昭和20年9月21日夜、ぼくは死んだ――。 スタジオジブリ制作のアニメ映画「火垂るの墓」は、14歳の主人公、清太が駅構内で息絶える場面から始まる。空襲禍で幼い妹と身を寄せた親戚宅を飛び出し、迎えた悲…

「戦争を拒否し、平和に動員を」というプラカードを掲げる良心的兵役拒否者のイド・エラムさん(左)とイタマル・グリーンバーグさん(右)/Kara Fox/CNN イスラエル・テルアビブ(CNN) イスラエル中部にある軍刑務所で、イタマル・グリーンバーグさん(18)は、米軍の装備として支給された軍服を着て娯楽室のテレビから大音量で流れるハリウッド映画「アメリカン・スナイパー」を見ていた。 しかし、グリーンバーグさんは兵士ではない。いわゆる「リフューズニク」(イスラエルで「良心的兵役拒否者」を指す呼称)にとって、この砂漠迷彩の服装が唯一着用した軍服だった。 グリーンバーグさんはこの1年間、刑務所を出たり入ったりしており、合計197日間服役した。最後に刑務所から釈放されたのは、3月はじめのことだった。 グリーンバーグさんの「罪」は何か。それは、18歳を超える大半のユダヤ系イスラエル人と一部の少数民族

去年10月7日にパレスチナのイスラム組織ハマスがイスラエルに大規模な襲撃を仕掛け、これに対してイスラエルがハマスの壊滅と人質の奪還を掲げてガザ地区への大規模な攻撃を始めてから1年。 ガザ地区は壊滅状態になり、死者は少なくとも4万1000人に上っていますが、激しい攻撃はいまも続いています。 さらに、イスラエルはハマスを支持する勢力を排除しようと隣国レバノンへの侵攻にも踏み切り、また長年対立してきたイランとの攻撃の応酬も繰り返して、中東全体が戦火に包まれる懸念が高まっています。 そもそも「世界で最も解決が困難」といわれてきたパレスチナ問題とは何なのか。 なぜイスラエルとパレスチナは凄惨な対立の歴史を繰り返してきたのか。 かつてエルサレムにも駐在し、この問題を取材し続けてきた鴨志田郷解説委員が分かりやすく解説します。 ※この記事はNHKのWEBサイト「大学生とつくる就活応援ニュースゼミ」の中で2

104歳の中野清香(なかの・きよか)さんは「地獄」を知っている。約80年前、そこにいたからだ。 水たまりに頭を突っ込んで倒れている兵士がいた。まだ生きているのに、誰も助け起こさない。 蛆(うじ)がわく死体の隣で眠っても、死臭が気にならなくなっていた――。 「戦争が終わった時、喜怒哀楽の感情がすっかり抜けていた。今考えると、とても恐ろしい」 子犬の肉球まで食った 太平洋戦争で最も悲惨な戦場の1つといわれる東部ニューギニア(現在のパプアニューギニア)の戦い。日本に戻ることができた兵士は1割もいないとされる。 「食い物のことしか頭にない。敵の攻撃も恐ろしくなかった」 イナゴを捕まえて羽をむしり、そのまま食べた。10センチぐらいのトカゲを火の中に放り込んで口にいれた。山中でちょろちょろと歩いてきた子犬を殺し、足裏の肉球まで食らいついた。 降伏は許されず、突入して潔く死ぬよう玉砕命令が出た時、銃1丁
薩軍と官軍の進路、西南戦役作戦経過要図明治10年2月14~9月24日[2] 西南戦争(せいなんせんそう)は、1877年(明治10年)1月29日から9月24日に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本最後の内戦でもある。西南の役(せいなんのえき)[3]または丁丑の役(ていちゅうのえき)[3]ともいう。 西南戦争は1877年(明治10年)1月に勃発し、官軍に鎮圧され同年9月に西郷が自決して終結した[4][5][6]。 西郷隆盛は征韓論に敗れると参議を辞し、1873年(明治6年)10月に鹿児島へ帰郷したが、これに従って桐野利秋、篠原国幹、別府晋介ら鹿児島出身の官僚や軍人約600人も帰郷した[4][7]。鹿児島では将来の一大事に備えて集まる場所がほしい、あるいは将来のために学校を設け

