店頭に並ぶのは25日からの予定ですが、見本が届きました! というわけで今日は宣伝記事 こちらの本に、瀬名秀明「希望」論を書かせていただきましたので、是非皆さん読んでみて、よければお買い上げお願いしますw 概要 現代日本SFをめぐる評論集 タイトルにある伊藤計劃だけでなく、宮内悠介や長谷敏司、飛浩隆、円城塔などを論じた、いわゆるSF小説の作品論を中心にしつつ、アニメや映画について論じたものや、SFミステリ、ネット小説といった近隣ジャンルの小説について論じたものもあり、SFど真ん中じゃない人にも興味を持って読んでもらえるものが何かしらあるかと 個人的にお薦めなのは、冒頭の岡和田晃「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題」と末尾の飯田一史「ネット小説論――あたらしいファンタジーとしての、あたらしメディアとしての」の2編。 岡和田論は、現在のいわゆる「伊藤計劃バブル」に対して疑義を呈して、伊藤計劃の問題

「リンク」が絡む問題に関しては、「文化圏」というとらえ方でものごとを見ると、ネット上の議論もかなりすっきりする部分があるようだ。 ライブドアブログが、1月10日から「トラックバック元の記事にトラックバック先のブログURLが含まれていない場合、受付を拒否する仕組みを導入」すると発表した(livedoorBlog 開発日誌:年末年始を写そう!livedoor ピクスリニューアル、トラックバックスパム防止につきまして)。これは多くのブロガーからは「やっと導入か」という賛同の声も上がっているが、一方で「そんなことされたら、大量のトラックバックが送信できないじゃないか!」と激しく抗議するブログもあらわれた(CODY スピリッツ!:ライブドアブログのトラックバックスパム防止策導入についての文句をローゼンメイデン風に書いてみる)。 トラックバックするときに、相手記事への言及リンクは必要か不要か……トラ
ブログ論を書くような人は基本的にブログを続けていて、何でもネタにできる強靭さを持った人たちだ。 そういう人たちの書くブログ論はアウトプットに肯定的なものになり、なんだかブログを書くことが素晴らしいもののように思えてくる。でもアウトプットってそんなにいいもんか? たしかに考え方の整理には役に立つ。そもそも僕のように書かなければうまく考えがまとめられない愚鈍な人間も居る。僕は仕事中でも山のようにメモを書くが、それは伝達事項などではなくただ単に自分の行動、やるべきこと、目的、最適線を文章にしないと自分でうまく整理ができないからそうしているだけだ。 そういう人たちはたしかに文章を書くことで整理ができる。でも書くのは、基本的に肉体労働なのだよ。頭で考えたことを、文字にして、整える。それってひどく面倒くさいじゃん。時間もとるよ。それを人に読めるように、面白さをもったものにしようとおもったら、それだけ時
ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』2005年版追加章について 山形浩生 草思社の倒産で一時はどうなるかと思った『銃、病原菌、鉄』邦訳だが、無事に復活して文庫にもなって、まずはめでたい。おもしろい本だし非常に含蓄があるので、これが入手困難になるのは大変痛かったもので。 しかし、アマゾンのレビューを見ていると、変な記述に出くわした。これだ: 翻訳されていない一節 (TsiroehtEmag) 訳されなかった章がある? そんなバカな。草思社が(愚かにも)参考文献をカットしたのに怒ってみんなで訳したときに、原書はちゃんと見ているがそんな章はなかったぞ。(なお、草思社も知恵をつけて、その後参考文献をウェブで公開したうえ、文庫版にはちゃんと載せているのでご安心を。)それも日本人に関する章で人間宣言がどうしたこうした? そんな最近の話を扱っているわけもないと思って、コメントにもそう書いたんだが…… 調べて
(CNN) 政治ニュースなどを伝えるメディアが、街頭インタビューの代わりにインターネットの短文投稿サイト「ツイッター」の書き込みを引用するケースが目立っている。しかしツイッター上の意見は一般世論と必ずしも一致しないことが、米調査機関ピュー・リサーチ・センターの研究で分かった。 ツイッターは世論と比べてリベラル寄りのときもあれば、保守寄りのときもある。全体として否定的な意見が多いのも特徴だ。 ピュー・リサーチ・センターでは過去1年間にわたり、米大統領選の結果や選挙前の討論会、オバマ大統領の就任演説などに関する世論調査の数字とツイートの傾向を比較した。 オバマ大統領の再選については、世論調査で52%が歓迎、45%が不満と答えた。一方、ツイッターへの書き込みは歓迎する意見が77%を占め、不満とする意見は23%にとどまった。また、オバマ大統領が劣勢とされた第1回討論会の評価でも、大統領に軍配を上げ

