訃報。 rockinon.com ロッキング・オン・グループ(株式会社ロッキング・オン・ホールディングス、株式会社ロッキング・オン、株式会社ロッキング・オン・ジャパン)代表取締役会長渋谷陽一は、7月14日(月)未明に永眠いたしました。 おれは『rockin'on』の読者だった。Japanはつかない。中学生のころだ。今から30年以上前のことになる。おれは洋楽というものに興味津々になっていた。おれはsuedeが好きだったし、beckが好きだった。そういう情報を読むことができる、インタビューを読める音楽誌、それが『rockin'on』だった。渋松対談で語られているアーティストのことなんてまるで知らなかった。それでも、写真に重ねられた読みにくい色の小さな文字、大量の文章、それは熱心に読んでいた。 あと、渋谷陽一といえば、おれのしらない昔のロックのベスト・アルバム・セレクションを出していて、聴いたら

コピーバンドなんだけどドラマーが下手くそすぎて自分たちのライブ音源聞くたびにイライラしてしょうがない。 下手くそどころか性格的に音楽を楽しめる素養すら持ってない、でもそいつの腐れ縁から誘われたがためにグダグダ大学生のころからドラムやってるらしい。 いや信じられんお前もうアラサーなのにどんだけ下手くそなんだよ、というかもういい加減ドラムやめろよ、別に音楽そんな好きじゃないんだろ。 わかるよお前の口からあの曲はどういうところが好きでなんて話聞いたことないよ。そもそも音楽を楽しめる真反対の性格なのお前の顔見りゃわかるよ。 世の中にはこんなえげつない矛盾抱えてる人がいるんだなぁと心底驚くばかり。音楽好きじゃないのに腐れ縁からバンドやろうと誘われて始めたドラムを嫌々アラサーになってもまだ引きずって、おそらく腐れ縁から唆されて買った15万くらいのスネアに8万くらいのバスドラペダル、ハイハットその他を

最初に言っておきたいのですが、私は『テイルズ オブ ジ アビス』のことが大好きです。最高のゲームだと思っています。でも、このゲームのせいでずっと具合が悪かったです。そのせいで、こんなタイトルになってます。 人は、いつか「人生観に影響を与える作品」に出会う。 それは、割かし子どものころに出会うことが多いのかもしれない。学生のころに触れたゲームやアニメなんかが、人格形成に影響を与えたりする。でも、「大人になってそんな作品に出会うこと」って……ある? いや、出会えた。 出会ってしまったのだ。 それこそが、『テイルズ オブ ジ アビス』だった。 遊んでる最中ずっと具合悪かったけど、なんかひたすら落ち込まされたような気がするけど……それでも私にとっては、私の人生にとっては、間違いなく必要なものでした。あとこれだけイジメられたので、なにかしらの仕返しをしたい。そんな気持ちで、感想を書いてみました。 感

Askaが止まらない。 陰謀論の話だ。 2016年の覚醒剤での逮捕から、2019年の解散、Chageへの批判、そして陰謀論への傾倒。 陰謀論を信奉する人々にとっては陰謀論こそが真実なのかもしれないが、「月は人工物」とまで言い出している。 私は90年代の後半、チャゲアスが全盛期を少し過ぎた、しかしそこにあった圧倒的な輝きがまだ感じられる頃にチャゲアスを聴いていた。 というか、姉がファンだったので、広く浅く当時の曲全体を聴く機会があった。 そして、その頃からどこかしら、こんな日が来ることを予感していた気がするのだ。 それについて少し書いてみたいと思う。 予め言っておくと、途轍もなく偏見まみれで客観性に欠けているので、その点ご了承されたい。異論は認めるけどスルー大推奨です。 ネットの掲示板にはAskaが圧倒的才能の持ち主で、Chageが凡庸のように書かれている。だが、当時の曲を聴いていた自分の見

