過去最悪の被害額に上る闇バイトなどの特殊詐欺。 警告や啓発が繰り返されているにもかかわらず、なぜ闇バイトに加担する若者が後を絶たないのか? 刑務所や少年院に収監されている闇バイトの実行犯などから話を聞くと、 これまで犯罪の背景として指摘されてきた「若者の貧困」だけでなく、ある共通した傾向が浮かび上がってきました。 『自分の感情をことばにできない』 自分の気持ちを話せないことが、どうして闇バイトなどの犯罪につながるのでしょうか?

日経 校閲 @nikkei_kotoba 「来阪」といえば大阪にやってくること。では「来寧」は何県だかご存じですか。これは奈良県で、万葉集に見られる奈良の異表記「寧楽」からきています。「来+地名」について、47都道府県の一覧表を作ってみました。まだまだ不完全なため、みなさんの使用状況をぜひ教えてください。(門) #来寧 pic.twitter.com/vJKL9MCRas2022-09-27 19:00:01 飯間浩明 @IIMA_Hiroaki 京都に来る意味で「来京」ということばはない、とする投稿が話題になっています。これに対し、明治以前の例も指摘されていますが、「古川ロッパ日記」昭和11年に京都に来る意味で〈吉岡専務来京〉とあるなど、昭和初期までは散見されます。現在の新聞の大阪版でも例を拾いましたが、これは少数例です。twitter.com/nikkei_kotoba/… 202

この中国語、なんだかわかりますか?「御宅」(ユージャイ)、「干物女」(ガンウーニュー)、「森女」(シェンニュー)。 これらはすべて、中国で用いられている「日本語が元になった中国語の語彙」だ。 漢字を見ればなんとなくわかると思うが、「御宅」は日本語の「おたく」を指す言葉で、「干物女」は、人気漫画・ドラマ『ホタルノヒカリ』で出てきた「だらしない女性」を指す造語がそのまま中国語に転用されたもの。「森女」は、ナチュラルでふんわりとしたファッションをする女性を示す日本語「森ガール」が中国語に組み込まれたものである。 近年、こうした「日本語発の中国語の語彙」は、アニメやゲーム、ネットカルチャーの影響でその数を増しているように見える。 たとえば、上で紹介した「御宅」はさらに性別で分けられ、「宅男」(ジャイナン)、「宅女」(ジャイニュー)という言葉がポピュラーになっているし、日本語ではやや使用機会が減って

中島敦の名篇「文字禍」を一字だけ変えた、円城塔『文字渦』(新潮社)が出た。表題作は第43回川端康成文学賞を受賞しており、この作品集はそれ以外に、「緑字」「闘字」「梅枝」「新字」「微字」「種字」「誤字」「天書」「金字」「幻字」「かな」の十一篇を収める。それら計十二篇すべてがことごとく文字に関するものであるから、出版元は「文字小説」といい、作者自身は「文字ファンタジー」と表現する(2018.8.1付「朝日新聞 夕刊」)。文字好きとしては見逃せないではないか。 最後まで読み通してみて、この作品集に一貫するのは、「文字で『世界』を記述できるか」という問いかけに対する回答であり、そのひとつの試みだろうと思った。またそれは、日本語の複雑な表記体系を最大限に活用したいわゆる実験小説でもあり、やや大仰にいえば、「文字言語」復権の試みでもあるように感じた。 「言語」というものは、音声が文字に先立つわけだから

2011年の著書『中国化する日本』で注目を浴び、「気鋭の若手論客」として論壇に迎えられた與那覇潤氏。しかし氏は2014年から激しいうつ状態を経験し、2017年には大学の教職を辞した。 今回、沈黙を破って著書を刊行した與那覇氏の、ロングインタビューが実現。緩やかに壊死してゆく日本の「歴史」と「知性」を、いまどう見ているのか――。 (聞き手/現代ビジネス編集部、写真/岡田康且)歴史が消えて「いま」だけになる――與那覇さんは2015年の春からご病気(双極性障害にともなううつ状態)の治療に専念され、約3年間の療養を経て、今年4月に新著『知性は死なない 平成の鬱をこえて』を出版。また5月には、2013年の著作である『日本人はなぜ存在するか』を文庫化され、新たな増補あとがきをよせています。 しかし大学のお仕事に復帰されるのかと思いきや、「学者廃業」を宣言されたので、とても驚きました。先日ウェブで公開

