前にたどり着かなければならない!
そういうわけで、シャトルバスを待つより歩いた方が早いだろうと判断。蒸し暑い中、山道を歩き始めた。初めて海に泳ぎ出した「たいやきくん」のように、一歩を踏み出したのである。「たいやきくん」は「♪おなかのあんこは重いけど」と歌ったが、拙者はお腹の贅肉が重い(苦笑)。でも、秘仏毘沙門天さまにお会いするため、先に進まなければ!
前に来た時は、誰ともすれ違わなかった静かな坂道。今日は友人と一緒がありがたく、心強い。そして、朝早いというのに、多くの参拝者の方々もどんどん坂を登っていくから驚いた。家族連れも多く、まさに老若男女が次々と集まってくる。道沿いには、御仏のお姿や種字が刻まれた巨石が並ぶ。韮山の古来からの信仰が偲ばれる。

毘沙門堂に至る石段の途中に仁王門がある。その門いっぱいに金剛力士像が立つ。この仁王さまに再会できて、やっと少しほっとした。ここから毘沙門堂まではもうすぐだ。
仁王像は両目が飛び出し、元気いっぱい。屈強ながら、威圧感がなく、私のような粗忽者も両手で迎えてくださるような温かみがある。鎌倉時代、永慶3年(1310)の銘があるという。阿形206.4cm、吽形204.8cm。県指定文化財。
先月お参りした、信濃の仏師妙海による仁王さま(長野県松本市波田)を思い出した。こちらも頑強な憤怒のお姿であるのに、不思議とぬくもりがある。友達になりたくなるような優しさがある。妙海の仁王さまは元亨2年(1322)の銘があり、国清寺毘沙門堂の仁王さまと制作年代は近い。地域は異なるものの、同じ時代の雰囲気というのがあるのだろうか。多分関係ないだろう(苦笑)。詳しいことはわからなくても、このように、あれこれ想いを馳せる瞬間は幸せだ。
ここ奈古谷の仁王門では、天井近くにスプリンクラーが付いていることを付記しておきたい。悪から衆生を護る仁王さまと、その仁王さまを火災から守ろうする衆生。その関係性が胸アツなのである。全国に数ある仁王門の中でも、特に印象に残る、大好きな空間である!
この仁王さまはかつて、東京藝大で修復を受けている。当時藝大生だった牧野先生が仏像修復の道に進むきっかけとなったお像であり、その辺りの経緯は、先生の著書『仏像再興〜仏像修復をめぐる日々〜』につづられる。まだお読みでない方はぜひぜひお読みいただきたい。
仁王門からさらに石段を上り、ようやく毘沙門堂にたどり着いた! 毘沙門堂の前はお参りの人たちであふれていた!
50年ぶりのご開帳であるのに、いや、50年ぶりだからこそ、このように参拝者を呼び寄せるだろうか。毘沙門堂の歴史は古く、9世紀、東海の巨刹「安養浄土院」(別名 奈古谷寺)が起源とされる。古代山岳密教系の寺院がこの地にあったと考えられている。ご本尊の秘仏毘沙門天像は寺伝では、平安時代、天台の僧、慈覚大師円仁の作。この地に配流された源頼朝に文覚上人が源氏再興を進言した土地とされる。大願成就を成し得た源頼朝が瑞夢をえて、文覚上人に多聞堂(=毘沙門堂)建立を命じたとも伝わる。800年余りのち、令和に入ると、今回のご開帳に向けてクラウドファンディングで資金を集め、お堂の整備をしたそうだ。
つまりは、平安から令和にかけて、御仏(みほとけ)と衆生とのご縁が続いているのである。ご開帳の参拝者が続々とやってくるのを見ると、ご縁が今まさに繋がっていく、その現場に立ち会えたように感じた。地域の信仰。それは大きな力であり、外野の私にはとても眩しく、羨ましい。仏像愛好家のお友達も多数、遠方から来られていた。たくさんの人が集まり、過去から現在、未来へとつながるご縁。その中心に毘沙門天さまがおられるのである!

