杜撰すぎる作戦計画 牟田口の作戦計画がいかに杜撰であったかは、作戦行動に移ってからすぐに露呈する。 杜撰な例の1つは、北ビルマからインパールに向かう進撃地域が山系、峡谷、高地ばかりだったことで、兵士たちは標高3000メートルの山々をひたすら登り降りしながらすすまなければならない。この地形は牟田口や参謀たちの予想をはるかに超えていた。 しかもチンドウィン河からインパールの距離を、たとえば第15師団は約70キロ、第31師団は約100キロ、第33師団も約100キロと想定していたが、これは平地の実測に等しく、山系や峡谷を登り降りする距離のそれこそ10分の1ていどになるのではないかと思われるほど甘い計算だった。 行動開始日をもってチンドウィン河をわたるというが、その河幅は600メートル、流水部の河幅でも300メートル、水深は3メートルもある。しかも河岸は急斜面で、対岸もそれに輪をかけての急斜面だった

戦時中、国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(熊本県合志市)の入所者に対し、陸軍が「虹波」(こうは)と名付けた薬剤を投与する人体実験を行い、9人が死亡したことを示す文書群を、同園が初めて開示した。同園での人体実験で死者が出ていたことは知られているが、1次資料の全容が明らかになったのは初めて。 戦後のハンセン病患者隔離政策を主導した菊池恵楓園の宮崎松記園長は京都帝大医学部卒だ。死者9人を出した旧陸軍の「虹波(こうは)」の人体実験で、宮崎園長と同じく第7陸軍技術研究所嘱託だった熊本医科大の波多野輔久教授や、虹波を投与され死亡したハンセン病患者の遺体を解剖した同医科大の鈴江懐(きたす)教授(のち京大医学部教授)も、京都帝大医学部出身だ。虹波研究の人脈は京大医学部に連なっている。 京大医学部は、旧満州で捕虜らにペストなどを感染させるなどの生体実験を行った731部隊に、講師クラスの研究者を送り込んだ。虹

満洲事変以来、ゲリラ活動が激化し、農村地帯ではゲリラによる日本人襲撃、殺害が相次ぎ、関東軍司令部は参謀長名で麾下に厳重処分を許可する通達を出した[注 1][3]。撫順においても、7月以降ゲリラ活動が活発化、8月28日井上中尉の部隊が下章党でゲリラと交戦しゲリラ数十名を倒したものの日本兵士1名が戦死[4]、8月31日に当地の警察軍部隊にあたる警務隊が寝返り日本人指導員1名を拉致(後、殺害される)[4]、さらに9月8日守備隊の斥候隊が大東河(大東洲とも)でゲリラに通じた集落民の手引で襲撃され1名が戦死、1名が不明(後に遺体が発見される)[4][3][注 2]。 [注 3]事件の誘因となったのは、日満議定書調印の当日であった1932年9月15日夜更けの反満抗日ゲリラ「遼寧民衆自衛軍(当時の日本側は匪賊・紅槍会・大刀会[注 4]と報じている。)」による、撫順炭鉱襲撃事件である[9] 。この背景に
日本軍の侵略行為の象徴として語られる「南京大虐殺(南京事件)」。日中戦争中の一九三七年末から三八年にかけて、日本の占領部隊が南京市で捕虜・住民多数を殺害し、略奪、放火、強姦(ごうかん)などを繰り返した事件です。犠牲者数は数万から十数万ともいわれます。「戦闘の結果、民衆にも被害が出た」という程度のものではなく、捕虜と一般市民の組織的な大量殺りくでした。 体験手記募集 日本の戦争が正しかったと主張する人々は、この事件を「でっち上げ」「誰も見ていない」などとののしってきました。靖国神社の「遊就館」は「南京事件」のパネル解説で「敗残兵の摘発が行われたが、南京城内では一般市民の生活に平和がよみがえった」と述べています。 約二十年前、「でっち上げ」論の「根拠」を失わせる出来事がありました。 八三年十一月、旧陸軍将校の親ぼく団体「偕行社(かいこうしゃ)」の機関紙「偕行」に「いわゆる『南京事件』に関する情
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