Stanley Kubrick, cinephile | British Film Institute 史上最高の映画監督を挙げるとなると、まず絶対その候補に入るであろうスタンリー・キューブリックだが、先月26日が彼の生誕85年だったのにあわせ、記事が出ている。 思えばスタンリー・キューブリックは秘密主義者だったし、後年はインタビュー自体ほとんど受けなくなったので、そもそも彼がどんな映画を好きだったのか、彼のファンであるワタシもよく知らなかったりする。 それを1963年(半世紀前!)に書いたリストやキューブリックの右腕的存在だった Jan Harlan の証言、そして娘さんのNetNews への投稿などいろいろ調べた上で、彼が好きだった映画のリストを作成している。 ヴィクトル・シェストレム『霊魂の不滅』 フリッツ・ラング『メトロポリス』(asin:B00428M8JW) ハワード・ヒュー

茅野市蓼科を仕事場にした日本映画界の巨匠、小津安二郎監督と脚本家の野田高梧さんが蓼科でつづった日記をまとめた「蓼科日記抄」が完成し、編さんを担当した刊行会(山内静夫発起人代表)は28日、小津監督ゆかりの蓼科の山荘「無藝荘」で出版会見を開いた。小津映画の誕生秘話を知る「最後の未公開一次資料」で、山内代表は「映画文化、日本文化のプラスにしてほしい」と願った。 刊行事業は刊行会事務局長の北原克彦さん(65)=原村=が18年前、茅野市で「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」を始めるために野田家を訪れ、蓼科日記を見たのがきっかけ。2007年の映画祭で野田さんの長女山内玲子さん(故人)が承諾したのを契機に、小津家からの了解も得て、編集を進めてきた。 小津組プロデューサーの山内代表と、小説家の故小津ハマさん、野田陽子さん(野田家)、松竹会長の大谷信義さん、茅野市の柳平千代一市長、矢崎和広前市長らが発起人
「表現の自由」について語り合うトークセッション「ニッポン国文化村~負の現在」が27日、横浜市中区の「さくらWORKS〈関内〉」で開かれた。日本映画大学(川崎市)が教授就任予定者らに「学内での政治的活動を一切行わない」とする誓約書を求めていた問題を契機に、社会に広がる「表現の自由の侵害」に危機感をもつ映画人や美術家、大学教授ら約30人が参加。メディア批判も含め、白熱した議論を展開した。 参加したのは、誓約書問題の当事者で、署名を拒否して教授に就任しなかった演劇評論家の鴻英良さんや表現の自由に詳しい立教大教授の服部孝章さん、元川崎市議でドキュメンタリー映画「選挙」「選挙2」の主人公でもある山内和彦さんら。司会は、問題を自ら主宰するメールマガジンで取り上げた羽月雅人さん。 口火を切ったのが、鴻さん。誓約書の文言について「学内には誓約書に署名せず、解雇の恐れがありながら闘っている人が3人ほどい
◇戦争(せんそう)はやってはいけない。戦争(せんそう)は人間(にんげん)を抹殺(まっさつ)しますから、いかなる理由(りゆう)があっても絶対(ぜったい)にやってはいけません。 8月(がつ)は67年前(ねんまえ)、日本(にっぽん)が戦争(せんそう)に負(ま)けた月(つき)です。戦争(せんそう)を体験(たいけん)し、生(い)き残(のこ)った人(ひと)たちは、残念(ざんねん)ながらどんどん亡(な)くなっています。最近亡(さいきんな)くなった著名人(ちょめいじん)の、平和(へいわ)への思(おも)いを伝(つた)えます。第(だい)1回(かい)は5月(がつ)29日(にち)に100歳(さい)で死去(しきょ)した脚本家(きゃくほんか)・映画監督(えいがかんとく)の新藤兼人(しんどうかねと)さんです。 ◇「一枚(いちまい)のハガキ」受賞会見(じゅしょうかいけん)で 「戦争(せんそう)はやってはいけない。戦争(せ