さて、毘沙門堂につくと、そこはもうたくさんの人! まずはお堂の前で受付を済ませる。ご開帳の柱に触れて、今回のご結縁に感謝を申し上げると、早速、堂内へ上がらせていただいた!
毘沙門天さまは、堂内奥の中央に立っておられた!
ついに、ついに、毘沙門天さまにお会いできたー!


素人(私)の目視では、像高は130cmぐらい? 50年ぶりに光を浴びられ、いささか眩しそう…? お像の動きは穏やかななのだが、今にもお厨子を飛び出して、闘いに向かわれそうな臨場感もあった。長年にわたり毘沙門天さまに蓄えられた何かが、50年ぶりのご開帳で一気に放出されたのだろうか!?
彫り口は浅めだが、腰回りなど体部に厚みがある。噂通り、平安に遡る古像かな…? いや、鎌倉? 地方の作? 後補の部分も多い感じで、素人には諸々判断しがたい難しいお像でもあった。この「???」を解消したいので、ぜひ専門家の調査をお願いしたい!
思えば、1週間前にも、鎌倉市今泉の白山神社で、年に一度だけお姿を拝める秘仏の毘沙門天立像にお会いしたばかり。言い伝えでは、行基の作で、源頼朝が京都の鞍馬寺で譲り受けたものだという。だが、実際には、平安後期から鎌倉の地方作という感じだった。頼朝や北条氏のゆかりの二つの土地で、ひょっとすると同じ頃に毘沙門天立像が制作されたのだろうか....? 二つの像の関連性はわからない。だが、わからないことが多い分、興味もそそられるのである。
毘沙門堂を出たあと、麓にある仏殿へ向かった。帰りこそシャトルバスをと思ったが、またしても人が並んでいて長時間待たされそうだったので、下りも歩くことにした。そのおかげで、帰り道でもまた、仏友さんと出くわした。さりげない会話がうれしい。こういうことがあるから、ご開帳は本当に楽しい。
帰り道は気持ちに余裕もあったせいか、あっという間に下山。無事に仏殿に到着した。

大きな仏殿の中央に、釈迦如来さまが正面を向いて坐しておられる。像高84.0cm。桧材による割り矧ぎ造り。この釈迦如来坐像は、後世の修理で別の部材を付け足されて太っちょになり、しかも、緑色になっていたのだが、平成に入って牧野先生が修復。当初部分だけに戻し、不足部分を新たに新調して付け足すことで、鎌倉仏の凛々しさが蘇った。その経緯も上記著書に詳しく書かれているので、ぜひお読みいただきたい。修理前や修理途中のカラー写真も豊富で、臨場感があり、手に汗握るレポートとなっている。
この日、なんとも幸運なことに、仏殿で牧野先生にお会いできた。ご自身が修復された釈迦如来坐像を見上げる牧野先生の瞳は美しすぎて、言葉で表しきれないほどだ。
仏像は過去と現在と未来をつなぎ、みほとけと衆生とをつなぐ、尊い存在だと私は思う。だからこそ、仏像修復の仕事は貴重だし、もっと注目され、敬意を払われるべきだと思う。
最後に、繰り返しになるが、奈古谷の毘沙門天さまについて、専門家の調査が行われますように。これからも末長く信仰が続きますように。令和7年の私はそう祈るのみ。
次のご開帳も50年後なのだろうか。その時、どんな世の中になっているのだろう。たいやきくん、だんご三兄弟に匹敵するヒット曲は生まれているのだろうか。私は100歳超えてヨボヨボなはずなので、今度こそシャトルバスに乗りたい! (^o^)/