須臣 @snafkin161 父のいとこに聞いた、祖父の兄の北方領土での話。 所属していた部隊にロシア語を話せる士官がおり、進軍してくるソ連軍とお互いに談合し「明日はあそこに砲撃するから逃げといてね」という具合に、故意に戦線を膠着させお互いに無意味な犠牲を避けたとのこと。 つづく↓ 2021-11-04 13:51:27 須臣 @snafkin161 また、ソ連側は損害が出なくては報告を不審に思われる可能性があるので、国に帰っても貧乏で生活が苦しい者を選んで書類上戦死扱いにしていたとのこと。 国には二度と帰れないが家族には保障が出るらしい。 戦死扱いになり帰れないソ連兵は日本の引き上げ船に乗り、途中の島で下りていったとのこと。 2021-11-04 13:57:39

日本に必要なのは空虚な「反権力」ではなく、本当の敵「反空気」である 〜〜「20世紀の神話」は今こそ終わらせるとき(第5回) 前世紀感覚の人はすぐに「権力が暴走する」「権力の乱用に歯止めをかけなければ」といったスローガンを言いたがります。しかしこの「権力の暴走」って、いったい何を指して言っているのでしょうか? 「権力の暴走」を言う人の根っ子にあるのは、たいていの場合は太平洋戦争でしょう。「軍部が暴走して無意味な戦争を引き起こした」みたいなステレオタイプな説明は、そこらじゅうに溢れてますからね。 しかしこの「軍部の暴走」って本当でしょうか? ひとつわかりやすい例を。伊丹十三さんのお父さんで、同じく映画監督だった伊丹万作が終戦の翌年に書いた有名な文章を引用しましょう。 「みんな、今度の戦争でだまされたと言ってる。みんなが口をそろえてる。でも私の知ってる限り、『おれがだました』って言ってる人はひと

1945年5月10日のヨーロッパにおける軍隊配置状況。 赤地に黄数字がソ連軍、緑地に黒数字がアメリカ軍、茶地にベージュ数字がイギリス軍 想像を絶する作戦(そうぞうをぜっするさくせん、英: Operation Unthinkable)は、1945年5月22日付けでイギリス軍が作成したソビエト連邦との戦争計画。アンシンカブル作戦とも呼ばれる[1]。実行に移されてはいない。イギリス政府にとって初めての本格的なソ連との戦争計画であり、イギリス軍とアメリカ軍の連合軍がヨーロッパ東北部を主戦場としてソ連軍と対決するという内容だった[2]。 1941年のモスクワの戦いでソ連軍がドイツ軍に対して勝利を収めると、第二次世界大戦終戦後はイギリス・アメリカとソビエト連邦の3ヶ国が協調して世界秩序を担う可能性が高まってきた[3]。イギリスの首相だったウィンストン・チャーチルにとってソ連が勝利する展開は予想外であり
Published 2021/08/15 07:00 (JST) Updated 2021/08/16 11:56 (JST) 太平洋戦争末期、米艦に零戦機などで突っ込み、時に〝軍神〟とあがめられたり、時に「無駄死にだった」と切り捨てられたりもした特攻作戦の悲劇。出撃前の特攻隊員には覚醒剤「ヒロポン」が与えられていた。この問題は真正面から研究された様子がないが、大阪の元中学教員の相可文代さん(71)は、勤労奉仕で覚醒剤入りのチョコレートを包む作業に従事した女学生の実体験を知ったことをきっかけに独自に調べ、このほど冊子にまとめた。 覚醒剤と知らされず服用し命を散らした若者らの悲哀と、上官や国家体制の無責任さ。志願制とは名ばかりの死への強制の中で、最後には薬物も使った特攻作戦はまさに「統率の外道」(大西滝治郎海軍中将)だ。「祖国に命をささげた美談のように語られるが、実際には覚醒剤による高揚感に

