高さ6.4メートルの防潮堤を越え、町をのみ込む大津波。土手の上を走る線路伝いに走って逃げる人たち。岩手県大槌町を襲った東日本大震災の津波の様子をとらえた一枚の写真がある。 同町安渡地区に住む佐々木慶…

宮城県石巻市に6月、国と県が整備した「みやぎ東日本大震災津波伝承館」が開館した。震災の記憶と教訓を伝え継ぐ展示施設のはずが、映像が見づらい、他県施設に比べ見劣りするなどと、評判はさんざんだ。展示を監…

10年前の3月11日、私は民間任用(2年満期)の内閣審議官として、メディアが立ち入れぬ首相官邸の最奥部で、事態の渦中に居合わせていた。 そんな人間の1人として、テレビ各局の「3・11」10年関連特番を見ていて、特に心揺さぶられた番組が2つあった。1つは、日テレの金曜ロードSHOW!「Fukushima50」(去年の劇場公開とは違った意味で) 。 もう1つが、NHKのETV特集「原発事故 ”最悪のシナリオ”/その時誰が命をかけるのか」。 ーーーそれらについてちょっと書こうかな、と思っていたら、奇しくも同じ2番組を挙げて先にコメントしている人が、意外な所にいた。 フランス「リスク・危機研」研究員の賞賛と憤慨フランスの「リスク・危機研究センター」(Centre de recherche sur les Risques et les Crises)の一員として、3・11以降たびたび来日し、福島原

東日本大震災アーカイブスでは、当時の映像を時系列に並べることで、何がどのように起こったのかをふりかえります。正直、まだふりかえりたくないという方も少なからずいらっしゃるかもしれません。しかし、何が起こったかを改めて見ることで、気がつくことも多いと考えます。発災から72時間に起こったことを、映像とともに見つめなおすことで、災害への備えの大切さや今後のための教訓について、一緒に考えることができればと思います。 2011年3月11日に発生した東日本大震災は、国内の観測史上最大のマグニチュード9.0を記録。(2011年3月13日気象庁発表) 死者・行方不明者は、1万8446人にのぼっている。(2017年3月10日 警察庁発表) 映像視聴時のお願い このサイトでは、東日本大震災に関する映像(津波や火災など)を公開しています。 このため、映像をご覧になった時に精神的なストレスを感じられる方もいらっしゃ

","naka5":"<!-- BFF501PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"

東日本大震災による津波は、被災地沿岸の地上だけでなく、海の中も一変させた。漂うがれき、失われた漁場……。そんな状況はこの10年でどう変わったのか。潜水取材を続けてきた朝日新聞のフォトグラファーたちの報告です。

新型コロナウイルスが猛威を振るっていた1月10日、宮城県内では多くの自治体が感染防止策を講じて成人式を開き、晴れ着姿の若者たちはマスクをつけて友人との再会を喜んだ。しかし、今年新成人となった武山詩織さん(20)はその日も、いつもの週末と変わらず、スーパーとコンビニエンスストアのアルバイトをはしごして過ごした。 【写真特集】武山さんが旧大川小を訪れた際の様子など 東日本大震災発生後に家族で引っ越した登米(とめ)市が式典を1年延期したこともあるが、欠席は前から決めていた。「晴れ着はお金がかかるし、登米の友達も式に行かないって言うので」。震災前に住んでいた石巻市も10日に開催したが、足を運ぶことは考えなかった。 母校の石巻市立大川小学校は小学4年生の時に巨大津波に襲われた。助かった同級生5人のうち1人はすぐ転校し、詩織さんは登米市から2年間通い、4人で卒業した。中学は一人、登米市の学校に進んだ。

10年前の東日本大震災で800人以上が犠牲になった宮城県南三陸町で、高校生や高校教師が人命救助や遺体の搬送などを行った状況を記した手記をNHKが入手しました。 人の生死に関わる具体的な内容が含まれていて、初めて明らかにした高校教師は「風化させないためにありのままの震災を知ってほしい」と話しています。 手記は当時、宮城県南三陸町にある志津川高校で教師を務めていた百々智之さん(42)が震災の1か月後に書いたものです。 高台で津波の被害を免れた志津川高校では、当時校内にいた教師や生徒、住民などが高台から駆け下りて特別養護老人ホーム「慈恵園」に向かい、一時救助活動をしましたが、その詳しい状況は知られていませんでした。 百々さんの手記は、慈恵園での救助も含め3月11日から16日までの5日間について記されています。 手記によりますと、百々さんたち教師と生徒ら十数人は津波の第1波が引いた直後に浸水域に駆

1リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く