・牧野隆夫『仏像再興 仏像修復をめぐる日々』山と渓谷社2016年
・牧野隆夫『伊豆の仏像 修復記 ‐人と自然に護られた 仏と関わる日々‐』静岡学術出版2018年
・円覚寺横田南嶺管長が紹介する国清寺と毘沙門堂
伊豆の古刹 | 臨済宗大本山 円覚寺
瀧山寺(愛知県岡崎市)
秘仏ご本尊薬師如来さまご開帳
2025/4/27-5/11
仏像好きな方にとっては常識なのだが、瀧山寺はとんでもなくすごい。あえて平易な言葉を使いたい。とんでもなく、すごいからだ。収蔵庫には、源頼朝にかかわる運慶仏(重文)がおられ、本堂は鎌倉時代の個性的な十二神将(重文)でぎっしり埋め尽くされている。来迎会の菩薩面5面も鎌倉時代の美しいものが残っている。個人的には、本堂の毘沙門天立像、収蔵庫の十一面観音菩薩立像や天台大師坐像など、平安仏もたまらない。修正会の鬼祭りもとんでもない。三人の鬼さんが動き回り、本堂の前で炎がボーボーと燃えまくる。
そんな由緒あるお寺であるのに、ご本尊薬師如来様の情報がまったくなかった。50年に一度開扉される秘仏であり、瀧山寺には、写真一枚すらなかったのだという。あるのは、前回の晋山ご開帳の時に絵描きさんにかいてもらったというイラストだけ。文化財としての調査もされておらず、よって、文化財指定もない。
つまりは、事前情報がない。ご開帳期間も2週間しかない。そんな訳で、わざわざ岡崎まで行くべきかどうか、だいぶ迷った。
が、思い切って、最終日にお参りしてきた。
お堂に入って、お厨子の前に進み、初めて秘仏ご本尊様にお会いした。
その瞬間、あー、来てよかったーと思った。
あきらかに平安時代の中期から後期の作であろう。
ご尊顔からお腹の辺りまでたっぷりと量感がある。優しくて穏やかな表情だった。
私は、蟹薬師 願興寺(岐阜県御嵩町)の秘仏ご本尊様を思い出した。雰囲気が似ているように思ったのは、私だけだろうか? 願興寺も瀧山寺も天台宗の古刹である。薬師如来坐像の天台様式というものがあるのだろうか? 特に、ご尊顔の雰囲気と全体にふっくりした感じが似ていると感じた。
蟹薬師様とは異なるのは、腰から下、両足を組んだ辺りで、立体感が薄れることだ。瀧山寺の薬師様は、脚の部分が薄いのである。下腹部から半円状に衣文が広がるのだが、その彫り方もとても薄い。この二尊の相似がとても興味深いと思った。
もう一点、気になったのは、お腹の中心辺りに一本、ヒビが入ること。天養院(神奈川県三浦市)薬師如来坐像のそれを思い出した。瀧山寺像が案外一木造りだったりしたら、どうしましょう。
ガイドさんの話によると、これから専門家に調査していただくそうだ。どんな結果になるのか楽しみでしかたない!
※上記は拝観翌日に書いた感想文である。この時点で、ご本尊様の写真は公開されていなかった。前回、晋山のご開帳の際に描いたスケッチのみがあるのみだった(お寺リーフレットに掲載されていた)。
※本日(25/8/11)、そろそろご本尊様の写真が出回っていなかと思い、探してみると、、、なんと!!! 写真が掲載されていた!!!! 天台系の薬師如来が気になるので、この写真がとても勉強になります!!!