『紅白』連続出場は33回。大ベテランながら、若い世代にも親しまれる小林幸子さん。ですが、ここまでの道のりは決して順風満帆ではありませんでした。心折れずに歌い続けることができた理由は――(構成=丸山あかね) 大喜びした父、大反対した母 8月の初旬に60周年記念コンサートを無事に終え、ホッとしているところです。10歳で歌手になってから、もうそんなに経つのですね。 デビューした1964年は、初めて東京でオリンピックが開催された年でした。歌手生活の間に東京オリンピックが2回も行われたことを考えると、長くやってきたものだなと思います。 コンサートでは、AI技術で10歳の自分の姿と声を再現していただいて《共演》したのですが、リハーサルで号泣してしまいました。彼女が私に聞くんです。「これから私はどうなるの?」って。そこからデビュー当時のことが走馬灯のように蘇ってきて……。10歳の自分と会話をしながら、た

朝日新聞が記事出してはてブでトレンドになってたが、記事もコメントも的外れなので、卒業後大学→一般吹奏楽団複数を渡り歩いた増田が「大半が高校卒業後に辞めちゃう本当の理由」を解説しておくよ。 1.まず、「続けられる環境」はあるほとんどの大学には吹奏楽部やオーケストラがあるし、大学の数以上に一般吹奏楽団があちこちにある。首都圏(東京、神奈川県、千葉、埼玉)には300以上の一般吹奏楽団が活動している。 これらの一般吹奏楽団は初心者お断りが殆どだが、逆に言えば「元吹奏楽部で楽器保有」なら引く手数多なのだ。楽器保有は若干ハードルがあるように見えるが、高卒まで続けるような管楽器部員は殆どクリアしてる。(クリア出来ない部員は途中でいなくなる) また一般吹奏楽団で吹奏楽コンクールに出るのは全体の3割くらいしかなく、7割はコンクールに出ずに年1の定期演奏会と数回の地元イベントに出る程度の団体が大半なので、「コ

12月10日、東京の代々木第一体育館でおこなわれた松任谷由実のデビュー50周年記念コンサート。20席ほど設けられた赤い椅子のVIP席に、小室哲哉(65)の姿があった。 【写真あり】1995年、絶頂を極めていたころの小室哲哉 「ごく普通のジャケット姿でしたが、髪を金色に染め、ひと目で小室さんだとわかりました。入口には、ミッツ・マングローブさんらのものと並んで、小室さんが贈った花が飾られていました」(観客の男性) 1990年代の音楽シーンを席巻し、総資産100億円以上といわれた小室は、2000年代に入ると失速。東アジア圏での音楽事業で大失敗し、70億円以上の借金を負った。そして2008年、自作の約800曲の著作権を架空売却した詐欺事件で逮捕され、2009年に有罪判決を受けた。 「逮捕時、小室氏が経営するプロダクションの口座には、6000円あまりしか残高がなかったそうです。被害者への解決金をはじ

怒り、恨み、願い……何らかの思いを備えた物品は広義で「呪物」というカテゴリに入れられる。物語に生きる人が生み出す呪的文脈は簡単にリアルを食いつぶす。 明るい呪物コレクターたち 小学校の頃によく遠足で中野の哲学堂に行った。東洋大学の創始者である井上円了が作った公園である。井上円了はオカルト否定派の学者であった。でも、基本的にその手の話が大好物だったようで、幽霊が出たという梅の木をわざわざ他の地から公園内に移植したりということやっている。 そして哲学堂の門には幽霊の木像が配置された。昭和の昔でさえすでに古ぼけてくすんだ色になっていたその木像は異様な妖気を発していた。遠足に来た小学生たちをいつも震えあがらせた。 「こわい!」「見ちゃった!」「見たら呪われるらしいぞ」「目が合った」「呪われた!呪われた~!」 中野区立北原小学校の生徒たちにとって、実際に呪われたかどうかは定かでないが、哲学堂公園入り

