鈴木杏樹が語るKAKKOのすべて 藤井隆が熱望した、吉田豪によるKAKKOインタビューが実現2023年2月3日 18:30 1519 450 × 1519 この記事に関するナタリー公式アカウントの投稿が、SNS上でシェア / いいねされた数の合計です。 424 709 386 シェア 昨年8月放送の「おげんさんといっしょ」(NHK総合)に登場し、今再び注目されているKAKKOをご存知だろうか。 KAKKOは鈴木杏樹が女優デビュー前の1990年にイギリスで音楽活動をしていた際のアーティスト名。鈴木は17歳のときに単身移り住んだロンドンで念願のデビューを果たしたが、帰国後は歌手・KAKKOではなくタレント・俳優の道を選んだ。芸能界での活躍はご存じの通りだが、その裏で彼女の音楽活動に熱烈なラブコールを送り続けていた男がいた。芸人である藤井隆だ。長年にわたりKAKKOの再始動を熱烈にオファーして

鳥肌実(以下、鳥肌) クリームソーダをお願いします(気づけば、アイスコーヒーのグラスが空)。 ――かしこまりました。では、インタビューを続けさせていただきます。ブレイクしたなと実感なさった瞬間みたいなものはありましたか? 鳥肌 ブレイクは……本当にあったんでしょうか、今となっては昔の事過ぎて記憶も朧(おぼろ)げですが。2000年頃、ですから今から22年前ですね、ブレイクらしきものは……あったんでしょう。 ピン芸人として自分の主戦場は、あくまでライブの世界だと考えていましたから、全国ツアーを回り始めてボチボチ知名度も上がり、2001年に、東京ベイNKホール、代々木第一体育館、大阪府立体育会館と、アリーナクラスの単独公演が立て続けにソールドアウトして、これはもう芸人のライブの動員力としては完全に頭1つ、いや、アズ・ナンバーワンじゃないかと、確かにその時は悦に入っていました。 「きみまろ旋風」に

――毒炎会(講演会)で全国を回られてお忙しいなか、本日は誠にありがとうございます。 鳥肌実(以下、鳥肌) このような機会を設けて頂き感謝しております。本日は宜しくお頼み申します。 (ルノアールのメニューを眺めて)水出しアイスコーヒーをお願い致します。 ――かしこまりました。では、インタビューを始めさせていただきます。 鳥肌 その前に、ひとつ訊ねたいことがあるんですが、よろしいですか? ――なんでしょう。 鳥肌 水出しアイスコーヒーというのは? 通常のアイスコーヒーとは何がどう違うんですか?(とメニューの該当ページを見せる) ――コーヒーの粉にお湯を注いで淹れるのがドリップで、ポピュラーな淹れ方になります。水で抽出する方法が水出しで、専用器具に入れたコーヒーの粉に水を注ぎ、ゆっくり時間を掛けてポタポタと落ちてくるものを溜めていきます。口当たりに関しては、ドリップに比べると柔らかく感じられるの

インタビュー デアゴスティーニの3Dプリンタ、完成させた人に突撃! - 定期購読の理由や使い道を聞いてきた デアゴスティーニをご存知だろうか。ドラクエのラスボスっぽい名前でおなじみ、多種多様なパートワークを出版している企業である。歴史のある会社だし、テレビCMも昔から流れているので一度は耳にしたことがある人も多いだろう。 パートワークは日本語で「分冊百科」。あるテーマに沿って、付録つきの書籍を発行するというものだ。毎号ついてくる付録を集めて組み合わせることで、最終的にフィギュアやDVDコレクション、ジオラマなどが完成するという仕組みである。少しずつ完成に近づいていく様を時間をかけて楽しむのがデアゴスティーニの嗜み方なのだ。 3Dプリンタを集めてつくるデアゴスティーニ、 デアゴスティーニで取り上げられるテーマは、基本的にファンが多く人気のあるジャンルが多いのだが、たまに「そこを突いてきたか!