50年に一度、ご本尊・薬師如来坐像のご開扉が執り行われた「瀧山寺」を訪ねる | 特集 「一隅を照らす」 | いろり - 人と語らうコミュニティサイト -

このところ長野の仏像を追いかけている。
調べれば調べるほど、平安から鎌倉時代の仏像の多く、驚いている。
白洲正子や丸山尚一が絶賛した古仏だけではない。
令和のSNSにも上がっていない、”隠れ仏”も多いようだ。
そんな"隠れ仏"をまつるお寺様の一つ、長野県千曲市の観龍寺をお参りさせていただいた。静かなあんずの里に、静かに平安仏や鎌倉仏が伝わる。
観龍寺の仏像群は県と市の文化財の指定を受けているので、厳密にいうと、”隠れ仏”ではない。しかし、ネット検索程度では詳細は出てこない。堂内の仏像を参拝したというブログもX投稿も見当たらない。グーグル地図には場所は載っているが、「千曲市森」以降の番地の番号は掲載されていない。
長野県立歴史館の近くなので、実は以前から、展覧会に合わせて拝観の機会を伺っていたのだが、そもそも歴史館自体に行く機会に巡り会えずにいた。
そんなおり、今年7月から同館で「安曇野〜知られざる里山の祈り〜」展が始まった。私が勝手に応援中の覚音寺(大町市)から、千手観音・多聞天立像(全期)と胎蔵界曼荼羅図(後期)がお出まし。私が大好きな光久寺の妙海の日光菩薩・月光菩薩像もお出ましだということが判明。
これは重い腰を上げて、観龍寺の拝観に向けてがんばらねばならない! 改めて調べると、観龍寺のクラウドファンディングのサイトがみつかった。4年前に、お堂の屋根の修理のため資金を募っていたのである(該当サイトはこちら)。観龍寺は専従の住職様がおられず、地元の方々が管理されているという。ただ、他のお寺の住職が兼務されているそうで、その兼務住職の顔写真と文章がクラファンサイトに掲載されていた。そして、私はその兼務住職様のお顔に見覚えがあった。今年1月に、愛染明王像をお参りさせていただいたお寺さまではないか! このお寺様にご連絡したところ、観龍寺の管理をされている方をご紹介くださり、観龍寺をお参りさせていただけることとなった。ご縁の繋がりに心から感謝。
堂内須弥壇の中央に坐す、観龍寺ご本尊様である。
なんと榧の一木造り。像高94センチ。長野県指定文化財(県宝)。
お堂に上がると、気高く、優美なお姿が目の中に飛び込んできた。一人で見上げていたのなら、感動で咽び泣いていたと思う。丸顔で穏やかな尊容。院政期の特徴をもつその優美さ。なんなのだろう、この美しさは。見た目の美しさだけではない。内面に秘めた力を感じる。私のような凡夫の汚れや罪を、その尊さでもって、洗い流してくださるかのようだ。
それと同時に、仏像愛好家としては、「ここは京都!?」と叫びたくもなった。みやこぶり(という言葉は嫌いだが)のする、いかにも平安貴族が好みそうなお像が、京都周辺ならともかく、長野県のこれほど静かな集落におられるとは。仏像の中でも、手が込み、費用を要するであろう千手観音坐像である。そんなお像がなぜこの地に残るのか。調べてみると、現在の千曲市の域内には、平安時代以降、御厨・荘園や公領があって活発な開発が進み、中央政権とのつながりが密接であったという。平安後期には源盛清(みなもとのもりきよ)が信濃国村上郷(坂城町)へ配流。養子の為国から村上氏と名乗り、信濃で屈指の勢力を誇るようになる。この千手観音さまは、そんな時代の息吹を今に伝える貴重な存在でもあられるのだ。


脇侍は毘沙門天立像と不動明王立像(いずれも市指定文化財)。毘沙門天立像は室町時代の作、玉眼と彩色は江戸時代。
不動明王立像は毘沙門天立像と同じ100センチ余りの大きさで、制作年代も同じとみられるが、平成12年(2000)に盗難に遭い、所在不明となっている。
観龍寺には、千手観音の眷属、二十八部衆もおられる。二十八部衆といえば、京都の三十三間堂の鎌倉時代の等身大のお像をご存知の方も多いだろう。観龍寺の二十八部衆は40〜50センチほどの小像で、28体のうち25体が現存する。さらに、二十八部衆と合わせてまつられる風神雷神のうち、雷神像も残る。鎌倉時代のものがほとんどで、室町や江戸時代のものある。様々な時代のお像が混在するのは、当初の像が壊れたり失われるたびに補強されてきたためだろうか。堂内のガラスケースの中に安置されており、目を凝らして拝観した。観龍寺は田村麻呂ゆかりのお寺なので、京都の清水寺を模して二十八部衆が造立された可能性を妄想する(京都清水寺の二十八部衆についてはこちら)。


須弥壇の正面右に大きなお像が立っておられる。ご本尊とはうってかわって、こちらは平安時代の地方仏の面目躍如といった感じ。おそるべし、観龍寺! 像高174.9センチ。桧材の一木造り。素地で彫眼。県宝


像高98.5センチ。檜の一木造り。県宝。不動明王立像と同じく、平成12年に盗まれ、所在不明となっている。写真で拝見する限り、仏師が木の中に観音様の姿をみて彫り出したかのようなお姿だ。とても魅力的なお像である。
管理されている方と話したが、当時はまさかお寺で盗難があるとは思いもよらなかったとおっしゃっていた。まさにそのとおりだと思う。信じがたいことが起こるものだ。早く発見されて、またお堂に戻られることを願う。
なお、今の観龍寺は防犯システム完備で、盗人の侵入は不可能なので、その点をここに大声で叫んでおく。
上述のとおり、聖観音菩薩立像と不動明王立像が平成12年に盗難に遭い、いまだ見つかっていない。
観龍寺の仏像群の歴史的・美術的価値を考えると相当大きな損失である。しかし、それ以上に大きいのは、先祖代々みほとけに護られ、その御像をお守りしてきた地域の方々の損失である。精神的支柱を奪われた、その喪失感ははかりしれない。いつか必ず見つかりますように。そう強く願っている。
こちらの千曲市のサイトをご覧のうえ、何かご存知のかたは情報提供をお願いします!!
