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人生に関するmochigeのブックマーク (473)

  • 彼女にドラキュラになってほしいと頼まれた

    同棲している彼女に突然ドラキュラになってくれと頼まれた。 ドラキュラのつもりになって私が寝ているとこを襲ってほしいと。 そのままセックスすればいいの?と聞くとそうだと言う。 「コスプレは面倒だからとりあえず設定だけじゃだめなの」と聞いたらそれでもいいと言われた。 早速その日の夜に実行することにした。 普段通りに過ごして普段通りに寝る。ただし今日は俺は夜中に起きてドラキュラになるのだ。 うっかり気で寝てしまいそうになったが、いつもと違うセックスになるかもという期待でなんとか起きていられた。 深夜ゆっくりベッドから抜け出していったん寝室から出てドラキュラになる事に集中する。 ドラキュラの具体的な設定がよくわからないが彼女の「カッコいいドラキュラに襲われて困りたい」を叶えるために、とりあえずすごくカッコいいドラキュラの役作りでいくことにする。 そっと寝室に入り彼女の顔を覗き込む。 「ちょっとお

    彼女にドラキュラになってほしいと頼まれた
    • ウクライナ人の身元保証人になって1年が経過した

      [私について]:具体的にいうと、都内のアラサーのインフラエンジニアです。自己開示は「異文化間生活」や「難民保護」のテーマから逸れるからメールでお話したいです。 [捨てアドです多分届く]:gyuyo289@heisei.be [起きたので追加]:文字数どこまで書けるかわからないから返信用のページも作った。あまりにも追いつかないとか、個人的な連絡があるならメアドとか晒せます。 [寝る前に追記]:彼女の名誉のために言うけど、彼女は可能ならスナイパーになりたかったって言ってたよ。女性も戦う意志がないわけじゃない。 あと、これは俺と関係ないところでやってる活動だけど、毎週新宿駅で募金活動とかをやってる「Stand With Ukraine Japan」のがあるから、支援したい人はしてください。 彼女と同棲する前に、一度そこで募金して、話を聞いたことがあるけど、具体的なコミュニティの話とか聞けなかった

      ウクライナ人の身元保証人になって1年が経過した
      • 死んだ日よりも葬式の日よりも、一緒に遊んでいたソシャゲの終了日が

        遊んでいたソシャゲのサービスが終了することになった。世間的には、円満なサービス終了である。 ずっと作品の中心として紡がれていたメインストーリーが終わり、それをもって作品として完結する。 それから数日後にでオンライン版のサービスが終了し、今後はオフライン版としてサービスを行う。 大団円だ。 ソーシャルゲームという、どこで終わるかわからない綱渡りを常に強いられるゲームにとって、当初から予定していたシナリオを完結させて終わることができるというのは、この上ない最高の終わり方だと思う。 そのうえ、全くなくなるのではなく、オフライン版として遊びたい人はまだ遊び続けることができる。 私も、今までに志半ばで終わってしまうゲームをいくつか経てきたので、これは当に最高の幸せな終わり方だとわかる。 なのに、どうしてか、涙が止まらない。 それは、このゲームが、昨年亡くなった私の伴侶が、私と共にメチャクチャハマっ

        死んだ日よりも葬式の日よりも、一緒に遊んでいたソシャゲの終了日が
        • いるはずのない親戚がXで見つかった話|岡田 悠

          26年生きて初めて知ったのですが、オモコロの岡田悠さんが僕の親戚でした —移住計画 (@izyukeikaku) January 2, 2024 「オモコロの岡田悠」とは僕のことだ。呟いているのは「移住計画」さんという3万人のフォロワーを抱えるアカウントで、センスのいいインテリアの写真が多数上がっている。26年生きて、と書いてあるから、26歳の方なのだろう。 だが僕には、26歳の親戚はいない。 ついでにセンスのいいインテリアに詳しい親戚もいない。 この方の勘違いだろうか。あるいは「初めて知った」と書いてあるから、隠れた遠い血縁関係があるのかもしれない。 Xで見つけた親戚?に連絡を取る気になって、その移住計画さんにDMを送ってみた。 曖昧な尋ね方をしたのは、匿名アカウントの移住計画さんに対して、個人を特定できるような質問をぶつけづらかったからだ。 そしたらすぐに返事をいただけた。 グレーで

          いるはずのない親戚がXで見つかった話|岡田 悠
          mochige
          mochige2024/06/23非公開
          昭和ひと桁生まれくらいまでは世間一般にも家系が複雑なケースは多いのではないか。うちにも親戚の集まりにいつもいるけど続柄を知らないおばちゃんがいて、曽祖父の妾の子ということだった(大人になってから知った)
          • 実家の近所に住むじいさんを車に乗せて買い物に連れて行った三日後

            そのじいさんが亡くなった。 昨年に父が亡くなり、私の実家は車を処分したので、実家に帰省するときはレンタカーを予約する。この連休もそうした。 安いので、地元の自動車修理工場がフランチャイズでやっているインディーズ系レンタカーにしてみたら、受付してくれた事務の親切な女性は、レンタカー約款を読み上げる間中修理工場から爆音で流れてくる演歌のUSENに向かって突然「ああうるさいっ!」とブチぎれ、「あなたもうるさいと思うでしょう!?」と私に同意を求め、同僚に修理工場につながるドアを閉めさせると、「最後に乗っていたのは平成15年式のbB(みんなの地元のDQNがよく乗ってたやつ)です。令和になってもまだ乗ってました」というある意味SDGsでは? みたいなことを平気で言う私に、令和2年式フィットハイブリッドという、まさに隔世の感というほかない車の操作方法をとても丁寧におしえてくれた。 そんな調子で車を借りて