日本人だけではないとは思いますが、人間は標語(スローガン)がお好きなようです。コロナ禍の現在においても「ステイホーム」「3密」など、簡潔で分かりやすい標語がもてはやされたりします。 今回は、日本国内における戦前&戦時下の標語(スローガン)をいくつかまとめてみました。国民を戦争に導くために、官民一体となって様々な標語が作られたのです。 誰でも知っているであろう代表的な戦時下における標語の1つが『欲しがりません 勝つまでは』でしょうね。そのような標語をいくつかご紹介していきます。 戦前&戦時下の標語まとめ 『欲しがりません、勝つまでは』 出典:1942年「国民決意の標語」入選作品 戦時下の標語としてはおそらく最も有名なもの。この作品は1942年に一般公募された国民決意の標語 -Wikipediaという企画の入選作品の1つです。作者は小学5年生の三宅阿幾子さんでした。 後に本人の回想によると、

戦力差が10倍以上のもののみ取り上げています。随時更新中 ★は(戦術的)勝者側 多くのコメント・ブクマありがとうございます。 コメントで私が知らなかった戦いについて教えてくださった方ありがとうございます。https://anond.hatelabo.jp/20210708183653こちらも参照ください 古代・テルモピレーの戦い B.C.480 ペルシア戦争 ギリシア軍7000vs★ペルシア軍30万以下 スパルタ王レオニダス指揮下のギリシア連合軍がペルシア軍の大軍と激突した。狭い地形を活かし、3日間の激戦を繰り広げるが、背後から攻撃され敗北した。この戦いでギリシア軍は1000人、ペルシア軍は2万人の兵士を失った。 参考作品「300(ザック・スナイダー監督)」 ・彭城の戦い B.C205 楚漢戦争 ★楚3万vs漢56万 漢軍が彭城を制圧した事を知った項羽は精鋭部隊を率いて漢軍を襲撃した。攻略

60万年前、ヒトは2つのグループに別れた。一方はアフリカにとどまり、「ホモ・サピエンス」つまり現生の人類である我々になった。 もう一方はアフリカからアジアへ、次いでヨーロッパへと旅立ち、「ホモ・ネアンデルターレンシス」ネアンデルタール人になった。 すでに絶滅したネアンデルタール人は我々の祖先ではなく、むしろ同じ時代を生きてきた兄弟に近い。 だが両者はエデンの園のような牧歌的な楽園で、仲睦まじく暮らしたというわけではなさそうだ。領土や資源をめぐる血で血を洗う争いが現代にいたるまで失くなっていないように、どうやら彼らもまた争い続けてきたらしい。 縄張り意識と群れ 『The Conversation』誌では、生物学や考古学的な調査で明らかになった証拠をもとに、ネアンデルタール人は現生人類に匹敵する危険な戦士であり、10万年にもわたり我々の祖先と戦争を続けきたと解説している。 ライオンやオオカミを

第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺が行われたアウシュビッツ強制収容所。そのガス室跡の地中から発見された“謎のメモ”。書き残したのは、ユダヤ人でありながらナチスの大量虐殺に加担させられた「ゾンダーコマンド」と呼ばれた人たちだった。未だ多くの謎が残るホロコーストの実態。地中に埋もれていた「死者たちの告白」に迫る。 大量虐殺の実態に迫る鍵 第二次世界大戦中、ナチスドイツが組織的に行った「ユダヤ人の大量虐殺」。その犠牲者は、600万人に上るといわれている。中でもポーランド南部にあった「アウシュビッツ強制収容所」では、およそ110万人がガス室などで殺されたとされる。しかし、現場は終戦間際、証拠隠滅を図ったナチスによってほとんどが破壊された。アウシュビッツの跡地では、大量虐殺の実態の検証が今なお続けられている。 「犠牲者の遺品や資料から分かった事実を世界に伝えなければなりません。大量虐殺の実態は、未

