来週のプレゼンテーションの打ち合わせ → 会議6時間、途中で前年度実績の分析報告 → 来週用のプレゼンテーション作って終わったら午前3時半。企画課のリーマンか私は(挨拶)。 というわけで疲弊したので少し晩酌。ジョッキに氷とともに入っているのはホッピーではなく、ビアラオというラオス製ビールです(他にあるのかは知らない)。冷蔵庫がまだ十分ではないせいだと思うのですが、現地ではよくこうして氷に注いで飲みます。まあ邪道ですが、暑い中でこうして薄まった軽いビールをぐびぐびやるのもなかなか風情のあるものでした。ビール自体はアルコール5%程度の、まあ軽いけどそれほど不思議ではない味のものです。指導している大学院生(と言ってもラオスの職業裁判官ですが)からお年賀にもらったのでありがたく堪能しました。というわけで、雑感。 AとBが対立している場面において、「Aを絶対善だと考えるな」という主張が「Bが絶対善で
作者よりブログ開設したので移行しました。こちらにどうぞ。 なお、事実誤認があったのでこちらに訂正・補足しました。本文これを書いた元増田です。これだけ丁寧に書いてもわからん人たちにはいいかげん怒りが抑えきれなくなってきました。 特に、この人はどうしても許せない。他の人にも言いたいことはあるが、まずこの人だけやっつけておく。 あたまが悪いのはお前だ、id:Wallersteinhttp://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20080813/1218593841 曲学阿世の徒はどっちなんだか。 まあその気になれば勤務先のジムのバイト君が理学博士(数学)なんで聞いてカンニングすることもできるけど。まあすぐに馬脚は現れるだろうしやらない。 その程度の認識なのか、この人は。カンニングしたところで理解できるのは辞書的な定義だけで、背後にある発想というものは頭をひねって苦しまなけれ

作者よりブログ開設したので移行しました。こちらにどうぞ。本文トリアージ騒動が理解できないと書いた増田です。ブクマでは大分批判を頂いたようですが、私が以前から尊敬していた方々複数が根拠を示さずに印象操作だけを行っていることに至極がっかりしました。 そのことはさておくとしても、トリアージ批判陣営の「説明」を読んでもやっぱり理解できないという結論に至りました。そのことを報告させて頂きましょう。 「理解できない」の意味誤解されたくないので断っておきますが、「理解できない」というのは「理解を拒んでいる」という意味ではありません。「あなたたちが何を前提に語っているかわからないから、あなた達の論理をトレースできない」ということです。要するに、暗に「あなたたちは自明でもなんでもないことを勝手に前提にしている」ということ。これをちょっとわかって頂きたいですね。 「あたまがわるい」といわれればそうかも知れな

叩かれて反論して、いつまで経っても議論がかみ合わないのに、 気がついたら一方的に勝利宣言されて、何だか世間では自分が「負けた」 ことにされてる。 そんな理不尽の、パターンと対処。 見える「世間」はものすごく狭い それはコメント欄であったり、ブックマークに寄せられたコメントであったり。 実際にサイトを見て下さる人は、たぶん数万人の単位でいるはずけれど、 その人達が文章を読んで、実際のところどう思っているのか、文章を書いた 側からは、「コメント」を通じることでしか、把握することができない。 自分は「こう」思われているなんて、作者の印象は、だからコメントを 残したり、ブックマークを残してくれる、ごく少数の「世間」が決める。 世間はすごく狭い。 自分がこの場所で文章を書く。たまにほめられたり、叩かれたりする。 時々「匿名ダイアリー」みたいなところでも書く。匿名だから、 いつもと同じ立ち位置で書くと
(娘5歳8ヶ月)娘の好物と年長さん1学期のお弁当記録 娘をただ微笑ましく見つめていただけなのに……(夫) こっこの最近の好物は「にんじんしりしり」と納豆を混ぜて食べること。 我が家のしりしり&納豆好きといえばまず夫ですが、夫は卵入りのしりしりが好きで、こっこはにんじんとツナのしりしりが好き。わたしはどっち…

数字・統計に明るいと何がいいのか 2008年2月17日 コメント: トラックバック (0) 入試のシーズンです。私の本務校はわりと早めの入試日程なので合否の判定も終了し、受験生のみなさんは様々な意味[*1]での「選択」を迫られていることと思います。「大学に入る方の話」と並行して、新4年生にとっては「大学卒業後の話」、要するに就職活動が本格化するシーズンでもあります。 新入生に経済学部を選んだ理由を聞くと、消極的なものとしては文系だけど法学部や文学部といわれてもピンと来ないからといったいまいちやる気の感じられないもの[*2]、積極的なものとしては将来ビジネスマンになるから[*3]といったところのようです。一方、企業が経済学部出身者に望んでいるものはなんでしょう。その理由もまた消極的なものと積極的なものにわけられます。後者の代表が「数字・統計に慣れ親しんでいるから」というものです[*4]。 そ
