ダライラマが偉いなと思うことはいろいろあるのだが、彼は、今回の件で、泣きたくなるような気持ちもなるが、それでも瞑想して心の平穏を保つと言っていた。 日本人のチベットシンパというかいろいろあるのだろうけど、はてな経由でYouTubeかなんかでちらみしたけど、今回の争乱の関係で坊さんが泣いていた。あれとダライラマはすごく違う。ダライラマはあの惨事を認識しつつ、心の平穏を保ち、「よく眠れる」とまでいう。 彼の心のなかに仏教の平和というものがあるのだろうし、そのあたりにすごいものを感じる。 日本の仏教とチベットの仏教とかいろいろいわれるけど、日本でいう心の平穏みたいなのと、坊さんでも泣いちゃうっていうのはなんなんだろうかとは思う。 非難しているわけではないよ。
もろたコメントより⇒極東ブログ: チベット的癒しの話 今のチベットとチベットの人たちにとっては、天台智者大師と賢首大師の教えどころではないと思うのですが、今後のチベットと日本のあり方(それは中国と日本のあり方でもあるのですが)を考えると、チベットでの天台智者大師、賢首大師、慈恩大師の教えの受容の仕方の各論の概略がとても気になるのです。 私も詳しくないけど、似たような疑問を持ったことがあるのでちょっと。 天台は、私の誤解かもしれないけど、それまで大乗仏教を、ある意味で国家的に統制しやすくするとも言えるのだけど、五時八教的な統合をした点に意義があると思う。その意味で、天台宗というのは、後の宗派概念ではないと思う。さらにいうと天台的な考えは今日的な意味での宗教とも違うだろう。これは日本の天台宗でも同じ。 問題はというか、こうして統合されるということは、朱子学でも類似なのだけど、道教的なコスモロジ
虐待されているチベットの人のことを思いながら書棚の本を手にとって少し考えた。まとまった話ではない。雑談がてらに。 以前も少し触れたけど、ダニエル・ゴールマンが編集した「心ひとつで人生は変えられる」(参照)は、ダライ・ラマを交えた、「こころはからだを癒すのか」というテーマの討論会のまとめだ。この中で、心の傷を負ったチベット人の話が出てくる。ちょっと読むと、ダライ・ラマの意見はあっけらかんとした印象がある。 ダライ・ラマ 強制収容所に長くいたチベット難民は、収容所の体験が貴重だったとよくいいます。そこは最高の精神修行の場だったと。チベット人の場合、トラウマがこころに深い傷を残すいうことは珍しいんじゃないかな。その道の専門家にインタビューしてもらえばおわかりになると思うが、チベット難民はほかの難民とは違うと思いますね。 ダニエル・ゴールマン 彼らは悪夢に苦しまないんですか? ほかの拷問体験者みた
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