原爆症の認定申請を却下されるなどした大阪と兵庫、京都3府県の被爆者9人(うち1人死亡)が却下処分の取り消しなどを求めた集団訴訟の判決が2日、大阪地裁であった。山田明裁判長(西田隆裕裁判長代読)は、既に国の認定を受けている1人を除く8人について被爆と疾病の因果関係を認め、却下処分の取り消しと原爆症認定の義務付けを国に命じた。厚生労働省によると、国に認定を義務付けた司法判断は昨年3月の同地裁判決に続き2件目。 判決によると、原告は72~87歳の男女9人。広島市、長崎市で、それぞれ爆心地から1・1~4・5キロ地点で被爆したり、原爆投下直後に爆心地近くに立ち入ったりした。9人は、甲状腺機能の低下などを発症したのは被爆が原因として、2006年9月~08年11月に原爆症の認定を申請。10年に8人は却下され、1人は認定された。 判決で山田裁判長は、8人について「疾病は放射線に起因し、医療の必要性も認めら
広島赤十字・原爆病院。建て替え計画に伴い、被爆者の臓器標本の取り扱いに頭を痛めている=広島市中区千田町1丁目 【後藤洋平】広島赤十字・原爆病院(広島市中区)が、保存する被爆者の臓器標本の扱いに頭を痛めている。建て替え計画に伴い保存場所が狭くなるうえ、ホルマリン漬けの標本は長年経つと研究に使えなくなるからだ。「被爆者が生きた証し」として大切に保存してきたが、将来の「廃棄」も現実味を帯びてきた。 同病院解剖棟の2、3階には、計約300平方メートルのスペースにバケツ型の保存容器が整然と並ぶ。ホルマリン漬けの臓器標本などは約20万点。うち被爆者の標本は2万8275点にのぼる。 病院は57年前から、死因がはっきりしない患者や手術で摘出した臓器標本をすべて保存。被爆者の標本はがんの研究などに生かしてきたが、金岡峰夫事務部長は「人類史上初の核兵器の被害者が生きた証しを捨てるという発想がなかった」と説
長崎原爆で被爆したことの証明が不十分との理由で被爆者健康手帳の交付申請を却下されたのは不当として、韓国在住の金勝男(キムスンナム)さん(68)が、長崎市を相手取り、却下処分の取り消しを求めた訴訟の判決が9日、長崎地裁で言い渡された。 井田宏裁判長は金さんを被爆者と認めて処分を取り消し、市に健康手帳の交付を命じた。 金さんは生後8か月だった1945年8月9日、爆心地から約500メートルの同市橋口町の自宅で被爆したと主張。2011年5月に手帳交付を申請したが、市は、証人がいないことなどを理由に同年11月に却下した。金さんは、翌12月に提訴した。 金さんの戸籍には、長崎市橋口町で出生したと記載されている。訴訟で金さんは、両親から聞いた話として、父親が勤務していたボルトナット工場の社宅で被爆し、母親と共に助け出されたと主張していた。 これに対し、市側は▽被爆後に市が行った調査で金さんが主張する番地
スイスのジュネーブで開かれているNPT=核拡散防止条約の会議で、核兵器は非人道的なものだとして、いかなる状況でも使用すべきではないなどとする共同声明が提出されましたが、唯一の被爆国の日本はこの声明に署名せず、NGOなどから批判の声が上がりました。 この共同声明は、ジュネーブで行われているNPTの再検討会議に向けた準備会合で24日、南アフリカの代表団が提出しました。 声明では「核兵器の使用によって、直接に人が死ぬだけでなく、社会や経済の発展は停止し、環境は破壊され、将来の世代は健康や食糧や水を失うことになる」として、核兵器の非人道性を強調しています。 そのうえで、「いかなる状況でも核兵器を二度と使わないことこそが人類生存の利益につながる」として、核兵器の不使用を訴えています。 共同声明には74か国が名前を連ねましたが、唯一の被爆国である日本は署名しませんでした。 これについて、軍縮会議日本政
広島原爆で被爆し、長年被爆者の治療に当たってきた医師、丸屋博さん(88)=広島市安佐南区=が今月末、医療現場の一線から引退する。1977年に広島共立病院(同区)院長に就任してから2000人以上の被爆者を診てきたと語るが、今月5日に米寿を迎えたのを機に決断した。自らも原爆症と認定された丸屋さんは「核被害の過小評価は許せない」と訴え、今後はもう一つの顔である詩人として告発を続ける。 丸屋さんは山口県岩国市出身。旧制広島高校(現広島大)を45年春に卒業し、米軍が広島に原爆を投下した時は岡山医大(現岡山大)の学生で岩国の実家にいた。知人を捜すため2日後に広島に入り、惨状を目の当たりにした。卒業後、54年に東京で勤務医になり、岡山の病院を経て77年に広島医療生活協同組合が運営する広島共立病院の院長に就いた。93年の退任後も内科医として現場で働き、現在は名誉院長で週1回健診を担当している。 「被爆者」
がんで闘病生活を続けながら最後までヒロシマと向き合い、原爆の恐ろしさを訴え続けた中沢啓治さん。「『ゲン』はわたしの遺書」という言葉を残し、73年の人生を閉じた。 「原爆はお袋の骨まで持っていくのか」。母の火葬後、ほとんど残らなかった遺骨を目の当たりにして増幅した怒りが、原爆をテーマにした作品を描く原点になった。 1973年にスタートした「はだしのゲン」の連載。40年近くを経て、今年度から広島市の平和教育の教材に使われ始めた。今夏、朝日新聞のインタビューに応じ、中沢さんは「連載を始めた当時、漫画はばかにされ、社会的地位を得ていなかった。思いもよらず感慨深い」と語った。 自伝となる「はだしのゲン わたしの遺書」(朝日学生新聞社)を今月、出版したばかり。「わたしが伝えたいことは、すべてあの中にこめました」と結んだ。3・11後の原発事故にも触れ、「唯一の被爆国なのに、放射能のことが正しく理解されて

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