www.city.chikuma.lg.jp
観龍寺
住所 長野県千曲市森
拝観には管理者の方への事前連絡が必要。
長雲寺(千曲市稲荷山 TEL 026-272-3730)が兼務住職をされている。
なお、この長雲寺には、寛文13年(1673)七条仏師、久七による愛染明王像(重要文化財)のほか、本堂には五大明王もおられるので、ぜひ合わせて拝観を! 久七は東寺金堂薬師三尊を造立した康正の弟子とみられる。
⚪︎観龍寺の仏像について
・千手観音菩薩坐像 木造千手観音坐像 - 信州の文化財 - 財団法人 八十二文化財団
・十一面観音菩薩立像木造十一面観音菩薩立像 - 信州の文化財 - 財団法人 八十二文化財団
・聖観音菩薩立像(所在不明)木造聖観音菩薩立像 - 信州の文化財 - 財団法人 八十二文化財団
・毘沙門天立像https://www.city.chikuma.lg.jp/material/files/group/35/city15.pdf
・不動明王立像(所在不明)https://www.city.chikuma.lg.jp/material/files/group/35/city14.pdf
・二十八部衆https://www.city.chikuma.lg.jp/material/files/group/35/city1.pdf
⚪︎観龍寺について
観龍寺 - 信州・花岡果樹園のホームページ
⚪︎千曲市の歴史について
・千曲市歴史的風致維持向上計画-千曲の魅力と多彩な力が未来を拓く-https://www.city.chikuma.lg.jp/material/files/group/28/zentai.pdf
・坂城町長山村ひろしのブログ「坂城の100人」第1回源盛清 「坂城の100人」 第1回 源盛清 - 坂城町長 山村ひろし のブログ
<2016年12月15日の拙稿の再投稿です>
貴田正子『香薬師像の右手 失われたみほとけの行方』を読みました。なかなか奥深いミステリーなので、自分の理解のためにまとめつつ、感想を書きました。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
新薬師寺の香薬師如来像は三度の盗難に遭い、もう70年余り行方知らずだ。最近、この像の右手首から先だけが発見され、その経緯をまとめたのがこの本である。
綿密で地道な取材ぶりに頭が下がる。
しかし、右手が見つかった経緯だけを手っ取り早く知ろうとして読むと、少しつらい。枝葉末節があちらこちらに太く広がっている。どれも感動的な話だ。しかし、右手をめぐる謎解きは複雑でわかりにくい。
しかも、右手は"発見"されたとはいえ、”大人の事情"はオブラートに包まれたまま。最後の肝け心なところで、修験者である著者の夫の自慢話が出てきて、煙に巻かれた感が否めない。前半の香薬師像の由緒に関わる部分が感動的なのだけに残念だ。
少し愚痴ってしまった...。しかし、落ち着いて考えると、知る人ぞ知る存在だった右手があやうく記憶の闇に消え去る寸前、著者が光を当ててくれたと言えるだろう!
