2019年5月14日、webサイト「TOCANA 知的好奇心の扉トカナ」[i]に、東京大学大学院人文社会研究科の三浦俊彦教授による「『レズビアンたるもの、相手にペニスあっても女だと思ってヤレ』世界で広がる狂ったLGBT議論を東大教授が斬る!」と題された記事が掲載されました(https://tocana.jp/2019/05/post_95219_entry.html)。 同記事の主張は、トランスジェンダーに関する、そして性的同意に関する不正確な理解を多く含んでおり、トランスジェンダーの人々やレズビアン女性に対する差別や偏見を助長するものです。東京大学には、一般社会においてそうであるのと同様、トランスジェンダーやレズビアンの学生も在籍していますが、このような差別や偏見はこの学生達の心身の安全や安定とを脅かしかねません。 東京大学憲章は、その前文において「構成員の多様性が本質的に重要な意味をも

離婚後300日問題-民法772条による無戸籍児家族の会離婚後300日問題、相談無料。 この世から『無戸籍児』をなくしたい・・・ 心からそう願っている、家族と支援者のブログです。離婚後300日問題に掛かる子供は毎年3000人に及び、また、この民法772条の規定がネックとなって戸籍のない子供達や無戸籍者がこの国には存在しています。 私たちは、離婚後300日問題による無戸籍を解消するための認知調停等のサポートをしております。 自分たちが苦しんだ経験から、ひとりでも多くの子どもが真実の父の戸籍に登録されるようにとサポートを続けて10年、多数の認知調停を成立へと導いてきました。 調停・裁判や行政の手続きのこと、戸籍のこと、出産や育児の上での不安、どんな些細なことでも一度お気軽にご相談ください。相談無料、秘密は厳守します。 (当会提携弁護士に依頼される場合には、別途費用が発生します) 【相談事例】
匿名ダイアリーで、「女性器切除」の話題がブックマークを集めている。 「女性器切除」 http://anond.hatelabo.jp/20090923003429 この記事によれば、勝間和代が「クーリエジャポン」で「女性器切除」の話題を紹介しているようだ。そちらがどのような記述になっているのか、まだ確認できていないが、少なくともこの匿名ダイアリーの記事は問題があるように思うので、フォローを書いておく。 ネットで検索しても、「女性器切除」を廃絶する運動の記事が多い。虐げられた女性に対する同情と、そうする男性に対する怒りから、今すぐ「女性器切除を廃絶すべき」だという思いに駆られるかもしれない。第三世界では、いまだ古い掟にムスリム女性が縛られ、犠牲になっているという議論が始まるかもしれない。 だけど、ちょっと待って。これは、フェミニズムの中で、大きな議論を巻き起こした問題なのだ。この問題をいち早

救助隊員のあなたが、沈没事故の連絡を受けて現場に急行したとしよう。ところが、救助隊員のあなたが乗っている船には一人分の余裕しかないのに、現場では二人の人間が溺れていたとしよう。・・・ いつも不思議なのは、人間の生死は最も重大な問題であるはずなのに、最も算術的に処理しやすい問題になってしまうということである。二人を救助する方が一人を救助するよりも正しいということには、2が1より大きいということ以外に根拠はない。二人を救助できない場合には一人を選択して救助するのが正しいということには、マイナス2よりマイナス1が大きいということ、マイナス1よりプラス1が大きいということ以外に根拠はない。救命船問題とは、道徳の問題ではなく、算術の問題にすぎないのだ。そして、二人を救命できない状況を引き起こした人間の責任を問わないとすれば、また、こうした作為的ストーリーをことさらにこしらえる道徳学者の責任を問わない
きのうの、デモの報告です。 きのうは、集会やデモをするには、もってこいのいいお天気でした。集合時間の3時ちょうどに、新町北公園に着くと、公園の前には、パポパポと赤いランプをぐるぐるさせたパトカーと、おまわりと、公園を取り囲むように、不気味な姿でたたずんでいる公安たちがまず目に入りました。五月晴れの、すがすがしい青空にもっともそぐわない、風景ぶちこわしのものどもです。わたしは、職業に貴賤ナシという、近代的平等主義の価値観を、まがりなりにも持っていると思っていますけれど、わたしは、公安に対してだけは、世界中にある、ありとあらゆる差別的、侮蔑的な言葉をあびせかけて、賤しめてやってもいいと思っています。批判をまったく恐れずに大声で叫べます。「公安」というものの存在を許さないぞー!「公安」なんて、●△◆×▲◎■!!!(←あまりにも、ひどい言葉すぎて、電波にのせられません) そんな風に、さわやかなデ
藤子F不二雄(ふじこ・えふ・ふじお)のSF短編マンガは、繰り返し同じ世界を描いています。それは「人間」がマイノリティーとなる世界です。それは、いわゆる「ディストピアもの」と言ってもいいでしょう。たとえば、「絶滅の島」という作品(1985年)(注1)では、人類が絶滅の危機に瀕した地球が舞台です。地球は毛むくじゃらの巨大な「宇宙怪物」たちに突如攻撃され、圧倒的な軍事力の差に、地球人はほとんど殺戮されてしまったのです。生き残った主人公の少年は言います。「戦争なんてものじゃなかった 一方的に焼き尽くし、破壊しつくし、殺しつくし……。 人間をまるで雑草か何かのように……。」彼を含む27人は、「秘島ツアー」で孤島にやってきていたため殺戮をまぬがれ、生き残ったわずかな人間です。しかし、その人々も宇宙怪物に見つかってしまい、襲撃を受けます。人々は武器をもって抵抗しますが、次々に捕らえられ、残虐な仕方で殺さ
世の中には、おぞましいものがいくらでもある。その中でも、自分が昔から何よりもおぞましいと感じてしまうのは、おぞましい現実に言及しつつ・言及することで自分の身をその現実から安全地帯へと引き離すことができる─引き離せばそれでよい、一件落着、と考える人の心に潜むものである──ということに、わりと最近思い至った。一つ二つのきっかけで思い当たったのでなく、いろいろな経験が積み重なって、その重みが、鈍い自分にもようやく感じ取れるようになってきた、ということだろう。 ちょっと回りくどいというか、極端かもしれない例を上げる。 イスラエルのガザ侵攻が深刻な様相を呈していた頃、とある軍事オタク系の──と言ったら失礼かもしれないから、「研究者」の、と言っておこう──ブログ記事に行き当たったことがある。イスラエルが使用した白燐弾についての記事だった。 記事の主旨はこんなようなことである。 ○白リン弾は本来
...サヴァルタン[ママ]が語り得ないならば、語れるように教育すればよい。初等・中等教育はもちろんのこと、成人教育も重要な役割を果たす。部落解放運動の中では、成人に対する識字教育が行われてきたが、その中では、生活史の作成がなされることがあった。つまり、読み書き能力の獲得は、自分の置かれている状況を日常的な構えとは違った反省的な視線でとらえ返すための手段でもあるのである。当事者のエンパワーメントという側面が強調されがちであるが、識字教育は、社会的な現実の構成/記述という点でも、大きな可能性を持つ。社会学者が代弁してあげるのではなく、当事者が語ったほうがずっと迫力があるし、影響力も大きいのは当然である。アクティブインタビューか、識字教育か? | Theoretical Sociology * * * * * ありそうだけど実際にはなさそうで、でもやっぱりありそうな話。 僕は幼い頃から背が小さく
無痛文明論 作者: 森岡正博出版社/メーカー:トランスビュー発売日: 2003/10/16メディア: 単行本購入: 3人 クリック: 63回この商品を含むブログ (55件) を見る 読んだ! 例の「草食男子」で妙に有名になってしまった人文学者森岡正博が、二○○三年に上梓した文明論である。 いやあ、これはおもしろかった。哲学書に対して「おもしろい」とは必ずしも褒め言葉にならないかもしれない。しかし、それでもなお、この本に対しまず出てくる言葉は「おもしろかった!」というひと言に尽きる。 全編スリリングな洞察に満ち、リズミカルな文体のおかげもあって、四五一頁を一気呵成に読むことができる。とにかく、これだけの分量を一気に読ませる哲学書というものは、それだけで貴重だといえるだろう。本書でまな板の上に乗せられるのは、現代社会の行き着く先に待つとされる「無痛文明」である。無痛文明とは何か? それはひ