6月16日、および8月20日にシュンが発信したツイートについて、多くの方々から、さまざまなご意見をいただきました。一連のツイートは、被爆された方々の手記やインタビュー取材に基づいて掲載しましたが、「差別を助長しているのではないか」というご批判も多数いただきました。戦争の時代に中学1年生が見聞きしたことを、十分な説明なしに発信することで、現代の視聴者のみなさまがどのように受け止めるかについての配慮が不十分だったと考えています。 また、手記を提供してくれた方が、1945年当時に抱いた思いを、現在も持っているかのような誤解を生み、プロジェクトに参加している高校生など関係者のみなさんにも、ご迷惑をおかけしたことをおわびいたします。 「1945ひろしまタイムライン」は、戦後75年がたち、戦争や原爆の記憶が薄れつつあるなか、若い世代に関心を持ってもらうため、身近なメディアであるSNSと放送を連動させた
日本の半導体産業の話を読んで 日本の半導体産業の話、面白いなあって。anond.hatelabo.jp 業界人です。お盆休みに帰省できず暇を持て余した友人から急にSkypeがかかってきて、「そういえば日本の半導体産業って衰退してるってよく言われるけど今どんな感じなん?やっぱり人件費で中国韓国に勝てないの?」みたいなことを聞かれて、半導体産業の規模間って一般にあまり知られていないと思ったので、備忘録的に日本で半導体を製造している主要メーカーとその工場について書いてみる。 始めにロジック半導体とメモリ半導体から。気が向いたら他の分野も書く。 日本は衰退しました、って書くのは簡単ですが、そもそも論。日本って大型設備投資をして先進性を磨くのって、向いてない土地柄ですよね。 なぜかと言えば災害があるからです。 すごく投資した工場に災害の一つでもあったら大損です。 ですから、安全な土地を求め海外に工

先の大戦で日本軍が開発した人間魚雷「回天」の搭乗員が書いたとされ、インターネット上に流布している「18歳の回天特攻隊員の遺書」の作者は実在しないことが11日、回天研究者ら関係者への取材で分かった。元海軍士官の男性(故人)の創作だった疑いが強い。男性は戦後、特攻隊員の遺書の収集に携わっており、研究者はこうした複数の遺書を基に創作した可能性を指摘している。(大森貴弘) 《お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。胸は日本晴れ。(中略)お母さん。今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。私が一番怖いのは、母さんの涙です》 この元回天特攻隊員の遺書とされるものが世に出たのは平成7年。元海軍士官の男性が皇学館大の戦没学徒慰霊祭で講演し、大学が講演録として冊子にまとめた。こ

太平洋戦争では、日本で唯一の地上戦が沖縄で繰り広げられた。米軍が上陸した際、沖縄本島や慶良間諸島では集団自決が行われた。最も自決した人が多かった渡嘉敷島では、村長の号令のもと329人が命を落とした。ただし、手榴弾の不発などによって一命を取り留めた人もいる。あの集団自決の現場では何が起き、どのように生き抜いたのか。75年前を振り返ってもらった。(文・写真:写真家・亀山亮/Yahoo!ニュース 特集編集部) 5月1日から68日間、新型コロナウイルスの新規感染者数ゼロが続いた沖縄。だが、7月に入ると、在日米軍基地を含む県内で感染者が急激に増加。さらなる感染拡大への恐れと自粛の空気が強まりつつある。例年であれば夏休みの観光客で賑わう那覇市内の国際通りも、人通りが減っている。 今年はそんなコロナ禍の影響で、生まれ故郷の島へ帰れなかった人がいた。 「(3月28日の渡嘉敷島の)慰霊祭、毎年行ってたけど、

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