【インタビュー】長岡啓一郎(木製カメラ職人・82歳)木製大判カメラをつくる最後のカメラ職人「世界に必要としてくれる人がいるなら、これからも細々とでもつくり続けます」 ※この記事は『サライ』本誌2020年9月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。 ──木製大判カメラをつくる最後の名人です。 「私はね、高校を出てからすぐ、この仕事に就きましたので、もう65年になります。 今はデジタルカメラが主流で、フィルムカメラも一般的ではなくなった時代ですけどね。 私がつくっているのは、大判板状のシートフィルムを使って撮影する〈シノゴ〉と〈エイトバイテン〉と呼ばれる木製カメラです。シノゴはフィルムのサイズが4×5インチ(10×12.5cm)、エイトバイテンは8×10インチ(20×25㎝)なので、その愛称で呼ばれてきました。エイトバイテンは略してバイテンと言っています。きょうの私の作業は、バ

長岡製作所(ながおかせいさくじょ)は、長岡啓一郎(1938年 - 2020年)が1962年に創業し、2020年に廃業した東京都台東区の大判カメラメーカー。 日本国内では「ナガオカ」 海外ではNAGAOKAのカメラブランド名として知られていた。 世界最後の木製カメラメーカーとしても知られ 4×5in判、5×7in判、8×10in判、等の木製カメラを主に生産していた[1]。また、ニーズに応える形でのカメラの受注生産、改造 ピンホールレンズの作成、他メーカーにより作成された木製大判カメラのメンテナンス修理も行っていた。 1962年 - キングの大判カメラを作成していた田中製作所にて修行していた長岡啓一郎により設立。 1972年 - 銀一によってNAGAOKAブランドにて海外輸出される[3]。 2013年 - タチハラ写真機製作所廃業により、日本最後の木製カメラメーカーになる。 2020年 - 長
現像薬品が最低限の使用量で済み、均一濃度でフィルムに行き渡る! 憧れのJOBO エキスパートタンク!! 【特徴】 シートフィルム用のプロユースタンクです。 現像薬品がフィルム全体に均一の濃度で行き渡ることを実現します。 薬品の使用量を最低限で利用することを可能にします。 このドラムはJOBO CPP-3, JOBO ローラー(1509), Heiland TASによる回転現像に使用します。 【キャパシティ】 最大5枚、13x18cm(5x7インチ)から20x25cm(8x10インチ)のフィルムサイズまで対応。 タンク容量: 330ml(最低量) 内容 :Jobo 3005 Expert Drum 5 製造 :ドイツ製
「変異ウイルスはこれまでのウイルスとは全く別物だと思ったほうがいい」 ことし4月に新型コロナウイルスに感染した、俳優の石井正則さんの実感です。 石井さんは症状が悪化しているという自覚がないまま自宅で療養を続け、その後受診した医師から「変異ウイルスのアルファ株(イギリスで確認)に感染している」と告げられました。 その時すでに重い肺炎を起こしていて、発見が遅れていたら命の危険にさらされていた可能性もあったといいます。 自分でも気づかないうちに症状が悪化したと話す石井さんに、変異ウイルスの恐ろしさを振り返ってもらいました。 味わったことのないような変な感じ 俳優として数多くのドラマや映画、舞台に出演している石井正則さん。 体の異変を感じたのはことし4月23日。 37度台後半の発熱があったため、翌日、近くの病院で検査を受けたところ、コロナの陽性反応が確認されました。 石井正則さん 「なんか体が変な

石井正則(いしい・まさのり)さん(47) 国内13カ所の国立ハンセン病療養所の風景と元患者らの詩を収めた写真集「13 サーティーン ハンセン病療養所からの言葉」(トランスビュー)を3月末に刊行した。写真が趣味でアナログ大判カメラを愛用する。約8年前に偶然、療養所のドキュメンタリー番組を見た。ハンセン病についてほとんど知らなかったが「自分の中に生まれた小さい種を大切に育てなければいけない気がした」という。 2016年7月、初めて東京都東村山市の「多磨全生園」を訪れた。以来、仕事の合間にカメラと三脚を担ぎ全国の療養所を巡った。毎回、園内の納骨堂に花を供え、併設の資料館を見て回った。「その場所にある記憶をフィルムに焼き付けるような感覚だった」