今月12日、新村出編『広辞苑』第七版(岩波書店)が出た。ネット上では早くも、「LGBT」の語釈に誤りがある(のちに「しまなみ海道」の件も報道された。1.22記)ということで話題となっている。 第五版の宣伝文句は「私が、/21世紀の/日本語です。」、第六版のそれは「ことばには、/意味がある。」、そして今回は、「ことばは、/自由だ。」である。 また、六版の予約特典は『広辞苑一日一語』(新書判)だったが、今回の予約特典は三浦しをん『広辞苑をつくるひと』(文庫判)である。 まだ中身をじっくり見たわけではないが、気づいた点や、変更点などについていくつか述べておく。 まず後ろから見て気づいたが、最後の採録語が変わった。六版までは末尾が、 ん‐と‐す→むとす。「終わりな―」 という空見出しであって、作例がなかなかしゃれていたのだが、七版はその後に、 ん‐ぼう バウ【ん坊】《接尾》(多く動詞の連用形に付く

再掲だが、ここに、「日本文学全集」第30巻(池澤夏樹個人編集)『日本語のために』(河出書房新社2016)所収の松岡正剛「馬渕和夫『五十音図の話』について」(pp.261-68)から、 問題を五十音図だけに絞っているのも効奏した(p.267) という箇所を引いた。「効奏」は、「奏効」ないし「奏功」の誤だろう。ただし 原文には当該箇所がない。 「奏効」「奏功」は、つまり「効を奏する」「功を奏する」ということで、以前わたしはこの表記の違いが気になって、辞書を引き較べてみたことがある。 その時のメモが残念ながら見当らないので、手許の資料だけを頼りにこれを書くことにしよう。 -文化庁編『言葉に関する問答集【総集編】』(大蔵省印刷局1995)は、「『奏功』と『奏効』の使い分け」(pp.156-57)という問いを立てて、これについて説く。 同書は、「奏功」は「てがらを天子に申し上げる」、転じて広く「功

原作(深見じゅんのマンガ)は未読ながら、かつてオンタイムで見ていたドラマ『ぽっかぽか』(1〜3,1994-97)が、BS-TBSで再放送されている。「花王・愛の劇場」枠で放送されたいわゆる「昼ドラ」だが、これが何よりも印象的なのは、幼稚園児の田所あすか(上脇結友)が、父親の慶彦(羽場裕一)を「チチ」、母親の麻美(七瀬なつみ)を「ハハ」と呼ぶということであった。 「チチ」「ハハ」は、現代でこそ改まった場で自分の父親・母親をいう呼称だとされるが、同音連呼だから、「ヂヂ」(爺)「ババ」(婆)「おテテ」(手)「おメメ」(目)などと同じく、元来は幼児語であったと推測される。 しかし今は、藝能人やスポーツ選手などが、公の場で自分の父母のことを「お父さん」「お母さん」などと言おうものなら、特に中年以上の方々から、ケシカラン、という内容の声や投書が届く。「チチ」「ハハ」と言わせろ、というわけだ。 ところで

東京メトロは、女優・石原さとみさんをデザインした乗車カード「東京メトロ24時間券」を、9月17日(土)から9月30日(金)まで販売します。広告キャンペーン「Find my Tokyo.」のポスターと同じデザインで、今回は麻布十番~広尾~乃木坂エリアを紹介した3種類を用意。専用台紙付きで、価格は1,800円(税込)です。 ▽ Find my Tokyo. | 東京メトロ ▽ 2016年ニュースリリース|東京メトロ 東京メトロは、東京の魅力を伝えるキャンペーン「Find my Tokyo.」を2015年度から展開。2016年度のイメージキャラクターに選ばれた石原さとみさんは、同キャンペーンのCMやWebコンテンツ、ポスターなどに登場しています。 7月ポスター 8月ポスター 9月ポスター 今回発売される「東京メトロ24時間券」は、キャンペーンポスターと同じデザインで全12種類を作成。年4回に分け