Adoさんが2023年7月10日放送のニッポン放送『Adoのオールナイトニッポン』の中で自身が歌い手となるまでの道のりをトーク。小学校1年生でネットやボカロと出会ってから、ネットに作品を発表して歌い手になるまでを話していました。 (Ado)まあ、そんな私は歌い手として活動してるんですが。「歌い手」っていうのは、いわゆる、なんですかね? 歌手とはまた違う、私が名義してる歌い手っていうのはボカロの曲をカバーして投稿させていただいているっていう、いわゆるネット文化から生まれた、ネット文化の歌い手っていう存在でやらせていただいてるんですが。私はね、本当に子供の頃……小学生の時はもうずっと、ネットズブズブで。そもそものネットのスタートも、何歳ぐらいだっけな? 私、割と早いんですよ。小1。だからもう、すごいよね。自分で言っておいて。すごくない? だからあれだよ。6、7歳。ぐらい。もうエリートでございま

うんこ @madanaizo 前、米津玄師がKICK BACKの歌詞を「人はどん底にいる時ほど、具体性を欠いて抽象的になる。幸せになりたいが、具体的な道筋はわからない。その状態を歌った」と話したのが話題になったでしょ。こういう話聞くと、俺は真面目に「米津、もうやめてくれ…俺の最後のプライドまで持ってくな…」と辛くなる2022-12-02 10:01:26 うんこ @madanaizo アーティストが「頭がいい」のは納得できるんだよ。色恋沙汰に関して詳しい。なんならウルトラマン等のオタク的な知識や情熱が自分よりあるのも受け入れられる。でも「不幸」に関してだけは、成功している君達よりも俺の方が詳しいはずだ。だから君達が「不幸」に関して何か言ってもダサまれないぞ!と2022-12-02 10:01:26 うんこ @madanaizo …と思ってたのだが、この発言を聞いた時は「あ、負けた」と思

1986年2月に放送が始まったアニメ・ドラゴンボール。初代オープニングテーマとなった『魔訶不思議アドベンチャー!』は、ドラゴンボールを象徴する一曲として世界中で親しまれています。 「つかもうぜ! ドラゴンボール」——。 放送当時、あの燃えさかる太陽のシーンから始まるオープニングテーマを毎週心待ちにしていた人も多いのではないでしょうか。 その歌い手である高橋洋樹さんは、当時なんと20歳。2021年には歌手生活35周年を迎えました。バンドでデビューすることを夢見ていたロック青年の人生は、「『魔訶不思議アドベンチャー!』を歌ったことで大きく変わった」と振り返ります。 高橋さんはどのようにしてこの曲と出会い、向き合ってきたのでしょうか。そして、世界中のファンの前で歌い続ける現在の思いとは——。 ※取材は新型コロナウイルス感染症の予防対策を講じた上で実施しました 語り手:高橋洋樹さん 1965年生ま
![[最初は“ドッキリかもしれない”と思った。高橋洋樹の人生を変えた『魔訶不思議アドベンチャー!』]| 【公式】ドラゴンボールオフィシャルサイト](/image.pl?url=https%3a%2f%2fcdn-ak-scissors.b.st-hatena.com%2fimage%2fsquare%2f4f2754e7fb78fa6abe4a7380d11aa98df498efee%2fheight%3d288%3bversion%3d1%3bwidth%3d512%2fhttps%253A%252F%252Fdragon-ball-official.com%252Fdragonball%252Fjp%252Fnews%252F2022%252F02%252F25%252Fimage_1.jpg&f=jpg&w=240)
このあいだ編集者の人と原稿の打ち合わせをしていたのだけど、いいアイデアが全く出てこなかった。 若い頃は人生の中で面白いことやワクワクすることがたくさんあったから、感じたことをそのまま書いていけばよかった。だけど、40代に入ったくらいから、心が動くことがあまりなくなってしまった。そうすると何を書けばいいかわからなくなった。若さの終わりを感じる。もう、自分に書けることはなくなってしまったんじゃないだろうか。 そんなことを思ったままに話すと、編集のTさんは「では、そういう気持ちをそのまま書くのはどうでしょうか」と言った。 「過ぎ去った若さについて書くとしても、50代になってから書くと、もう完全に枯れきった感じの遠い目線になってしまうと思うんですよ。でも、40代初めの今ならまだみずみずしい喪失感を書けるんじゃないでしょうか」 確かに、それはそうかもしれない。それは今しか書けないことな気がする。 4