【スクールカースト・語源・造語・研究・調査】【日曜民俗学】 上の「『当て勘』という言葉はよく出てくるが、よく考えると正体不明だなあ」という話に関連して。 スクールカーストという言葉が、どうも最近はすっかり市民権を得た・・・は言い過ぎでも、市民権を得つつあるなあ、というのが、自分の感覚的な実感。 とくにお堅い「WEBRONZA」では論考の見出しにまで取られていたっけ。 著者は松谷創一郎氏で、新著では章の見出しにも「スクールカースト」という言葉を使っているそうな。 http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20120827/p1 2012/08/27/Mon ■[another view]1991年のスクールカースト:映画『桐島、部活やめるってよ』公開&拙著『ギャルと不思議ちゃん論』出版記念 今月11日に吉田大八監督の映画『桐島、部活やめるってよ』が公開され、25日に拙著

以前に、Google Scholarの被引用数表示機能を使って、20世紀に出版された「文系学術書」のランキングをつくってみたことがある。 あの「Googleが選ぶ20世紀の名著100選」を再審してみたら読書猿Classic: between / beyond readersGoogleが選ぶ思想書、哲学書ベスト100読書猿Classic: between / beyond readers また、米Google社がスキャンした書籍のうち約500万冊をもとに、5000億語からなるデータベースが構築されていて、1500年代からの今までの出版された書籍に出現する語句について、その使用頻度の推移をグラフにできるGoogle Ngram Viewerを使って、数世紀に渡る哲学者人気の趨勢を眺めたこともあった。Google Ngram Viewerが決める史上最強の哲学者はプラトンだった…と思っ

ネットで一番に偏っているはてながニコニコ動画が偏ってる!(笑 なぜはてなユーザーは左寄りの人が多いのか こんな匿名ダイアリーが話題になっていたし、自分のザ・インタビューズには、何度か「はてなサヨクって何ですか?」みたいな質問がよくきていて、はてサ(はてなサヨク)の話についての需要は非常に感じるのだけど、いざ説明しようとすると難しかった。リベラルな思想を持ち、歴史修正主義に対して厳しく…という程度では理解してもらえないからだ。匿名ダイアリーなどで、なぜか自分も「はてなサヨク」に含まれたりして*1、そういう「見えない敵と戦う人」が使う言葉として「はてなサヨク」が使われることもが多いので、「はてなサヨクとは幻想である」みたいな扱いを受けることが多いけど、自分も「はてなサヨク」的なものを感じることはある。 そんなところに、説明に向いた、すごくいい事例が最近あった。橋下徹氏に関する週刊朝日の報道の
宮台院ゼミ本『21世紀の現実~社会学の挑戦~』あとがき 【社会学からの全体性の脱落】 ■あらためて言うまでもないことだが、社会学という学問が、フランス革命から第三共和制に至る社会的不透明性の体験──個々人の意思や意識とは独立かつ予想不可能な形で社会が動くという経験──から立ち上がったとき、社会学には「全体性」が要求されていた。 ■社会学が、帝国主義時代の19世紀末に「近代はいかにして可能か」という問題設定を手にした際も、「契約の前契約的な前提」「権力の前権力的な前提」を問う形で、経済学的・政治学的な対象性自体を支える、従来の学問よりも大きな「全体性」を志向した。 ■先に述べたフランス革命以降の「国家暴走」の経験に応接して出現した無政府主義(国家を否定する中間集団主義)やマルクス主義(国家暴力装置論)に対抗して、国家や社会を論じるという伝統的な問題設定も、敵方に劣らない「全体性」への志向へと
ネット上で話題になっている議論*1を興味持って読んでいるんだけど、その議論には参加したくない人というのはウォッチャーだ。 で、そのウォッチャーの中に議論に参加している人たちを嘲笑するような視点で、ネット上で言及する人というのをよく見かけるのだが、これがメタ化による優越感ゲームのプレイヤーなのだろうか。言及しないと気が済まない人たち。関西でいう「いっちょかみ」とでもいうか ひどい人になると、かなりの意見を表明しているのに、自分は議論に参加していないという立場を崩さない人もいる。それ十分参加してるのに…。「○○には興味ないんだけど」といって、長々と意見書く人もこれかな。 モヒカン族 - モヒカン族反逆同盟@ARTIFACT - 名称募集 http://mohican.g.hatena.ne.jp/kanose/20050705/kemarashi モヒカン族 - モヒカン族反逆同盟@ARTIF
