【読売新聞】 東日本大震災で津波にのまれ、行方不明となっていた岩手県山田町の山根 捺星 ( なつせ ) ちゃん(当時6歳)の遺骨の一部が、100キロほど離れた宮城県南三陸町志津川で見つかった。宮城県警が9日、鑑定による身元の特定を発

東日本に人が住めなくなるかもしれない「最悪の事態」だった ――東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から13年がたちます。当時の菅直人内閣の危機対応は強い批判を受けましたが、当時の対応をどう振り返られますか。 福島原発事故は、対応を誤れば東日本に人が住めなくなるという事態でした。自衛隊をはじめいろいろな人が頑張ってくれましたが、東日本に人が住めなくなる「最悪の事態」まで被害が拡大しなかったことは、言葉は難しいですが、ある種の達成感はあります。 ――一方で、原発事故により福島県などからの避難を余儀なくされ、今も故郷に帰れない方々も大勢いらっしゃいます。 それが原発事故の怖さなんですね。(避難指示は)仕方がなかったとはいえ、多くの方が元の生活に戻れずにいることについては、大変申し訳ないと思います。 「自衛隊10万人動員」を早々に決断 ――震災が発生した時、首相として何を最優先に考えて行動しまし

「来ていますよ、津波。来ている、来ている! 川を上って来ていますよ! 正面」 それまで冷静だったパイロットの緊張した声で、カメラを前方へと向けると、名取川を津波が遡上してくる様子が確認できた。 午後3時54分。ヘリの映像が、テレビで生中継され始める。 白波がザーッと川を上ってくる様子の撮影を続けていると、再び前方の席に座るパイロットと整備士の叫び声がした。 「海、海、海。もっと左、左、左」 カメラマンの座席は後部右側。真ん前や左側はよく見えない。指示された側にカメラを振ると、黒い津波が陸上にも押し寄せていた。 東日本大震災の津波の恐ろしさに、世界中の人が気づいた瞬間だった。 撮影できたのは「偶然」 この映像を撮影したのは、当時入局1年目の鉾井喬だ。ヘリでの撮影は研修を含めてこの日が4回目。4回といっても、実際に放送に使われたのは、前日に撮影した海岸の不法投棄現場の映像が初めてだった。 NH
» 【マジかよ】津波と放射能汚染で崩壊していた福島県 双葉町 → 2年ぶりに来たら、とんでもないことになっていた 特集 2011年3月11日の東日本大震災。津波の被害だけでなく、福島第一原子力発電所の事故により、一帯は長らく一般人が立ち入ることのできないエリアに。 大きな進展があったのは、9年後の2020年3月14日。満を持して常磐線が全線開通。ごく一部とはいえ避難指示が解除され、制限はあれど一般人も散策が可能になった。 その時の状況は、「全線開通した常磐線で東京から福島へ / 帰還困難区域だった各駅で下車、周辺を散策してみた」という記事でお伝えしている。この時から2年。久しぶりに福島に行く機会を得た私は、再び2年前に取材した地を訪れてみることに。 ・双葉駅 「特急ひたち」に乗るのも2年ぶりだ。今回のスタート地点は湯本駅。 2年前は気温がめちゃくちゃ低いうえに、雨も降っていた。マジに凍えな

東日本大震災で多くの人が突然、大切な人との別れを余儀なくされた。幽霊、手紙、夢……。のこされた人たちと「死者とのつながり」を記録し続ける社会学者が見た、東日本大震災からの10年とは。 「災害はこちらから呼んで来るものではなく、向こうから突然来るもの。被災者と接するうちに、死者との関係性を置き去りにしたままでは震災を記録できないのではないかと考えるようになった」。関西学院大の金菱清教授(45)はそう説明する。1995年に阪神・淡路大震災を経験し、「強い印象が残っていたが、個人の身の丈にあった体験の記録が少ない」と感じていた。2011年の東日本大震災では、東北学院大の准教授(14年から教授)として、「震災をしっかり記録におさめよう」と調査・研究に取り組んだ。 ゼミの学生とともにまとめた『呼び覚まされる霊性の震災学』は、幽霊の目撃談で注目を集めた。学生が宮城県石巻市のタクシー運転手に幽霊現象につ

