大晦日。年越しと正月の買い物はあらかた昨日に済ませた。今日になっていざとなるとどの店も混んで面倒だからだ。そのわりに、あるいはそのせいなのか、のんびりと朝起きて、ああ、今日は大晦日だったな、と改めて思ったりもした。今年はどんな年だったか。 今年、個人的に一番大きなできごとは、自著『考える生き方』(参照)を出したことだった(参照)。これまでブログを読んでいた層とその少し先の域のかたまでよく読んでいただけて嬉しかった。ありがとう。 この本では、本人としてはブログにこれまで書かなかった、どちらかというとパーソナル部分を、普通の市民の立場から書くことで、もう少し広い層にまで届くことを願っていた。 客観的に見れば、それは充分にはかなわかったかと思う。非力だった。書籍のビジネスとしては成功とはいえないし、その線で僕がまた本を書くことはないんじゃないかとも思う。 それでも個人的には、60歳の時点でこの本

教育問題にはあまり関心がない。正確に言うと「日本の教育問題」に関心がない。そう思う理由はシンプル極まりない。教育は元来国家のセクターではないからである。教育が国家のセクターになったのは、歴史的に見れば、義務教育は皆兵のため、高度教育は官吏養成のためだった。こうした近代国家の、必然とも言える動向をむげに否定はしない。現代では「皆兵」は軍事的な意味ではなく経済的な意味に転換し、生産力向上の「皆兵化」の意味もあるだろう。いずれにしても、ようするに国家のためであるという点は変わりない。 だが教育というのは、それ以前には、人が自由になるための技芸であり、なにから自由化といえば、国家的な権力から精神を自由にするためのものであった。その部分こそは変わらず教育の本質だろうと思う。まあ、そういうこと。そういうことであれば、あまり「公」に教育のあり方を議論するのは矛盾している。 とはいえ、昨日東京新聞社説「
副題に「リバタリアニズム入門」とあるが本書「自由はどこまで可能か(森村進)」(参照)は、学術レベルに対する入門という意味合いで、内容はかなり濃く、いわゆる新書にありがちな入門書ではない。 後半になると著者森村氏の見解がやや突出する違和感があるが、総じて現代のリバタリアニズムを俯瞰して理解するには最善の書籍と言える。その分、簡単には読めない。不必要に難解な書き方も悪しき学術的な書き方もされてなく読みやすい文体なのだが、一見簡素な思想に見えるリバタリアニズムが投げかける本質的な課題を考えつつ読むことが難しい。 何度も繰り返し読むに耐える書籍でもある。出版は2001年と古く、やや現代の古典といった風格もあり、この間のリバタリアニズム思想の展開も気になるところだが、とにかく本書を出発点にしないことには話にもならないだろう。 リバタリアンとは何か。本書は、類似または対比される思想的立場との違いを次の
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