無痛文明論 作者: 森岡正博出版社/メーカー:トランスビュー発売日: 2003/10/16メディア: 単行本購入: 3人 クリック: 63回この商品を含むブログ (55件) を見る 非常におもしろい本だったので、もう少し考えてみよう。 無痛文明論とは、もっと気楽に生きたい、不快なことを避けたい、という「身体の欲望」が導き出す「無痛文明」を敵視し、「生きるよろこび」を再生させようとする思想であった。 しかし、『無痛文明論』一巻を読み終えたとき、ぼくは何か割り切れない、もやもやしたものを感じざるをえなかった。知的だとは思う。明察だとも感じる。ただ、そのおしつけがましさが我慢ならないような気がしたのだ。 無痛文明論では、はっきりと苦痛を乗り越え「生きるよろこび」を謳歌する人生が良い、と定義されている。無痛文明に浸りきり、日々怠惰に無自覚に生きることは口をきわめて非難される。 無痛文明に浸ること

■民族主義の問題 http://www.mojimoji.org/blog/nationalism ■民族主義とは別の道 http://www.mojimoji.org/blog/0179 ■民族主義の問題、その2 http://www.mojimoji.org/blog/nationalism2 mojimojiさんの議論は、次のような図式を前提にしている気がします。 そもそも、在日コリアンとか、沖縄人といったカテゴリは、たとえば在日コリアンの家族あるいは沖縄で生まれた者にたいして、アプリオリにはその本質を規定しない。したがって、「あるべき」在日コリアンや沖縄人は存在しない。在日コリアンであるとか沖縄人であるとかいったものは、男や女あるいはセクマイなどと同様に、「わたし」を構成する要素のひとつとして存在する。その要素にたいしてアイデンティティを持ち、その要素を尊重して生きることは否定され

わたしは、いつも、何ものでもなく、ただ「わたし」でありたいと願っているのですが、でも、わたしが何ものでもなく「わたし」だと思っているものは、本当に何ものでもない「わたし」であるのか、いつもわからなくなります。 わたしは、今、朝鮮舞踊とチャンゴを習っています。舞踊のほうは、今年で四年目で、チャンゴの方は、習い始めてまだ一年しか経っていません。どちらも難しいですが、でも、習い始めてよかったと思っています。踊りを習い始めたきっかけは、オモニたちのように「オッケチュム」を踊れるようになりたいな、そして、わたしも、オモニたちと一緒にほがらかな顔で楽しく「オッケチュム」を踊りたいな、そう思ったことでした。「オッケチュム」は、オッケ(肩)をつかって自由に踊る踊りで、もともとは、どこかに習いに行くというような、形式ばったものではないように思います。むしろ、そういう形式性とはもっともほど遠い、ひとりひとり
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