今日は別のエントリを書こうと思ったのだが,ちょっと気が変わったので. 某ブログのエントリで,「人生は楽しんだ者が勝ち」といった内容を読んだ.確かにその通りであろう.そのことについて反論するつもりはないが,こういったエントリを読むと,芥川龍之介の短編「孤独地獄」のことをときどき思い出す. 「孤独地獄」の主要な登場人物は,津藤と,禅寺の住職禅超の二人である.いずれも幕末の大変な通人で,特に禅超は,出家にもかかわらず酒色をほしいままにしてきたらしい.二人は,吉原の玉屋でひょんなきっかけで知り合ったのだった. ある日,津藤は,禅超の様子がおかしいことに気づく.そのこともあって二人はいつになくしんみりとした話をするのだが,その際禅超は以下のような話をするのである. 仏説によると,地獄にもさまざまあるが,およそまず,根本地獄,近辺地獄,孤独地獄の三つに分かつことができるらしい.それも南瞻部洲下過五百踰
このエントリは,以前書いたもの( LaTeX メモ - 数式における「|」 (縦線,vertical bar)の扱い(その1) )の続きである.すぐに書こうと思っていたのに,もう4ヵ月近くもたってしまった.Microsoft の Word のような WYSIWYG エディタとは異なり,LaTeX は,文書の論理的な構造を記述するシステムである( 脚注1 ).つまり,文書の作成者は,その文書の論理構造に注力すべきであって,その文書の書式はクラスファイルやスタイルファイルにまかせるべきと考えられている. ところが,LaTeX を使い始めの人は,見栄えを調整しようとして, \hspace , \vspace , \medskip , \bigskip , \\ などを駆使し,とにかく見た目だけを考えた原稿を書いてくる.論文の原稿などは再利用されることが多いのに,これでは再利用性が損なわれること
聖書を読もうと思い立ってから,早くも丸二年になった(聖書を読む).最近忙しく,予定よりもはるかにペースが落ちているが,それでもかれこれ1000ページ近く読み進み,ようやく詩篇までこぎつけた(聖書を読む (334) - 詩篇 第8~9篇).といっても,いまだに旧約聖書の段階である. しかしながら,旧約聖書を理解できたかといえばとてもそんなことはなく,読むほどに疑問点や理解不能な点が増えていくかのように思われる.ただ,一つ実感しているのは,旧約聖書の根底にある,何か強く,烈しいものである.旧約聖書を読むにつれ,その思いが自分の中に存在感を増していくかのように思われる. だが,それこそが神の摂理であるなどと,したり顔で言うことには抵抗を感じる.そもそも,そのような考えが自分の今の思いを説明するようには思われない.結局のところ,それが何であるかは説明できず,また自分でもそれをつかみきっておらず,そ


リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く