トモダチ作戦に隠れた熾烈な攻防戦──10年後に明かされた驚愕の真実!/文・麻生幾(作家) ▶︎アメリカ軍は震災発生の直後から救助や生活支援の作戦を展開していた。だが、それとはまったく別のところで、密やかな“日米の熾烈な攻防”があった ▶︎「BCAT横田調整所」のチームは、日本がアメリカに統治される可能性について真剣に危惧していた ▶︎第7艦隊の作戦拠点である神奈川県・横須賀まで、部隊行動に影響があるほどの汚染が広がった場合を「重大決断」のタイミングだとアメリカ軍は認定した原発事故の情報を隠している 2011年3月上旬。福島第1原子力発電所の事故が発生して数日後、在日アメリカ大使館の駐在武官から、一通の極秘公電がアメリカ・ワシントンにある国防総省宛てに「緊急扱い」で届けられた。 そこには政府機関の公文書にも関わらず感情的な言葉が幾つも並べられ、最後をこう結んでいた。 〈日本政府は、原発事故に

「立ち入りを禁ず:病院長」 東日本大震災に襲われた東北大学大学院医学系研究科付属動物実験施設(仙台市青葉区)。発生翌日の3月12日朝、臨床分室がある医学部研究棟3号館の入り口には、そんな紙が張り出さ…

阪神・淡路大震災の教訓が活きた ――3.11から、今年でちょうど10年が経ちます。今から振り返ると、過去の様々な災害と比べて、東日本大震災ではすぐ10万人態勢を整えるなど、自衛隊の初動がかなり早かった印象があります。それができた理由は、何だったとお考えですか。 折木 自衛隊はこれまで災害派遣を何度もおこなってきましたが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災のときには、災害派遣要請が遅かったとか、自衛隊の出動が遅かったとか、そういう話もありました。それを機に、災害が起きたらすぐに出るという、即応体制の訓練をやって、自治体との連携もとれるようになってきました。そうした改善が活きたという面はあると思います。 また、東日本大震災のときは震災そのものが大きかったので、「これは自衛隊が出なきゃいけない」というのは、組織としても、それから各部隊としても、直感的に感じたわけです。だから、そういう面でも

宮城県警は4日、東松島市で2月17日に見つかった身元不明遺体が、10年前の東日本大震災で行方不明となっていた、同市の奥山夏子さん=当時(61)=と判明したと発表した。 県警によると、ほぼ全身が残る白骨遺体が発見され、歯型やDNA型鑑定の結果から、身元を特定した。

今のコロナでみんなの心がぎすぎすしていたり、誰かが誰かを叩いていたり、悲鳴を上げているのを見ても、なんだけ遠い世界の話のように見える 正直、コロナは怖いのは分かるけれど、目の前で親が流されていったり、住んでいたところの空気がいきなり放射能に汚染されて逃げるしかないとか、そんなのに比べれば遙かにマシじゃないかと思う 特に東京の人は一番感染者が多いから、恐ろしいのもわかるけれど、まだいいよ。真綿でじわじわと首を絞められるようだ、というけれど、突然上から爆弾が降ってきて何もかもなくなってしまって、後悔後悔で毎日を生きているより、よほどいいよ 俺は未だにあの時の光景を夢に見る 走って逃げて、高台にたどり着く目の前で、知り合いのおじいちゃんが流されて、母親の手を握ったけど、離れてしまって アレは地獄だ、アレこそ地獄だった コロナがいつか落ち着いた日に、経済活動は止まっているかもしれないし、仕事はなく