「プリティ・ウーマン」マニア? それとも狂人? 私服姿で語ったくまだまさしきっかけは6月24日放送のテレビ朝日系「アメトーーク!」を観たことだった。平成ノブシコブシ・吉村崇が、ハイテーブルに肘をつきながらこう語った。 「みなさん、くまだまさしさんのヤバさをわかってないというか。あの人、映画1本しか観てないんですよ。生涯で。『プリティ・ウーマン』を400回観てるんです」。 スタジオは大爆笑だったが、僕はテレビの前で凍りついていた。バカな。携帯電話で古今東西の映画が観られる時代に、ここ日本で“人生で1本しか映画を観たことがない”なんてあり得るのか? しかも「プリティ・ウーマン」を400回も? 確かにいい映画だが、10回、20回ならともかく400回も観るか、普通? テレビ用の冗談に決まっている。しかし万が一、本当だとしたら……。 ネットで検索しても、くまだまさし本人がこの件を語っている記事は存在

12年12月に惜しまれながらトマパイは散開。中心メンバーの小池は15年から芸能活動をセーブしていたが、20年7月に芸能界復帰を宣言した。小池が語った「戦わないアイドル」の真実とは。(全2回の1回目) ◆◆◆ ――小池さんは15歳から芸能活動を始めたそうですが、きっかけはあったんでしょうか? 小池 お正月に大宮にあるひいおばあちゃんの家に集まった時、駅の構内で「雑誌モデルをしないか」と声をかけられたんですけど、モデルをやっていたハトコから「だったらウチの事務所に入ったら」と言われたんです。迷ったけど、人見知りが克服できるかもしれないし、マイナスになることはないのかなって。 ――それまで芸能界には興味がなかったんですか? 小池 モーニング娘。さんが好きで興味はあったんですけど、恥ずかしくて自分からは言えなかったんです。中学校でも、あまり目立たないように行動してました。女の先輩が怖くて、廊下で一

『うさぎ帝国』の住民たち。左が「ていこくみん」、右が「たれみみ」。 はじめまして。endoと申します。イラストレーターです。ゆるい動物のイラストが得意です。代表作は、LINEスタンプ『うさぎ帝国』です。イベントに出たり、グッズを作ったり、オリジナルのテーマ曲やアニメを作ったり、いろいろと活動しています。 ……さて、なんてことのない自己紹介をしました。しかし、こんな平凡な自己紹介を自然とできるようになるまでに、実はおよそ2年の時間がかかりました。 その間、私はずっと悩んでいました。自分が一体何者なのか分からず、イラストレーターだなんて名乗ることはおろか、うさぎ帝国の作者だということにすら強い違和感を覚えていたのです。 うさぎ帝国って、何が面白いんですか? この悩みを持つきっかけとなったのは、2017年5月のこと。うさぎ帝国として初めて出展したイベントで出会った、Tさん(仮名)の何気ない一言で

「はっぴいえんど」がデビューしたのは、1970年、21歳のときでした。気がつけば、僕も70歳を超え、作詞活動も50年を迎えることになりました。振り返れば長い時間ですが、実感としてはすべてが昨日のことのよう。あっという間にここまで来たという感覚です。 日本語でロックを歌う デビュー当時、音楽は文化の中心でした。全共闘の若者たちが最後は暴力で自滅しているのを横目で見ながら、「このやり方だとなにも変わらない。体制に利用されるだけ」と思っていました。それでもなにかを変えたいという意志はあった。そして僕が自分でできることとして選んだのが音楽。「はっぴいえんど」は、日本語でロックを歌うという明確な“意志と理由”のあるバンドでした。 いまでは当たり前のように思う人も多いと思いますが、当時はプロの音楽家のなかにもロックには英語しかあわないと考える人も多かった。内田裕也さんなんかがその代表で、デビュー直後く