あるデパートの7階に、レストラン街があった。カレーにラーメン、寿司に天麩羅、ハンバーグ、パスタにスイーツ(笑)。 まあ、いろいろでいろいろなのだが、お昼時には行列ができる。 そこで、ある男が名案を思いついた。 「客を広場のテーブルに並べ、食べたいものを専門店から持ってくるようにすれば、待たずにいろいろな物が食べられるんじゃ」 さっそく、デパートの支配人に申し出て、サービスを開始した。 待たずに専門店の味が楽しめるのでそのサービスは大好評。 ところが、ある日、天麩羅屋の人たちが、支配人の元にやってきた。テナントをやめます。 自分の店の客を待たせているのに、テーブルからの注文を受け付けないといけない。キッチンが疲弊した。また、一品料理じゃなくて、安いコースばかり注文されるので、利益があがらない。板前も、お造りやカウンターで腕を振るえないのでモチベーションが下がっている。 店が減った。 その流れ
レジデント初期研修用資料 引っ越し前の旧blogです。新しいアドレスは http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/ になります 「事実が事実として通用する」世の中は、恐らくは不自然な状態。 もちろんそんなありかたが心地いいと感じる人が多数派だからこそ、 たいていの場合、事実は事実として通用するけれど、 「事実がそのまま通用すること」と、「その事実が運用不可能であること」とは、 やはり同じではありえない。 不変の価値が共有されても、世の中にはやはり、それを変えたい人がいる。 問題を相対化して撹乱するやりかたは、相対化を狙う側からは、やっぱり有効な手段に思えて、 そんなやりかたを否定する人たちが盛り上がっていたけれど、 やっぱり「個別に潰す」やりかた以外の解決策が見えてこない。 議論相対化の回避手段と、「変わらない前提」を信じる人達に課せられた義務について。 状況を維持す
主張・意見はどこから来るのか 2008年1月 8日 経済・ビジネス コメント: トラックバック (0) (これまでの 飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」はこちら。) 私自身の経済学観は「経済学とは目的達成のための手段・技術を開発するツールである」というものです。このような経済学観にしたがうと経済政策に関して経済学は「○○という政策が良い」「××という政策を行うべきだ」という主張は出来ないと言うことになります。経済学を使って示すことが出来るのは「△△の達成には○○がもっとも安上がりだ」「××という方法は時間がかかる」という技術的な問題になります。 このように説明すると、ずいぶんと経済学の世界を矮小化していると考えるかも知れません。しかし、少なくとも私は、これこそが経済学の最も優れた性質だと考えています。それ以上に、感情を超えた「○○という政策が良い」「××という政策を行うべきだ」
ソバ派:「拉麺なんて無いよね」 拉麺派:「あるよ拉麺。駅前で旨いのあるよ」 ソバ派:「ここに持って来いよ」 拉麺派:「なんで俺が」 ソバ派:「ほら、ここにソバならあるよ。蓋開けて麺を熱湯浴4分」 拉麺派:「それ、あんまり美味しくないよ。お客様には出せないよ」 ソバ派:「じゃあ、お前、拉麺作れよ」 拉麺派:「だから駅前に安くて(そこそこ)美味いのがあるのに、なんで、今からスープとって小麦粉練って、作らないといけないんだよ」 ソバ派:「お前態度が生意気。そんなお前らが好きな拉麺は、きっと不味い食べ物なんだ」 観客達:「拉麺マダー? ソバマダー? チンチン」 追記 拉麺派:「しかたねぇ、俺が手元の材料でつくってやる。3分だ」 観客達:「うめーうめー」 拉麺派:「3分で出来る拉麺なんて、たかが知れてるだろ。駅前の拉麺屋いけよ最初から」 ソバ派:「うめーうめー。なんでもっと早くださないんだよ」←
http://www007.upp.so-net.ne.jp/ossu_oragokuu/majan.html 原宿くんの「能力者麻雀」無事に第一回大会が終わりました。今回は「サイコロとルールブックとチップ」という「テーブルトークRPG」な感じの道具立てだったんですが、次回からは「カード+チップ」というMTGライクな感じで行きたいそうです。なのでサンプルカードを描いてみた。画面は全て開発中です。 ツヴァイ・ピッケン◇二度ヅモ パラダイム・シフト◇手牌とドラ表示牌を入れ替え 狂戦士の爪痕◇一巡強制ツモ切り こういう絵が一番描いてて楽しい。「パラダイム・シフト」の絵は向精神薬のチラシみたいだけど。カードの真ん中にあるのは属性のつもり。「ゴースト」は便利な能力系、「チェンジ」は入れ替え系、「スタンピード」は暴走、回避不能系ってイメージ(勝手に考えただけ)。まだカード化は開発段階だけど、すでに第二

クビにされそうだった大学教員です。現役大学生とか、これから大学生になる人とか、大学生の親になる人向けのつもりで。 面白かったときにブログランキング【ココ】を押してもらうと、中の人が喜びます。 根拠を調べろ、と、口をすっぱくして講義した結果、学生さんからこんな質問。 「先生、東京が首都である理由が見つかりません」 なんで、そんなことを調べていますか。 「え?プレゼン演習で」 ??俺以外にそんな科目もってた人いたっけ? で、事情聴取してみると、おばちゃんの連れてきた非常勤さんが、発表のスキルとやらで、そんな授業をしているんだとか。あらまあ。 そんなわけで学生たちは、昔やった調べ学習(小学校から高校までの間で、大体経験済みらしい)のテーマを、大学生目線でもう一度ってなことをやらされている模様。 そして、この子は遷都論。 (関係ないけどセントロンって書くと理論物理のにおいがしない?) さんざん調べ