岡本喜八『にっぽん三銃士 おさらば東京の巻』(1972東京映画)という映画のなかで、小林桂樹と岡田裕介との間に次のような会話が交わされる。 岡田 まあ、すさまじきものは宮仕えってことです 小林 すさまじきじゃないよ、すまじきものは宮仕えだよ。それがどうした? 小林 華燭の宴*1! カッ、近頃の若い者はこんな字も読めんのか 岡田 こんな字、当用漢字にないはずですがね 小林 あ…あるはずだ! 岡田 三階に部屋なしか 小林 違う違う、三界に家なしだよ! 原作(五木寛之著)は未読なので、このようなやり取りがそこにあるのかどうか分からないが、こういった個人的な思い込みに基づく誤用や誤読を指摘するのは容易なことである。 だが、しばしば「誤用」といわれる表現のなかには、よくよく調べてみると、実際にはそうとは言い切れなかったり、むしろ実はそれこそが「正用」だったりするものがある。 「爆笑」などは、その最た

すでに旧聞になると思う。というか、そうなるのを待っていた面もあるし、考えていたらそうなってしまったという面もある。話題は、れいの、と言ってもいいだろう、「保育園落ちた 日本死ね!」ということだが、私が気になっていたのは、「日本死ね」という表現だった。そう言うべきだったのだろうか? 言葉狩りがしたいわけではないが、これが仮に「中国死ね」や「韓国死ね」という表現であったら、ヘイトスピーチになるのではないか。なのになぜ、「日本死ね」ならそういう問題にならないのだろうかと疑問に思ったのである。 おそらく日本人なら「日本死ね」と言ってよいという暗黙の前提があるのではないだろうか。だとすればそこで疑問が続く、日本人なら「日本死ね」と言ってよいのだろうか? あるいは、日本人なら「日本死ね」と言えるという特権のような意識があるとすれば、それは何に由来するのだろう? その特権を支える正義はなんなのだろう?

本年も宜しくお願い申し上げます。 - 昨年末、前野直彬の著作を古本と新本とで一冊ずつ購った。古本は『蒲松齢伝』(秋山叢書1976)、新本は文庫化されたばかりの『漢文入門』(ちくま学芸文庫)である。 『蒲松齢伝』は、相田洋『シナに魅せられた人々―シナ通列伝』(研文出版2014)に、平井雅尾について書かれた数少ない文献のひとつとして引用されている(p.351)*1ので気になっていたところだった。 『漢文入門』は、元本(講談社現代新書、1968年刊)を古書市などで見かけたことはあるが、手に取ってじっくり見た記憶はない。しかし、今回の文庫化に際して附された「解説」(齋藤希史氏)に、「本書は、いま盛んに行われる訓読論の先駆となる著作である」(p.210)とあるのを見て、迷わず購入を決めたのだった。 いかにも、この本の一番の読みどころは第四章の「訓読の歴史」であろう。それだけでも「『漢文』入門」として

自分の通う大学の生協でも街の本屋と同じように、伊藤計劃が押し出されており、ウンコ大学を中退した大量生産大衆作家の本と一緒にズラ〜と陳列されている。 このようなキャンペーンに自分はまんまと嵌り、買って読んだのだが、読みにくかった。 お話の内容は、たいていの人間の意識が消えてユートピアができましたー、文科省は人文系廃止できるね ヨカッタヨカッタとかいうものである。 そんな絶賛されるものか?と感じた。 しかし、「お前の文章の方が読みにくい」とか「映画化決定」と言われると何も言い返すことができない。 だから、自分には文句をいう権利など微塵もないのだけれども、ヒロインのある言葉にねーよと強く思った。 フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことのできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない とかいうお言葉である。そして、「若きウェルテルの悩み」が引き合いに出されている。 正直、人を殺す力など言葉