モヒカン族 - MOHI-FACT - 断片部に書いたことを批判されても… で書いたことと重なるんだけど。 「俺とおまえは違う問題」の根は「ネガティブ言及するな問題」だよね これは僕の経験則なんだけど、「ひっそり書いているんだから言及するな」と言うスタンスが見え隠れするブログには、「私は何かに対して批判するけど、このブログはひっそり書いているんだから言及しないで」という謎のローカルルールを訴える所が多いです。自分は他人に噛み付きたいけど、自分は噛み付かれたくないために作り上げている身勝手なルール、こんなルールは当然守られるはずもない。 こういう人を見かけるともうニヤニヤが止まりません! 「全力で観察せよ!」 自分の個人的な体験とそれに関する感情や考察などをブログで書いたとする。それに対して、誤読をされたり、筆者の意図を想像した上での批判をされたりして、愚痴を書くのはわかる。これは本人内で完
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111208-OYT1T00946.htm 国立大学の教授が“不適切な”発言をツイートを連投したために学長から訓告処分を受けるという出来事があった。「一教授の、ネット上での私的な発言を訓告処分する」というのは大学側としても難しい決定だっただろう。とはいえ、この教授の原発関連のツイートが一時期から非常に過激な内容になっていた事を思い出すにつけても、大学としても庇いきれなかったのかもしれない。 震災のあった3月以来、この教授がtwitter上で積極的に発言していたのを私もリアルタイムで見ていた。概ね善意に基づいて発言しているように見えたが、当初から「火山学の考え方への固執」「他領域の専門家の話に耳を傾けない独走」する傾向があったように思う。そうこうしているうちに、彼の発言のトーンはエスカレートしていった。 私は「
「ネットで無職アピールしつつ実際には博士課程在籍」はおれの判定だと「正当なネットセキュリティ防御術の範疇」だな。なんのために我々が実名でインターネットやってないと思ってんのよ。「嘘はダメだけど本当のことを全部言う必要はないし、叙述トリックはそれなりに絡めてよし」あたりで。まあ無職というのがあまり発言者属性を強化しない帰属であるという前提ではあるけど、無職ってある意味「ネット上で有利な属性」という面も場合によってはあって、そこいらへんの有利さの活用度あたりが絡むと厄介なのか。 「この年代でこういうのが好きで、観測範囲はこれくらいで、こういう話題によくコミットして、コミットする強さはこれくらい、だとこのへんへの言及も当然あっていいはずなのにまったくない」とかいう不自然な言及の空白を見つけたときに、ネットウォッチャーとしては一番興奮するわけやん。そうした不自然さの向こう側に、仮面越しの実像が隠さ
先月のシノドスシンポで酒井隆史さんが、(反グローバリズムなどの運動に対して)資本主義をやめたら江戸時代に戻ってしまうって言う人がいるけど、別に江戸時代に戻ってもいいじゃないかって言ったほうがいいというようなことを言っていた。 まさにそのとおりだと思う。極論って言う人がいるけど、江戸時代に戻ってもいいじゃないかが極論ならば江戸時代に戻ってしまうは何なのだろうか。リアリズム?確かにそうかもしれない。でもそのリアルは、ネトウヨがよく言う民主党が政権を握ったら中国の植民地になってしまうというたぐいのリアルだろう。蓋然性の問題ではなくて心性の問題として。 ボーデンハイマーはこの点を、父親にたいする子どもの質問を例に挙げて説明している。「お父さん、空はなぜ青いの?」子どもは本当は空そのものには興味がない。この問いの真の狙いは、父親の不能、つまり空が青いという動かせぬ事実を前にしたときの無力さ、その事実
もはや人を馬鹿にするために使う言葉でしかなくなりつつあるように思った。「嘘を嘘と見抜けない人は〜」と大差ない。まあ、今になって思ったわけじゃなくちょっと前から薄々感じていたから先日のこの記事でもあえてメディアリテラシーという言葉は封印して、数字の裏を取らないで騒いでいる人たちへのDisをギリギリまで抑えたんだけど。本音とキレイゴトの入り交じった気持ちで書くと、強いインパクトや一見もっともらしい理由づけさえあればすぐにその記事をうのみにしてしまう脊髄ピクンピクンな人たちはやっぱどうしようもなく馬鹿だなーと思うし、断片的にピックアップされた記事を見るだけで、それを書いた人あるいは組織の背景や、その記事に対する言及や反論を読まずに騒いで消費してまた次行っての繰り返しをしている人たちのことはパーマリンク脳なんて呼びたくもなるけど、だからといっておれがそうした足りない人たちとは明白に違うかと言うと
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