レジデント初期研修用資料 引っ越し前の旧blogです。新しいアドレスは http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/ になります 「相転移」という現象が面白い。環境を決定するパラメーターの変化は常に連続的で、 ゆっくりとしたものなのに、表面に現れてくる変化は劇的。昨日まで何も変わらなかった 日常の連続が、ある日を境に全くの別世界になるような。技術が成熟して、同じ事をやるのに要するコストはだんだんと安価になって。 成功が重なり、それが成果でなく当たり前のことになり、失敗したときのコストばかりが 加速していく昨今。 たぶん、技術が成熟してくるどこかのタイミングで、「その問題に誰が取り組むのが最善なのか」 を論じるコストが、「その場で使える全員に、同じ問題に取り組ませる」コストを上回る 時が来るのだと思う。 問題の取り組みかたは真逆になる。それまでは、問題を慎重に吟味して、
ネットに限らずの話ではあるが、ネットだとどうしてもよく見かけることになるので。 人間にとって、自分の意見と異なる意見を見聞きすることは、実はけっこうなストレスなんじゃないだろうか。直接自分に向けられた意見でなくて、どこかで全く無関係にふっと書かれていたりするのをたまたま読んだというだけでも。 自己承認云々とはまた別のからくりのような気がする。多様性の存在とはそうあるべきで、従って自分と異なる意見が世の中にはたくさんあって、中には真反対の、互いに完全に相容れない意見も存在する、ということは理解かつ承認している。 ただ、なにか、不安なのだ。均質なものだとなんとなく安心できて、雑多であるとそれだけでなんとなく不安になる、というような。怒りやむかつきまでもいかない、なんとなくざわざわと落ち着かないような、決して気持ちよくはない、妙な胸の感覚。 議論の有意義さ、異論の重要さは承知している。それに、す
レジデント初期研修用資料 引っ越し前の旧blogです。新しいアドレスは http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/ になります 「感情や力に訴える」「論理で詰める」「第三者の力を利用する」。 この3つのやりかたは、それぞれじゃんけんのような 相補的な関係を持っていて、世の中は「圧力のじゃんけん」 を繰り返しながら廻っている。 強弁とか恫喝、あるいは弱さを強調するようなやりかたに対しては、 警察力や訴訟の話、あるいは行政機関の紹介といった第三者の力で対抗する 訴訟をちらつかせたり、あるいは市民団体みたいな人達の圧力に対峙するには、 専門的な、理を尽くした話を展開したり、「1000冊読んでない人がSFを語るなんて」 みたいな専門家の壁を利用したりするのが正解 自分の知らない専門的な話題、あるいは持っている知識量の差で負けが確定する ような状況に追い込まれたときは、「逆ギレ
科学論と哲学との関わりでは「ヒュームの問題」と呼ばれる帰納に関する問題、古典的な難題がありました。それはある意味科学法則の真理性を疑わせるに足るものであり、これを「哲学の入っている戸棚の中の骸骨*1」だと言った方*2もおられます。 それをとても簡単に申しますと帰納した事柄に関する真理性は論理的には導けないということにでもなりましょうか、これで少なくとも簡明でナイーブな科学に対する信頼というものには疑問があるということになり、科学法則が論理においても経験においても合理的に確実な基礎を持たないのではないかということが真剣に議論されたのです。 バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』でも、この問題に関して次のような言及がなされています。 ヒュームは純粋な経験主義が科学のじゅうぶんな基礎ではないことを証明した。しかしもしこの一原理[帰納]が認められれば、他のすべてのことを、われわれのすべての知識は経
仕事をしていていつも疑問で仕方が無いことがある。一部の人たちは、ある一つのことを学んだときに、その概念を理解せず、知識としてしか身に付けない。ほんのちょっとだけパラメータが変わっただけで、全てが違うものと認識し、また新たに学習する。 「ここのロジックをどうすればよいかわからない」 「え、それこの前のあれとほとんど一緒じゃん。ここをちょっと変えるだけだよね」 「あーそうかー、わからなかったなあ」 という会話は一見、気付きの問題に見えるけれどもそうではない。汎化という論理構造を持っていないのではないかと思われる。オブジェクト指向言語が世に出て久しいのに糞コードが量産されるのもこれに類する問題だろう。ちょっと話は違うけど、「コピペでよい」というのは状況依存的発想としては必ずしも間違いではないけれども、本来受け入れるのに歯を食いしばって我慢するほどの行為であるはずだ。 知識をセオリーとして定着させ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く