例の紐でわだいになってた『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』の第1巻を読んでみたんだが、日本語の誤用がひどくてつらかった。 ドワーフ達が徒党を組んで何か話し合っている p49井戸端会議のことを徒党を組むとは言わないとおもう 触れれば壊れてしまいそうな細い輪郭は精緻かつ美しく p83輪郭が精緻って、どこかに輪郭の設計図でもあるのか? 瞳孔が狭窄する p114狭窄するのは視野。 静謐な鳥の声 p146静謐って「シーン」ということばが似合うくらい静かなことを言うのだけど、鳥の声がするの?靴を鳴らす楚々とした音 p155楚々としたは、女性自身を形容することばではないのか? 枚挙に暇が無い人の群れ p224枚挙に暇がないって、(例を挙げようとすれば)数え切れないくらい多いという意味で、単純にたくさんって意味で使うことはないと思う 答えになっていない答えに、僕は汗を湛えてしまった

「全然」のあとは打消しの「ない」(や「駄目だ」「違う」などの表現)で必ず結ばなければならない、というのが一種の「迷信」「都市伝説」であったことは、今では、それなりに知られるようになった(これはもちろん、かつて「全然」は、打消しの「ない」とは共起しなかった、ということを意味するものではない)。 飯間浩明『三省堂国語辞典のひみつ』(三省堂2014)で飯間氏は、「ことばの「濡れ衣」と言えば、「全然」についての話を避けて通るわけにはいきません」(p.35)と述べ、『三国』の最新第七版で「全然」の項を書き改めたと記している。すなわち戦前から、「全然」は打消しや「ちがう・別だ」などの語が続いて「すこしも」という義をあらわしたほか、否定形などを伴わずに「完全に。すっかり」の義をもあらわしたということを明記したという。さらに飯間氏は、『三国』に「ほかとくらべて、断然」、「心配する必要がない、問題がない、と

現代人が過去に行ったとして、言葉が通じるのはどの時代までなんだ? Tweet 1: 栓抜き攻撃(大阪府) 2013/10/12 18:23:02 ID:sP62mOpP0 県埋蔵文化財調査センターは、松江市矢田町の灘(なだ)遺跡から江戸時代の大橋川の護岸施設と、 平安時代とみられる墨書(ぼくしょ)土器の破片1点が見つかったと発表した。 護岸は当時の治水・土木技術を知る手掛かりとなり、土器は公的な施設や市場が付近にあったことを 示す可能性が高いという。14日午後2時から現地説明会がある。 大橋川の河川改修工事に伴い、6月から発掘調査を続けてきた。周辺一帯は「出雲国風土記」に 「朝酌促戸(あさくみのせと)」として登場し、隠岐に通じる港として多くの人でにぎわった。 出土した土器の破片(約8センチ)には1、2文字が書かれているが、内容は不明という。護岸施設では 強度を高めるための杭列、横木、裏込め

http://bipblog.com/archives/4502962.html まあ、昔からある論争で、一言でいうなら『「子供」の「供」は「供え物」あるいは「従者」の意味だが、子どもは大人の供え物じゃないから「子ども」と書け』というやつです。これに対して『子供を「子ども」と書くのは言葉狩りだ』という勢力がいて、長年血で血を洗う戦いを繰り広げているのでした。 さて教育界ではどうなっているのかというと、公務員には「表記便覧」というものがありまして、作成文書の表記は基本的にはこれに沿うようにします。 で、地方公務員たる我々小学校教員もこれに従う訳ですが…おっと失礼、この時の「訳」はひらがなで書けと表記便覧にある…というわけで、「こども」表記も実は規定されています。 曰く、「こども」は「子供」と書くのが現在の規定です。そして「こどもたち」は「子供たち」と表記します。(少なくとも東京都では) ちな

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