そんな香薬師像の由緒とこれまでの経緯を著書から拾い出し、以下のとおり、まとめてみた。(読解力不足で間違いがあったら、ご指摘ください。訂正します)
※写真は2枚とも、この本に掲載のものです。
~~~~~

香薬師像の由緒
新薬師寺の寺伝によると、白鳳を代表する香薬師像は、光明皇后の念持仏だった。聖武天皇の病気平癒を願った光明皇后が、天平19年(西暦747年)、新薬師寺を創建。丈六七仏薬師が横一列に並ぶ巨大な金堂の中尊に胎内仏として、香薬師像がおさめられたと伝わる。つまり、香薬師像は現在のご本尊の薬師坐像(平安初期)よりも古く、新薬師寺の根幹をなす大変重要な仏様であることが推察できる。
創建からわずか33年後の宝亀11年(780年)、新薬師寺の巨大伽藍が雷による火災で消失してしまう。木造の七仏薬師も焼けてしまうのだが、銅像の香薬師像だけは胎内から救い出され、それ以来、新薬師寺で大切にお守りされてきた。しかし…。
~~~~~~
三度の盗難
明治23年=1回目の盗難
ずっと時代が下った明治23年。香薬師像が盗まれてしまう。このときは、ほどなく近くの神社で発見される。右手首から先が切り離された状態で打ち捨てられていたそうだ。右手をつなぐ修理が行われ、お像は再び新薬師寺に安置される。
明治44年=2回目の盗難
ところが、明治44年、香薬師像は再び窃盗犯の手に落ちてしまう。右手と両足が切断された痛ましいお姿ではあったが、大阪・住吉の田畑で発見された。右手は再度、お像に接続され、見つからなかった両足は木製のものを作って補われた。
昭和17年、竹林薫風と水島弘一がそれぞれ、お像を石膏で型取りする。この頃までに右手は古傷のためか脱落していたようで、三度目の盗難の前に右手だけが盗まれることがあったため、水島が銅で右手と両足を補作し、お像本体に取りつけた。盗まれた右手は近くに捨てられているのが見つかり、その後、お寺で保管されていたらしい。
昭和18年=3回目の盗難
昭和18年、香薬師像が三度目の盗難に遭う。肝心なのは、このとき、元々の右手部分は盗まれず、寺に残されたという点だ。しかも、現在の新薬師寺住職にはその事実が伝えられていなかった。香薬師像は今も見つかっていない。
~~~~~

昭和25年?=右手が佐佐木家へ
昭和25年、文芸春秋の佐佐木茂策が、水島の型取りした石膏を使って、香薬師のコピー像3体を自費制作。新たに鋳造された1体は新薬師寺に、1体は奈良の観音院に譲り、1体は自らの手元に置いて、亡き妻、佐佐木ふさの供養とした。
どうやら、この際に、右手が佐佐木に渡ったらしいのだか、その辺りは明らかになっていない。
佐佐木は右手の土台を作り、丁寧に木箱におさめて保管していた。右手の価値を理解し、かつ財力のある人でなければできないことだと私は思う。
昭和37年=久野・水野両氏が右手を目撃
昭和37年2月、佐佐木家に仏像調査に訪れた久野健と水野敬三郎が、佐佐木の後妻から右手を見せてもらう。この時に水野が撮影した写真が最近になって、右手の身元確認に大きな役割を果たすことになるのだが、右手の存在はこの後、口外されることなく、50年余りの年月が過ぎ去ってしまう。
平成12年=右手が佐佐木家から東慶寺へ
平成27年5月、著者と新薬師寺住職が鎌倉市の東慶寺を訪れ、右手が保管されていることを確認。平成12年、佐佐木茂策の墓のある東慶寺に遺族が預けたのだという。あくまでも東慶寺は預かっているだけで、所有者は佐佐木家なので、東慶寺は佐佐木家の間で念書を交わすことを希望。27年10月になって、遂に右手が新薬師寺にお戻りになった。
~~~~~
以上、簡単にまとめたつもりだが、なかなかややこしい。香薬師像とその右手が複雑な歴史をたどったことがわかる。