2020年に音楽活動50周年を迎えたブライアン・イーノは、多くの顔を使い分けながら新しい歴史を切り拓いてきた。70年代からポップ音楽にアートの前衛精神を持ち込み、近年最注目されているアンビエント・ミュージック=環境音楽の概念を確立。デヴィッド・ボウイのベルリン三部作に貢献し、プロデューサーとしてトーキング・ヘッズやU2などに携わり、映画/テレビ番組のスコアでも輝かしい功績を残してきたほか、インターネットの普及を牽引したWindows95の起動音や、iPhoneの自動音楽生成アプリ「Bloom」の制作などを通じて、科学やテクノロジーの領域にまで影響をもたらしている。リベラルな現代思想家としても知られるイーノは、パンデミックに見舞われた2020年に何を考え、どのような未来を思い描いているのか? ※この記事は2020年12月25日発売の『Rolling Stone JAPAN vol.13』に掲

日本を代表する小説家、村上春樹氏。幻想的な物語を書くことの多い村上氏だが、インタビューでは現実の政治や社会を辛辣に斬った。写真は朗読をしている様子 Photo by AZUSA TAKADA,TOKYO FM コロナ禍が浮き彫りにしたのは、日本の政治家が最悪という事実――そう話すのは、小説家の村上春樹氏だ。コロナから日本学術会議の問題、この国に必要なものまで、2020年の終わりにダイヤモンド編集部のインタビューで語った。前編・後編の2回で届ける。(ダイヤモンド編集部副編集長 杉本りうこ) コロナは突発事ではなく 何かずっと予感していたもの ――初めまして。 (記者の名刺をしげしげと見て)「ダイヤモンド」って、月刊誌でしたっけ。 ――いいえ、週刊誌です。お金のことばかり書いています。 そうなんだ(笑)。 ――なじみがないと思いますが、今日はよろしくお願いします。2020年が終わろうとしていま

MUSIC InterviewKIRINJI バンド編成で新たなフェーズに挑んできた8年間の軌跡を堀込高樹が語る。 2020.11.18 2021年以降は堀込高樹を中心とする「変動的で緩やかな繋がりの音楽集団」として活動していくことを発表したKIRINJI。2013年にキリンジからバンド編成のKIRINJIとなり、その卓越した音楽性で次々と新しい扉を開けていった彼ら。その軌跡を凝縮したベスト・アルバム『KIRINJI 20132020』が11月18日にリリースされる。アルバム毎に冒険に挑み続け、2014年から2019年にかけて4枚のオリジナル・アルバムを発表したKIRINJIの8年間の変遷をリーダーの堀込高樹にあらためて訊いてみた。 取材・文 / 佐野郷子 撮影 / 沼田 学 2020年1月に届いた「KIRINJIからの大切なお知らせ」KIRINJIが2021年以降は「変動的で緩やかな

プラモデルクラブ「ろうがんず」部室にて、石坂浩二会長はじめまして、テレビ朝日の松井康真と申します。プラモデルクラブ「ろうがんず」のメンバーです。 プラモデルを趣味とする方は多くいらっしゃいますが、その中でも俳優の石坂浩二さんは、プラモデル歴なんと60年という大ベテラン。石坂さんは2009年に「ろうがんず」を立ち上げました。 私も発起人の1人で、石坂さんと共に各種展示会やイベントなどの運営に関わっています。 今回、あらためて我らが石坂会長に、俳優業のお話も交えつつ、60年にわたる“プラモデル沼”について伺いました。ぜひ石坂さんのプラモデル人生をご覧ください。 聞き手の私、松井康真は普段はテレビ局に勤務していますが、実はプラモデルを使って仕事に活かしたりしています。 石坂会長とはお互いにプラモデル沼の住人、予定時間の倍近くの時間をかけても話し足りない事態になってしまいました。 お話を伺った人:

