ウクライナのチェルノブイリ原発で立ち入り制限区域を管理する当局は10日、撤退したロシア軍が原発の研究施設に保管していた放射性物質を持ち去ったとフェイスブックで発表した。露軍の撤退後に原発周辺に入った欧米メディアの報道では、放射性物資を素手で触るなど、ロシア兵たちの無謀な行動が次々と明るみに出ている。 「危険だからやめるように言ったが、無視された」。米紙ニューヨーク・タイムズ(NYT)は8日に掲載したチェルノブイリ原発の現地ルポで、安全管理担当者の話を伝えた。同紙によれば、ロシア軍は1986年に起きた原発事故で汚染された地域で、身の安全への注意を払わず、ブルドーザーなどを使ってざんごうを掘り、敷地内を移動した。露軍にはNBC(核・生物・化学)戦に対応した部隊の人員が含まれ、ロシアの原子力企業ロ…

ウクライナのチェルノブイリ原発4号機を覆うために設置されたシェルター(2021年4月13日撮影、資料写真)。(c)Sergei SUPINSKY / AFP 【4月2日 AFP】ウクライナ当局は1日、同国北部のチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所を制圧したロシア軍の兵士が、原発周辺を4週間にわたり占拠していた間に放射線にさらされた可能性が高いとの見方を示した。 チェルノブイリ原発は先月31日、首都キエフの北方地域でのロシア軍撤退に伴い、ウクライナ軍の支配下に戻った。ウクライナの国営原子力企業エネルゴアトム(Energoatom)によると、ロシア軍の兵士は同原発を占拠中、最も汚染度の高い場所で塹壕(ざんごう)を掘っていたほか、車両の走行により放射性物質を含む粉じんを巻き上げたとみられる。 エネルゴアトムは、これによりロシア兵が「相当量」の放射線にさらされた可能性があるとしている

カプースチン・ヤール (カプスチン・ヤール、ロシア語: Капу́стин Яр, Kapustin Yar)はロシア南部のアストラハン州北西部にある、ロケットやミサイルの開発基地・打ち上げ基地。ヴォルゴグラード市とアストラハン市の中間に位置する。その中心となるのは閉鎖都市ズナメンスク(ロシア語: Знаменск, Znamensk, 1992年までの名称は「カプースチン・ヤール1」)であり、その近くには名の由来となったカプースチン・ヤールの村もある。試験場の広さは650平方キロメートルにおよび、その大部分はロシア領内にあるが、一部はカザフスタンのアティラウ州や西カザフスタン州にまたがる。 ソビエト連邦時代の1946年より開発が始められ、建設当初は第二次世界大戦の敗戦国ドイツからの技術、資材、科学的知識も動員された。ソ連軍および後のロシア軍の試験用ロケット、人工衛星、観測ロケットの打ち上
この項目では、チェリャビンスク州の閉鎖都市について説明しています。カリーニングラード州の都市については「オジョルスク (カリーニングラード州)」をご覧ください。 座標: 北緯55度46分 東経60度42分 / 北緯55.767度 東経60.700度 オジョルスク市街地 オジョルスク または オゼルスク (ロシア語: Озёрск) は 、ロシアのチェリャビンスク州の都市。人口は7万6896人(2021年)[1]。閉鎖都市であり、イルタヤ湖畔に1945年に造られた。1994年までは チェリャビンスク-65、さらに以前には チェリャビンスク-40 と呼ばれた[2]。1994年に現在の名称となり、都市としての存在が正式に明かされた。 オジョルスクはマヤーク原子力プラントに隣接しているため、依然として閉鎖都市である。マヤークは冷戦時代にはソ連のプルトニウム供給拠点の1つとして稼働し、現在はロシ

キシュテム事故(キシュテムじこ、ロシア語: Кыштымская авария、英: Kyshtym disaster)は、1957年9月29日、ソビエト連邦ウラル地方チェリャビンスク州マヤーク核技術施設で発生した原子力事故(爆発事故)である。 事故発生地点であるチェリャビンスク-40(後にチェリャビンスク-65と改称、現在のオジョルスク)は当時地図に記載されていなかったため、近隣の町(キシュティム)の名前が付けられている。 ソ連から英国に亡命した科学者ジョレス・A・メドベージェフが発表した著作からウラル核惨事とも呼ばれる。1949年から1951年にかけてのテチャ川への液体放射性廃棄物投棄による下流地域住民の被曝事故や、1967年のカラチャイ湖の湖底放射性物質の再浮遊による汚染事故を包括することもある[1]。 チェルノブイリ原子力発電所事故に次いで、放出された放射能量が2番目に多い原発事故

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