好きな歌に”el jardín que nunca vas a conocer” ≒ the garden which you will never know” ってフレーズが出てきて、これがすごくグッとくる conocerは「知る」なんだけど、なんというか、体験して知るみたいなニュアンスがあるらしいので、多分ここでは「訪れる」みたいな感じでもある つまり、庭があって、俺は知ってるけど、君は知らないし、今後知ることもないわけですよ そういうのっていいじゃないですか まず、俺にとっては実際にこの庭が存在するんだよなスペイン・サラマンカの街に名ばかりの留学して親の金でプラプラしてた(ゴミ!)ときに、ときどき言ってた謎の庭園があるんすわ El huerto de Calixto y Melibeaなんて名前があり、なんでもそこそこ有名な文学作品ゆかりの地だそうで、実のところたぶん観光名所なんだ

「もちがやります’屋上で」を読んで。 もし私が自殺しようとしていたとしよう。その時にmotimoti3氏のこの記事を読んだら私は恐らく死ぬのを止めるだろうと思う。他の者は知らぬ。だが私は死なないだろうな。これだけ「いやだ!」と叫ばれたら「しょうがないなあ」となる気がした。 一年経ったら 耳の縛りを解いて上げる 二年経ったら 目の縛りを解いて上げる 三年経ったら 口の縛りを解いて上げる 四年経ったら 手の縛りを解いて上げる 四年の間はわたしのしっぽを握っているといいよ。 こんな風に絡め取られる感覚は嫌いじゃない。私もしっぽを握らせてくれ。縛られてしっぽを握って私は君への狂想曲を歌ってあげよう。生を謳歌する歌を。
「自分のためだけど、ただそれだけじゃない - こんな世界のはしっこで・・・」を読んで。 じゃあ、結局のところ、自分以外の誰のために続けているのかというと、読んでくれる誰かのためという事になるのだろう。 顔も見えない、名前も知らない。人数もわからない。でも確かに存在している誰かのために、書く、書き続ける。そういう部分があると思う。 誰のために更新し続けるのか、それは確かに自分のためだけど、ただそれだけじゃないのだと思う。 見守っていてくれる誰かがいるから、ここまでこれたし、今日もこうやって書いていられるという側面もたしかにあるだと思う。 Ad.Y&W氏は、私が勝手に「骨を拾う宣言」をしている相手でもある。私も氏を見守っている一人だ。私だけではない。氏のブログはもっと沢山の人が見守っていると思うよ。だから、私やその人達の為に書き続けて欲しい。 私は、自分の為に書き続けている。何かを読んだら何か
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