私たちの税金はどこへ?私たちの税金はどのように使われているのだろうか? 納税者なら一度ならず考えてしまう疑問だ。どうせ税金として取られてしまうのならば、ちゃんと然るべきところで適正に使ってほしい。 そんな納税者のささやかな期待が国家が見事に打ち砕いてくれた経験として、東日本大震災の復興予算流用問題というものがあった。 復興予算の大部分が被災地とは全く関係の無いところに流用されたのである。増税した途端に、派手な流用が繰り広げられていたのだから、納税者の怒りを買ったのだ。 震災の直後、津波により数々の家が流れてしまったこと、そしてあの原発事故……。思い出すだけでも心が締め付けられる情景はあの時、間違いなくあった。 被災地の人たちを支えようと、25年間に渡る所得税増税と10年間の住民税引き上げを受け入れた。今も、そしてこれからも増税分を私たちは毎年コツコツと支払い続けていく。 私は復興予算の流用

原発事故の後、人の目が怖く、避難者であることをずっと隠してきた。ひどい差別も経験した。あれからもうすぐ8年。今も全町避難が続く福島県大熊町出身の大学4年三瓶(さんぺい)綾香さん(22)は、本当の自分を語る決心をした。 「道を尋ねても『触るな。避難民が』と言われ、すごく悲しかったです」 1月下旬、東京都渋谷区のホールで、大熊町の人々が町の歴史や避難生活を伝えるイベントが開かれた。三瓶さんはスクリーンに映し出される15枚の絵にあわせ、約300人を前に自身の体験を語った。地震が起き、東京電力福島第一原発がある大熊町から、福島県会津地方に避難するまでの1カ月を描いた「紙芝居」だ。 2011年3月11日。 中学2年だった。 大熊町内の体育館に避難する…

混乱の最中に何があったのか、復旧復興の意思決定は――。東日本大震災で被災した市町村が作成した公文書や手控えメモは、災害を記録し、後世に教訓をもたらす。だが市町村の対応はばらばらで、すでに一部が散逸した恐れが強い。専門家は市町村任せの現状に警鐘を鳴らす。 文書大量「場所・人手ない」 「7:46 避難漁船53隻 食料尽きかけている」「8:40 (自衛隊)只野旅館から生存者6名救出」 ポスターの裏紙に走り書きされた油性ペンの文字。発災直後、岩手県大船渡市役所の災害対策本部で書かれたとみられる経過表だ。「1名生存のもよう」の「生存」をこすって消し、「救出」と書き直した箇所もあり、生々しい状況をうかがわせる。 旧崎浜小の教室に積み上げられた17個の段ボール箱。中に収められた資料は市が永年保存すると決めた震災公文書や資料類だ。市は2012年1月末、震災に関わる全文書の保存を各部署に通知した。 通知を発

宮城県名取市閖上を通る県道の五差路に、水色の歩道橋がかかっていた。海から1・8キロ。震災の日、50人以上が駆け上がり、間一髪で津波を免れた。周辺のかさ上げ工事が進み、歩道橋は近く撤去される。 閖上1丁目に住んでいた針生(はりう)留美子さん(66)も、助かった一人だ。 午後2時46分の地震から少したっていた。町内を避難の呼びかけに回り、自宅に戻った消防団員の夫(68)から「なんでまだいる」と怒鳴られた。避難所の中学校に向かおうと、通りに出た時だ。どこかの子が「おかあさーん」と叫ぶ声が聞こえた。人がどんどん走って来る。ちゃぷちゃぷ水が足元に近づく。遠くに水煙を上げる茶色の壁が見えた。 「ここで死ねない」。とっさに思った。 駆けだした。振り返れば足がすくんだだろう。床屋の奥さんが自転車で家に向かうのに行き会う。「あんた戻れないよ!」。中学校舎の裏側にも波が押し寄せていた。「歩道橋しかないっ」。2

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