訓読 >>>
3190
雲居(くもゐ)なる海山(うみやま)越えてい行きなば我(あ)れは恋ひむな後(のち)は逢ひぬとも
3191
よしゑやし恋ひじとすれど木綿間山(ゆふまやま)越えにし君が思ほゆらくに
3192
草蔭(くさかげ)の荒藺(あらゐ)の崎(さき)の笠島(かさしま)を見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ [一云 み坂越ゆらむ]
3193
玉勝間(たまかつま)島熊山(しまくまやま)の夕暮れにひとりか君が山道(やまぢ)越ゆらむ [一云 夕霧に長恋しつつ寐ねかてぬかも]
3194
息(いき)の緒(を)に我(あ)が思ふ君は鶏(とり)が鳴く東(あづま)の坂を今日(けふ)か越ゆらむ
要旨 >>>
〈3190〉遥か彼方の海や山を越えて行ってしまわれたら、私は恋しくてたまらないでしょう。たとえ後で逢えるとしても。
〈3191〉もう恋しがるのはよそうとするものの、木綿間山を越えて行ってしまったあなたのことが、やはり思われてなりません。
〈3192〉荒藺の崎の笠島を眺めながら、あなたは今ごろ山道を越えておられるだろうか。(坂を越えておられるだろうか)
〈3193〉島熊山の夕暮れに、あなたは一人で山道を越えておられるだろうか。( 夕霧の中で長く恋い焦がれ眠ることができない)
〈3194〉命をかけて私が恋い焦がれているあの人は、東方の険しい坂を、今日あたり越えていらっしゃるのだろうか。
鑑賞 >>>
「別れを悲しむ」歌5首。3190の「雲居なる」は、遥かなる。「い行きなば」の「い」は、動詞につく接頭語。「我れは恋ひむな」の「む」は推量の助動詞、「な」は詠嘆の終助詞。「後は逢ひぬとも」は、後には逢おうとも。原文「後者相宿友」で、「宿」の字があることから「相寝」すなわち、後には共寝できようとも、のように解するものもあります。男の旅立ちを送る女の歌です。
3191の「よしゑやし」は、よし、ままよ。「恋ひじ」の「じ」は打消の意志を表し、恋うまい、恋しく思ったりすまい。「木綿間山」は、所在未詳。「思ほゆらくに」は「思ふ」に受身・自発・可能の助動詞「ゆ」がついた「思ほゆ」のク語法である「思ほゆらく」に助詞「に」を添えたもので、詠嘆を込めたもの。窪田空穂は、意識的に恋をしまいとしている心、その詠み方の巧みではあるがあっさりとしているところから、遊行女婦の歌だろうと思わせる、と述べています。
3192の「草蔭の」は、草蔭となっている荒れた地の意で「荒」にかかる枕詞。「荒藺の崎の笠島」は、所在未詳。「見つつか」の「か」は、疑問。「越ゆらむ」の「らむ」は、現在推量の助動詞。男の旅路を思いやっている女の歌です。3193の「玉勝間」は立派な籠で、編み目が締まっているところから「島」にかかる枕詞。「島熊山」は、所在未詳。
3194の「息の緒に」は、命に懸けて。「鶏が鳴く」は「東」の枕詞。かかり方については、東国人の言葉が鳥のさえずりのように聞こえて中央の人には分からないのでとも、「鶏が鳴くぞ、起きよ吾夫(あづま)」という意とも、鶏が鳴くと東の空が白み始めるからともいわれます。「東方の坂」は、東国の坂。難所として言っているもので、東海道を通れば足柄峠のことか。都の家で待つ妻が、東国に旅をしている夫を思う歌とされます。

『万葉集』に対する諸人の言葉
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について
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