それによりますと、この書状は今の岐阜県の美濃地方を治めていた戦国武将の斎藤道三が近隣の地域の領主に宛てたもので、その内容や署名などから、1552年ごろに書かれたと見られるということです。 道三は、織田信長に自分の娘・濃姫を嫁がせています。 書状では、「信長とあなたは大変親しいということでうれしく思う」と記したうえで、信長について「若造で至らない点もあるがご容赦いただき末永くつきあってほしい」と伝えています。 信長の人生を側近がまとめた文献「信長公記(しんちょうこうき)」ではこの書状が書かれた時期に道三は若き信長と初めて面会し、その奇抜な身なりや言動で周囲から「うつけ者」と呼ばれていた信長の才能を見抜いたとされています。 村井准教授は「道三の書状はあまり残っておらず信長に言及していることも珍しい。書状には、道三が信長のことを大事に思い気にかけていることがはっきりと記されていて『信長公記』の記

どちらも戦国時代の戦術の研究に役立つ史料と期待されるが、この2人の書状よりも歴史的価値が高いとされるのが、室町幕府の2代将軍・足利義詮が配下の仁木義長に宛てた書状である。 朝廷が2つ並立した南北朝時代。初代将軍の足利尊氏と並立状態を終わらせた3代将軍義満の間に挟まれたせいで、つなぎ程度に扱われがちな2代義詮だが、前述した山田教授は義詮の書状を評してこう述べている。

「初撃は何があっても避けろ」我々取材陣を前に、一人の武術家は語った。 彼の名は横山雅始氏。氏が提唱する『総合実戦護身術“功朗法”(こうろうほう)』は海外の警察組織でも指導され、世界中から横山氏のもとに格闘家たちが教えを請いに集まっている。 槍の演武を披露する横山雅始氏。 さらに武術家たちの間だけでなく、武術監修の側面から映画やアニメといった界隈からも横山氏の知見を求めて相談がくるという。 「古武術の9割が、平和な江戸時代の発祥」と語る横山氏が、失われてしまった戦国時代の戦う技術を探求するためにとった手段は「戦国時代さながらの“ガチの合戦”を再現する」というものだった。 写真:ガチ甲冑合戦 – 日本甲冑合戦之会 横山氏の呼びかけで開催された『ガチ甲冑合戦』。参加者は、実際の戦国時代の侍さながらに鎧に身を包んで模擬の刀や槍を振り回して“ガチ”で合戦を楽しむこの取り組みは、これまでに大小含め25

リンク 大河ドラマ『真田丸』 あらすじ 第40回「幸村」|大河ドラマ『真田丸』 九度山での生活を楽しんでいた信繁(堺雅人)のもとへ、宇喜多秀家の家臣だった明石全登(小林顕作)が訪ねてくる。大坂城で… 2 users 5289 丸島和洋 @kazumaru_cf 日本中世史、戦国時代の研究者です。大河ドラマ「真田丸」時代考証。このアカウントは、告知を目的としたものですので、リプをいただいても御返事はしない場合があります。ご容赦ください。特に、大河ドラマの本編の内容については、このアカウントで呟く予定はありません。適宜、HPでフォローします。 https://t.co/uzHFXFwp9q 丸島和洋 @kazumaru_cf さて、ついに「幸村」放映です。史実では、信繁が幸村と改名した事実はありません。討死前日に出した感状でも、「信繁」と署判しています。「真田丸」での設定も、改名ではなく、別に

戦国武将や幕末志士と病との関係を現代医療の観点から診断した『戦国武将を診る ~源平から幕末まで、歴史を彩った主役たちの病~』が、朝日新聞出版から発売されました。価格は1,512円(税込)。医療月刊誌「メディカル朝日」で好評だったという連載に、書き下ろしを加えて書籍化したものです。 ▽ 朝日新聞出版 最新刊行物:書籍:戦国武将を診る本書では戦国時代、室町~平安時代、幕末の3つの時代について、その時代を生きた歴史上の偉人たちの病を取り上げ、現代医療の観点から診断し解説しています。著者である早川智さんは、日本大学医学部の教授として、免疫や感染症に関する研究をしています。その知識を生かし、本書では平清盛とマラリア、高杉晋作と結核など、感染症と偉人の関連性についても述べています。 かつては鯛の天ぷらによる食中毒で死亡したともいわれた徳川家康ですが、最近では死因は胃がんだったとする説も。本書の第2章

今日はあんまり時事・政治とかとは関係のない話をします。 「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」と本能寺と井戸の茶碗とすごい九州国立博物館の話です。本能寺の変で、明智光秀によって織田信長が殺された、ってのはみんな知っているとは思いますが、なんで信長は、少数の護衛しかつけないで本能寺にその時いたのか、という理由は、知らない人もいるかも知れないのでちょっと話してみます。 実は、前日の「天正10年6月1日(1582年6月21日)」に、本能寺で茶会がおこなわれ、それに信長はどうしても出席しなければならない理由があったのです。 で、その理由とは、博多商人の嶋井宗室(しまいそうしつ)が持っていたという伝説の「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」、なんですね。 →三宅孝太郎のラジオ出演2 吉田:えー、それで、明智光秀の謀反によって、本能寺で自害をする信長についてですが。信長が本能寺にいたのは、実はお茶会を開くためだ
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