初めに,今回の東北地方太平洋沖地震において被害に会われた方々に心からお見舞い申し上げます. 今回の震災に際して,実生活でもできることはやっておりますが,このブログの範囲でもできることはないかと考えました.もとより,有用なことが書けるとは思っておらず,また,まとまりのない内容になりましたが,少しでも共感できるものになっていれば幸いに思っています. ここ数日,ニュースの報道を見るたびに,つらい思いをしております.震災に遭われた方々がどれほど悲痛な思いをなされているか,想像するさえ耐えられないような気がします.私にも知り合いが福島,茨城におり,地震直後の週末は,安否確認等でいろいろと心痛めておりました. もちろん,今後予断を許さないとはいえ,現段階では大きな被害に遭ってない私は,震災者の皆さんのつらい思いを分かっているとは言えないでしょう.けっきょく自分の身に引きかえていろいろいと想像しているに

震災で多くの児童などが犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校では、児童の遺族などが鎮魂と震災の風化を防ぎたいという願いを込めて、手作りした竹の灯籠にあかりをともす取り組みを去年から行っています。11日は震災遺構の校舎近くの広場に当時学校に在籍していた児童の数と同じ108本の竹の灯籠が円形状に並べられ、午後5時45分ごろ、灯籠の中に通されたLEDが点灯されると、竹にあけられた穴から光が漏れて幻想的な雰囲気に包まれました。 今回のプロジェクトの共同代表を務め、大川小学校で当時6年生だった三男を亡くした佐藤和隆さんは「きょうという日は、多くの人にとって特別な日です。改めて12年前の災害を振り返る機会にしてもらえればと思います」と話していました。 また、共同代表で当時6年生だった次女を亡くした佐藤敏郎さんは「『お父さん、きれいだね』と言ってくれていると思います。自分の家族や未来のことを思い巡らせる、

今年4月1日付で、将棋界に異色の新人が誕生する。小山怜央、29歳。棋士養成機関である奨励会を経ずにプロデビューする、戦後初の棋士だ。 地元は岩手県、東日本大震災では津波被害に遭い、家を失った。それでも好きな将棋への思いを絶やすことはなかった。プロまでの道のりは決して平坦ではなく、一度は夢破れサラリーマンの道を選ぶ。しかし、27歳で会社を辞めて、崖っぷちからもう一度夢に挑んだ。そんな彼の物語が、大きく動き始める。(文中、敬称略) 避難所の中で将棋を指していた兄弟 12年前、岩手県釜石市――。 避難先の体育館に入っていくと、むせるようなにおいが鼻をついた。街全体を覆う海水とヘドロの入り混じった臭気が、建物の中にも満ちていた。空気は砂埃を含んでざらつき、マスクなしでは息をするのもつらい。そこに300人以上の人たちが着のみ着のままで身を寄せ合っていた。あの日、東日本大震災で釜石は大きな被害を受けた

2011年3月。あるCMが多くの人を元気づけたことをご存知だろうか。 それは意図していたものとは違ったかもしれない。もともとは違った狙いで作られたのかもしれない。少なくとも、制作時にあのような状況になるとはだれも考えなかったはずだ。けれども、作られたCMは、結果として多くの人を元気づけることとなった。 「祝!九州」と銘打たれたそのCMは、JR九州が2011年3月12日の九州新幹線鹿児島ルートの全線開業に向けて制作されたもので、開業前の3月4日より、九州内に限定してローカルCMとして放送された。 このCM、以前はJR九州のCMライブラリーやYouTubeの公式チャンネルで公開されていたが、いずれも公開終了してしまったため、視聴できない。その代わりに制作会社ティーアンドイーがアップロードする特別編180秒公開版の正規動画があるので、それを是非ともご覧いただきたい。 T&E JR九州 「

及川律ちゃん(右)と詠ちゃん兄弟。手前は律ちゃんの描いたお母さんの絵=岩手県陸前高田市で2011年4月5日午後、石井諭撮影 東日本大震災で被災した人たちを毎日新聞記者は継続して取材し、「いま」を伝えてきた。今回登場する兄弟を取り上げるのは、2011年4月7日に始まり、13年4月28日に続いて5回目。震災10年を前に思いを聞いた。 ◇ 岩手県陸前高田市で11年3月11日、保育園児だった及川律さん(当時4歳)、詠さん(当時2歳)の兄弟は、市立図書館に勤めていた母久美子さんを津波で亡くした。「僕も流されて、波になりたい」。1週間後、律さんは言った。同じ頃、「ママはお星さまになったんだよ」と父克政さんに教えられた。母方の祖母まみ子さんの家で学校職員の父の帰りを待つ2人は、「一番きれいな星」をパパと探し続けた。

「あのとき死ねばいがったと何度思ったか」「生きているだけ、ましなのか」――。岩手県山田町の元漁師、大川貞男さん(77)は東日本大震災とその後の日々をそう振り返る。津波にのまれた際に左肩の腱板を損傷し、身体障害者の認定を受けた。左腕は肩より上に上がらず、力仕事はできない。半世紀も続けた漁業はやめるしかなかった。近年、多くの自然災害に襲われてきた日本。犠牲者の数や街の被害が注目される一方、災害によって後遺症が残った人々は見過ごされがちだった。十分な支援制度もない。東日本大震災、阪神・淡路大震災、熊本……。大きな地震で「災害障害者」になった人たちの今を取材した。(取材・文=毎日新聞記者・本橋敦子/Yahoo!ニュース 特集編集部)