昨今、さまざまなゲームジャンルが存在しますが、その中に音ゲーと呼ばれるものがある。 ご存知の通り、音楽に合わせてノーツをタンタンと叩いていくゲームだ。(周りの人間はダダダダダダダダという感じだが) 筆者は何故かこのゲームジャンルを通らず20年以上過ごしてきている。 しかし、昨年リリースされたプロジェクトセカイというボカロ曲を中心としたリズムゲームに触れて、もっと違う音ゲーをしたいなという気になってきた。 そこで筆者は以下のゲームに手を伸ばす。 DJMAX RESPECT VSteamのサマーセールにて格安であり、知人の間で流行りつつあったので便乗したかったという理由もあるが、色んな音ゲーに触れてどういうもんか知りたかったのが本音である 購入時の心境は、 「まぁ、ソロコンテンツ(全曲全難易度クリア)は24時間ぐらいやればクリアできるやろ(余裕)」 という感じで……。 しかし

地元の音楽フェスのクレーム係をやっていますが、先方が「帰る」と言うまで話を聞きます。すると結論は「他人が楽しんでるのが許せない」がほとんど。他幸会=他人の幸福を許さない会、があったら支持を得るんじゃないか、と思えるほど多いです。今後こういう人が減るとは思えない。さてどうする?

ミュージシャンのコーネリアスこと、小山田圭吾ですけど。 雑誌のインタービューによりますと、彼は、和光大学付属の小・中・高校時代に、いじめる側の生徒だったようです。 「ロッキンオン・ジャパン」(1994年1月号。編集長は山崎洋一郎)の小山田圭吾2万字インタビューによると。 「あとやっぱりうちはいじめがほんとすごかったなあ」 ●でも、いじめた方だって言ったじゃん。 「うん。いじめてた。けっこう今考えるとほんとすっごいヒドいことをしてたわ。この場を借りてお詫びします(笑)。だって、けっこうほんとキツいことしてたよ」 ●やっちゃいけないことを。 「うん。もう人の道に反してること。だってもうほんとに全裸にしてグルグルに紐を巻いてオナニーさしてさ。ウンコを喰わしたりさ。ウンコ喰わした上にバックドロップしたりさ」 ●(大笑)いや、こないだカエルの死体云々っつってたけど『こんなもんじゃねぇだろうなあ』と俺

先日、妻が亡くなった。 ガンだった。ガンが見つかった時は既にかなり進行していたようで、医者から具体的なステージ名は告げられなかったが、余命3ヶ月を宣告された。 あらゆる治療を試みたが、彼女は治療開始から6ヶ月で亡くなってしまった。 治療中は全力で彼女のサポートをしていたので、音楽を楽しむ時間も心の余裕も無かった。 だが、葬儀や一連の手続きが済んだあと、ふと耳に入ってきた米津玄師のLemon。歌詞があまりに今の自分と符合していて、聴きながら号泣した。 勿論、以前からこの曲を何度も聴いたことはあったが正直そこまで深く歌詞を吟味したことはなく、何となくいい曲だなという印象しかなかったが、妻が亡くなって歌詞の感じ方が180度変わった。 そこでお願いします。 米津玄師のLemonのように、居なくなってしまった大切な人に思いを馳せる曲を教えてください。日本語の歌詞だと助かります。 6/16 追記: 1

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