大学生の頃好きだった男の子 18歳の春にさくら色の稲妻が落ちてスープを煮込むみたいに時間をかけ気持ちを育んで 19歳の冬に、恋は実った その男の子は、ひとつ年上で 関西圏外出身のため標準語を話していた 煙草と映画と写真を撮ることが好きで 茶色がかった短髪に黒縁眼鏡が似合っていた 歩く姿はすこし猫背気味で お酒を愉しむみたいにたっぷりと煙草をくゆらせて 人と人の間をすいすい縫っていた わたしはスープを煮込んでいる間 相手のことを理解するための観察を怠らなかった 鞄から彼が無造作に取り出した本からは 煙草の匂いがして いつもわたしをクラクラさせた 彼が大事にしていた本の中に 『私の好きな孤独』というものがあった どのストーリーのなかにも 自分を見いだせる と、彼は言って 『窓』と題された文章を、声に出して読んでくれた それはこんなふうにはじまったはじめに言葉があり、街の言葉は窓だった。
ミニシアター「岩波ホール」総支配人として内外の名画を日本に紹介、映画を通して国際交流に努めた文化功労者の高野悦子(たかの・えつこ)さんが9日、大腸がんのため死去した。83歳だった。葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は岩波ホール支配人でめいの岩波律子(りつこ)さん。 旧満州(現中国東北部)生まれ。昭和19年、富山県に疎開。日本女子大卒。27年、東宝に入社し文芸部で制作企画調査を担当。映画監督を志して33年、パリ高等映画学院監督科に日本人で初めて留学。37年に帰国、テレビドラマの脚本、演出を手がける。 43年、岩波ホール(東京・神田)の創設に伴い、総支配人に就任。映画講座を開講し、講師に著名監督や原作者らを招いて名作を上映。津軽三味線などの民俗芸能や、現代美術、ジャズなどの講座、アングラ演劇上演なども好評を得た。 49年、東和(現東宝東和)の川喜多かしこさんとともに、岩波ホールを拠点にした名
レイ・ハリーハウゼン氏(特撮監督)AP通信などによると、7日、ロンドンの病院で死去、92歳。死因などは不明。卓越した特撮技術で知られた。
十四日に亡くなった三国連太郎さんは一九五〇~六〇年代の日本映画黄金期に活躍。その後も「釣りバカ日誌」シリーズの社長役などで人々を魅了する一方、徴兵の経験から反戦の立場を貫いた。 「手がアップになるから爪の色を気にされていた」。三国さんは遺作「わが母の記」(二〇一二年)で老父を演じたが、原田真人監督は撮影時をこう振り返る。細部にこだわる三国さんらしいエピソードだ。 「釣りバカ日誌」を三本撮った本木克英監督は「三国さんの台本は書き込みで真っ赤だった」。せりふもどんどん変え、最良の表現を求めた。喜劇がいかに難しいか繰り返し語った。「『釣りバカ』は一本でやめるつもりだったが、喜劇の魅力にひかれていったようです」と言う。
世界の埋もれた映画の上映運動を主宰してきた岩波ホール(東京都千代田区)総支配人で、文化功労者の高野悦子(たかの・えつこ)さんが九日午後二時四十一分、大腸がんのため死去した。八十三歳。旧満州(現・中国東北部)生まれ。葬儀・告別式は近親者で済ませた。後日、お別れの会を開く。喪主はめいで、岩波ホール支配人の岩波律子(いわなみ・りつこ)さん。 日本女子大(社会心理学専攻)卒業後、一九五二年に東宝文芸部に入社するが、映画監督を目指し、パリの高等映画学院(イデック)に留学。帰国後は、テレビドラマのシナリオを書き、六四年に芹沢光治良・原作「巴里に死す」を脚色・演出した。 六八年に岩波ホール創立と同時に総支配人に就任。当初は音楽や芝居も上演したが、七四年、故川喜多かしこ氏とともに世界の埋もれた映画を発掘するエキプ・ド・シネマ(フランス語で映画の仲間の意)運動をスタート。インドのサタジット・レイ監督「大地
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