『鬼滅の刃』が今、空前のブームを呼んでいる。 シリーズ累計発行部数は、4000万部(電子版含む、2020年2月4日時点)を突破。2019年の大晦日には、歌手のLiSAがアニメ版のオープニングテーマである『紅蓮華』をひっさげ、第70回紅白歌合戦に出場。今年は劇場版『鬼滅の刃』無限列車編の公開が控えており、その人気はもはや社会現象だ。 しかし、連載開始に至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。いかにして『鬼滅の刃』は生まれたのか。 誕生ヒストリーを明かしてくれたのは、著者の吾峠呼世晴氏と二人三脚で走り続けた『鬼滅の刃』初代担当編集・片山達彦だ。『ブラッククローバー』『呪術廻戦』など「週刊少年ジャンプ」(以降、『ジャンプ』)の人気タイトルを担当してきた片山だけが知る“舞台裏”とは? 『鬼滅の刃』の骨肉となったであろう『ジョジョの奇妙な冒険』『HUNTER×HUNTER』『銀魂』『僕のヒーローア

インタビュー・テキスト by 黒田隆憲 撮影:前田立 編集:青柳麗野(CINRA)、川浦慧(CINRA.NET編集部) オードリーの若林正恭による、2016年の旅行記『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』が文庫化され、書き下ろしの新章として「モンゴル」「アイスランド」「コロナ後の東京」の三編と、彼とプライベートでも親交の深いDJ松永(Creepy Nuts)による「解説」が追加された。 かつて「人見知り芸人」と呼ばれた若林は、2016年に逝去した父が家族に遺したメッセージを読んだことがきっかけで、「外の世界」へと目を向けるようになっていく。自分が抱える「生きづらさ」の要因が、「スペック」や「勝ち負け」を重視する新自由主義的な価値観にあり、そこでサバイブするための隠しコマンドは「没頭できる趣味」「血の通った関係」であると気づいていく。そんな過程を綴った本書は、単なる旅行記エッセイとは一

築地で働いていたころ。「観光客の人がいっぱいいて、女の子に『ターレー乗ってく?』と言って断られたことなかったもん(笑)」 撮影/古賀大郎 日大の写真学科の学生だったころ。「大学1年生のとき、バイクで事故ってひざの下を割ったことがあるんです。当時は保険証がなくて、自分で10針ほど縫いました」 暴力団相手に体当たりの取材を重ねて約30年。監禁や襲撃などを経験してもなお、裏社会に斬り込み、誰もが忌避する世界のトビラを開け続けてきた。銃で撃たれたあの日から、「暴力」を追い続ける男を突き動かしてきたものとは──。 魚を食べたら密漁の共犯? 今年もサンマが高い。それでも、醤油(しょうゆ)を垂らした大根といただく脂の乗ったサンマは、この季節には欠かせない旬(しゅん)の味覚だ。しかし、誰もが口にする魚がヤクザの密漁で捕獲されたものだとしたら──? 暴力団による海産物の密漁や密流通が横行している。つまり、知

母が一人暮らししていた御茶ノ水のマンションに父が転がり込んで、その3カ月後に妊娠がわかり、入籍の4日後の1978年10月14日に私が生まれました。 〈両親は写真家で、父方の祖父は『死の棘』で知られる作家の島尾敏雄というしまおまほさんは、執筆活動のみならず、ラジオの世界でも活躍している。〉 私を作った場所、豪徳寺の「旧尾崎邸」 私が生後2カ月のときに世田谷区豪徳寺のアパートの2階に引っ越して、8畳1間に親子3人で暮らすことになりました。政治家の尾崎行雄が住んでいた渋谷の洋館を移築した「旧尾崎邸」と呼ばれるアパートで、今まで住んできた家の中で一番印象深く、「私を作った場所」だと思います。 高い天井はペンキが所々剥げていて、大きな窓にはカーテンの代わりに父がアメリカンスクールのバザーで買ってきた巨大な世界地図を掛けていました。テレビがなかったので、廊下の窓から隣家のテレビを双眼鏡で眺めていました

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