なお、佐佐木茂策が大切にした香薬師コピー像は現在、東慶寺に譲渡されており、私も東慶寺で拝したことがある。観音院に渡ったコピー像は三共製薬会長を経て、今は奈良国立博物館に。数年前の『白鳳』展で拝んだ方も多いだろう。
最後に、いまだ解けない謎―――香薬師如来さまは今どこにおられるのだろう? この疑問を宇宙の闇に投げかけ、そっと溜息をつく。

仏像は過去と現在と未来をつなぐ尊い存在。
仏像修復家の仕事はとても重要で、もっと世に認知され、評価されるべきものと思っています。
あることがきっかけで、牧野隆夫先生が私たちの先日の山形オフ会にご参加くださることになりました。牧野先生と参加者の皆様をお繋ぎする役割を果たせたこと、身に余る光栄に存じます。牧野先生、幹事様、参加者の皆様に心からお礼申し上げます。
牧野先生が修理された仏像をお参りすると、お寺や管理者の皆様が一拝観者の私を温かく迎えてくださることが多いです。この現象を私は”牧野マジック”と名づけました。先生が修理の過程で地域を巻き込み、人々とともに悩み、喜びながら、仕事をされたからだと思っています。こうした温度感の恩恵は部外者の私にも及ぶのです。職人としての力量はもちろん、お人柄の力が大きいのだと思います。
静岡の平安の千手観音像(中野観音堂)を修理されたときには、管理者(別当)様の生産されるお茶に「千年千手」と名づけ、その販売に一役買いました。熊谷の愛染明王(宝乗院)の修理後、元のお堂に運ぶ際には、地元のお子さんたちにも一緒に引っ張ってもらったそうです。いずれも次の世代へお像を引き継ぐための仕掛けなのです。
今回、先生とご一緒させていただくなかで、マジックの理由を垣間見ることができたように思います。お話の一言一言が心に残っています。もっともっとたくさんお話を伺いたかったです。

牧野先生が関わられた平泉寺(山形市)で、ご住職が、「みほとけに手を合わせて祈るとき、そのお仏像に関わってきたたくさんの方たちのことも思ってください」とおっしゃいました。平泉寺の長い歴史の中で、牧野先生は紛れもなくその重要なお一人です。

牧野先生が関わられた仏像は平泉寺だけではなく、伊豆や東北に数多くあります。先生は「仏像は修理して、それで終わりではない。その後も拝んでくれる人がいることが大切」とおっしゃいました。高齢化過疎化で管理が難しくなっている古仏が日本には多く、そのことを前提とされたお言葉だったと思います。そして、各地で仏像の拝観を続ける私たち仏像愛好家への感謝と励ましの言葉でもあると思います。
これからも古仏が大切にされ、古仏に守られる世であってほしいと願います。私も力ある限り、牧野先生が関わられた“牧野仏“をはじめ、人とともにある古仏を訪ねていきたいです。
#仏像 #牧野隆夫 #仏像再興
Special Thanksto:
牧野隆夫さま
仏像リンクさま
山形オフ会参加者の皆様
【参考資料】
牧野先生のご著書では、この2冊が特にお勧めです! これを読んで、牧野先生が修復に関わられた"牧野仏"にお会いしにいきましょう!
仏像再興 仏像修復をめぐる日々山と渓谷社 2016年
伊豆の仏像 修復記 ‐人と自然に護られた 仏と関わる日々‐ 静岡学術出版 2018年
【参考サイト】
はらぺこヒヨドリの牧野仏参拝記
・中野観音堂(静岡県静岡市)
butsuzodiary.hateblo.jp
・宝乗院愛染堂(埼玉県熊谷市)
butsuzodiary.hateblo.jp
・国清寺(静岡県韮山)とかんなみミュージアム
butsuzodiary.hateblo.jp
・平戸のおおぼとけ(埼玉県熊谷市) まだ修復前の参拝記録です。修復後のレポートもしなければ!
butsuzodiary.hateblo.jp
引用をストックしました
引用するにはまずログインしてください
引用をストックできませんでした。再度お試しください
限定公開記事のため引用できません。