かいぬま・ひろし 1984年福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府博士課程在籍。専攻は社会学。現在、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員=東京都千代田区で2015年3月9日、内藤絵美撮影 いま、福島を知るために 気鋭の社会学者、開沼博さん(31)=福島大特任研究員=が福島問題を書き下ろした「はじめての福島学」(イースト・プレス)を出版した。「福島」を巡る食や産業、人口問題といったさまざまな社会問題を、公開されているデータを基にまとめた「福島問題の基礎知識」とも呼べる1冊だ。大きな反響を集めた「『フクシマ』論 原子力ムラはなぜ生まれたのか」(青土社)から4年。開沼さんはなぜ、データを一から整理したのか。福島を知るために何が必要なのか。福島の語り方をもう一度、考え直すためにできることとは。ロングインタビューでお届けする。【聞き手・石戸諭/デジタル報道センタ

In 2011 a massive earthquake and tsunami wrecked the Fukushima nuclear plant, resulting in a meltdown that became the world's worst atomic crisis in 25 years. About 160,000 people living near the plant were ordered to move out and thegovernment established a 20-km compulsory evacuation zone. The operator of the plant, Tokyo Electric Power Co, is struggling to contain contaminated water at the sit

海外から日赤への義援金 東日本大震災後、海外から日本赤十字社に寄せられた義援金の額を、日赤が国・地域別にまとめた。昨年末時点で米国、台湾が29億円を超え1、2位。一方で最貧国30カ国からも支援があった。全体では179カ国・地域から計227億円にのぼる。 今回日赤が集計した義援金は自治体を通じて被災者の支援にあてられるもので、日赤の活動にあてられる救援金とは異なる。 台湾と国交はないが、政府は「破格の支援を受けた」(菅義偉官房長官)として、先月の震災追悼式に参加した代表を他国と同様に扱った。中国からの義援金は約9億円で5位。香港とあわせると約16億円で、タイに次ぎ4位になる。 国連が認定する後発開発途上国(最貧国)49カ国のうち30カ国からも計約6億円が集まった。多い順にバングラデシュ1・6億円、アフガニスタン1億円、ブータンや東ティモールからも9千万円を超えた。アフリカも17カ国に
年度末の作業など。 昨日に打って変わって、この季節らしい寒さだった。 3月11日になった。震災から2年である。振り返るとあっという間でもあるが、昨年感じた困惑は、この一年でもそれほど整理が付かない。 メディアでは今日はその特集が多いだろうと思うし、黙祷などそこに寄せる人の気持ちもわからないでもない。私も追悼という思いはある。ただ、微妙な違和感の部分もあって、なんとも言葉にしづらい。「違和感」という「違和」の感覚とすら違う。 いろいろに思う。ひとつなんとなく思うのは、震災というより、津波ということなんだろうと思う。また、原発の問題は、それはそれで問題であるし、震災と津波によって引き起こされたのもだが、津波の、莫大な死者の問題とは、自分の心のなかでは切り離して考えたい。 「違和感」というのでもないのだが、と、語るとそれが違和感のような形を取り出す、心のありかたにも、ある種の困惑を覚える。 追悼
Mourning the loss of almost 20,000 people gripped Japan yesterday on the anniversary of the March 11, 2011 earthquake, tsunami and nuclear disaster. While the nation has made enormous strides recovering from the triple disaster, yesterday was was a time for remembrance. But the country is rebuilding even asit still suffers the loss of lives and the economic effects of an estimated $210 billion pr

昨日は東日本大震災から1年という日だった。振り返って自分はどう思うのかというと、これがまったくわからない。亡くなったかたへ黙祷などもしない。黙祷というのがどういう意味があるのかもよくわからない。なにかの集会で黙祷しましょうと言われたら、特に否定もしないし、ほかの人がするようなしぐさをする。心は空っぽのまま。そういうことは他にもある。日の丸が飾ってあっても君が代が流れていても、さほど関心を引かない。そうする人がいても、あるいは反発する人がいても、まあ、いいんじゃいのくらい。 自分の心が幼いからだと思うのだが、震災については、まずもって恐怖の映像が心を去らない。風化もしない。メディアを通して見ているのに、自分の最期となる瞬間が訪れてきたようにリアルに想像してしまう。NHKニュースの報道だったが、自動車に閉じ込められて洪水に流されていく人がいた。あれ、あの人、このまま死んじゃうんじゃないのか、
Japan Earthquake: One Year Later Alan Taylor March 9, 2012 45 Photos In Focus This Sunday, March 11, will mark the one-year anniversary of the horrific earthquake that struck northeastern Japan, spawning an incredibly destructive tsunami that crippled the Fukushima Daiichi nuclear power plant. In the year that has passed, much has changed. Mountains of rubble have been cleared, but not fully dispo
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く