俳優の石井正則さんは、写真家としての顔も持つ。ここ数年、プライベートの時間を使って取り組んでいるのが、全国に13カ所ある国立ハンセン病療養所の撮影だ。使用する機材は「バイテン」と呼ばれる大型カメラ。2020年には写真展の開催も決まった。なぜ石井さんは療養所を撮り始めたのか、取材した。(ライター:神田憲行/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース 特集編集部) 地面に立てた三脚に正方形の木の箱のようなものを取り付ける。箱の前の留め金を外すと、蛇腹が出てきた。蛇腹の先にレンズを装着し、木の箱にケーブルレリーズを取り付ける。通称「バイテン」と呼ばれる大型カメラだ。「バイテン」とは1枚のフィルムの大きさが8×10インチ(20×25センチ)であることに由来する。レンズが向けられているのは霊安堂。この施設で亡くなられた方の遺骨が納められている。 今年11月初旬、ここは宮城県登米市にある国立ハンセン病療養所
明治初期に来日したオーストリア人が撮影・収集したネガをデジタルカメラで撮影して拡大した画像を調べたところ、多くの人が指輪をはめていることなど、これまで詳しく知られていなかった人々の暮らしぶりが明らかになりました。 東京大学史料編纂所は、今から150年前の西暦1869年に来日したオーストリア人の写真家が撮影・収集した幕末から明治初期にかけての274点のネガを高精細のデジタルカメラで撮影し、画像をパソコンなどで拡大して詳しく調査しました。 その結果、写真館などで撮影された肖像写真では、性別や年齢に関係なく指輪をはめている人がいたことや、各地の寺に「相合い傘」の落書きがあることなどが確認されました。 また、これまで詳しい場所が分からなかった写真を拡大したところ、町名を記した木の柱があることが判明し、現在の東京 港区にある増上寺の近くで撮影されたことが分かったということです。 東京大学史料編纂所の

2015年春に農研機構農業技術革新工学センターさいたま本所の書庫を整理した際、古いガラス乾板700枚以上が発見された。そのうち約200枚は割れ・カビ等により判別不能だったが、残る500枚ほどの復元に成功。清拭・転写をしたところ、主に大正期~太平洋戦争末期頃と思われる写真が時代を超えて鮮やかによみがえった。また、ガラス乾板以外に、古いフィルムや版木、銅板写真なども発見された。 革新工学センターは、農事試験場鴻巣試験地の農機具部(大正12年設立)が前身で、農機具の開発や検査を行っていた。ガラス乾板には畜力用犂、人力脱穀機、石油エンジン、籾摺調製機などの試験・鑑定風景や、農家庭先での農作業風景の他、時代を反映して出征を控えた職員の記念写真なども写っていた。 現在、OBからの聞き取りや残存する文献・年史の調査、インターネット検索をもとに、写っている人物や場所、年代など詳細情報の特定を進めている。写

プレスリリース (お知らせ) 農研機構の書庫で眠っていたガラス乾板を発見 - 大正期~太平洋戦争末期頃の農事試験場界隈の風景を復元 - ポイント 農研機構農業技術革新工学研究センター(旧農業機械化研究所:さいたま市)の書庫から古いガラス乾板1)が700枚以上発見されました。 大正期~太平洋戦争末期(推定)の農機具や試験・鑑定風景が収録されています。 整理・分類後に公開予定です。 概要 2015年春、農研機構農業技術革新工学センター(以下、革新工学センター)さいたま本所の書庫を整理した際に、古いガラス乾板が多数発見されました。ガラス乾板を清拭し、転写したところ、主に大正期~太平洋戦争末期頃と思われる写真が時代を超えて鮮やかによみがえりました。 革新工学センターは、農事試験場鴻巣(こうのす)試験地の農機具部(大正12年設立)をその前身とし、当時から農機具の開発や検査を行っていました。今回、発見
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く