            実家の近所に住むじいさんを車に乗せて買い物に連れて行った三日後
            • パパと私|伊藤亜和

              パパと会わなくなって7年経った。 死んでしまったわけではない。パパは私が住む家から歩いて1分ほどの場所に住んでいる。でも会わない。 喧嘩をしたからだ。 私が18になったとき、私とパパは警察が来るほどの大喧嘩をして、それ以来いちども顔を合わせていない。 私のパパはセネガル人だ。アフリカの西の、イスラムの国の人間だ。 私の名には苗字がふたつ付いていて(戸籍上片方の苗字は名前扱いになっているけど)、パパの家系の苗字はセネガルの由緒ある聖人の家系の印として付けられているらしい。 パパが言ったことなので当かは分からない。でも実際、時々知らないセネガル人から「ごきげんようプリンセス」とメッセージが届く。くるしゅうないぞ。 今でこそ横浜の片田舎で祖母の作った鯛のあら汁を啜るどこにでもいるプリンセスこと私だが、パパと暮らしていた幼いころの家の様子はやはり他とは異なるものだった。 壁いっぱいに飾られた教

              パパと私|伊藤亜和
              • タクティクスオウガと俺の半生

                11月にリメイク版が発売されるので思い出話を書いてみたい。 今から25年前の1997年ののこと。当時小学生だった自分の1歳年上の従兄が、夏休みにお婆ちゃんの家にこのゲームを持ってきていたのが全ての始まりだった。 「タクティクスオウガっていうゲームがあるんだ。すげーから一緒にやろうぜ。」 従兄に勧められるままゲームを始めたのだが、タクティクスオウガが『すげー』ことはすぐに分かった。 中世ヨーロッパ風の権謀術数渦巻く世界観。重厚なBGMの中で敵味方がターン関係なく立体的なマップで繰り広げるリアルな戦闘。 背中に翼の生えたキャラクターが民家の屋根の上に移動して弓を射ると放物線上に矢が飛んでいくわ、ふわふわと宙に浮かぶ幽霊が魔法を唱え敵が炎に包まれると足元の草が焼けるわと細部までこだわったビジュアル。 とにかく衝撃的なゲームだった。いてもたってもいられなくなり、従兄がお婆ちゃんの家から帰った直後に

                タクティクスオウガと俺の半生
                • 漫画家を目指していた母親にインタビュー

                  私の母は絵が上手だ。若かりし頃、少女漫画家を目指していたらしい。 この夏実家に帰省した際に、母親が描いた漫画が大量に出てきたのだ。せっかくなので母親の漫画家ヒストリーを娘の私がインタビューしてみることにした。

                  漫画家を目指していた母親にインタビュー
                  • 創価中学・創価高校の思い出

                    自分は典型的な学会2世で、2000年代前半に創価中学・創価高校(創価学園)に通っていた。 最近よくあの頃のことを思い出すので適当に書く。 いかんせん20年近く前のことなので中学・高校を混同してたり不正確かもしれないけど許して。 受験地元の5歳ほど上の代に創価中学に合格したひとがいて、それなりの田舎だったこともありレジェンドのように語られていた。 そのレジェンドが通っていたのと同じ地元の塾に小4から通った。創価学会員はこの手の験担ぎが大好きなのだ。 受験日前日に38度の熱を出してしまった。前述のレジェンドも同じようなことがあったなかで合格したらしく、カーチャンは興奮しながら唱題していた。創価学会員はこの手の(ry 当日は携帯ご尊(お守りご尊とも呼ばれる)をカーチャンに持たされた。どんなものかはググってくれ。 お決まりの「公共交通機関でお越しください」であったが、トーチャンの車の後部座席に

                    創価中学・創価高校の思い出
                    • (追記)まんじゅう要求BBA死す

                      大学の時、留学でカナダ行ったんだけど 出発前にホームステイ先のホストマザーにお世話になります〜楽しみにしてます〜ってメールしたら 「Bring Manju」 だけ返ってきた 明らかにハズレじゃん…こんなやつまともなはずがない…ホームステイ先変えたい…と思いながら、カナダのシンボルのメープルっぽいからともみじ饅頭と普通の饅頭を買って出発した 行きの飛行機は出発前からかなり遅延していて着くのが予定より3時間くらい遅れたんだけど、ホストマザーは怒ったり不機嫌になったりせずに優しく出迎えてくれた 疲れてるだろうと軽くごはんをべさせて綺麗なベッドで寝かせてくれた 次の日はわざわざ学校への道のりを確認しについてきてくれてバスの乗り方とかおすすめのパン屋を教えてくれたりした 留学中、友達ができてるかとか学校で困ってることはないかとか確認してくれたり色々と気にかけてくれて、月が変わるごとに手作りのハンバ

                      (追記)まんじゅう要求BBA死す
                      • 父が麻雀入門にふりがなを書いてくれた

                        俺が小2の時、父親がテレビゲーム麻雀やってるのを見て、 「僕もしたい、覚えたい」と言ったら、 家にあった麻雀入門書の漢字にふりがなを書いてくれた。 結局それでも覚えきれなかったけど、 父親が手書きでふりがなを振ってくれたのは嬉しかったなぁ。

                        父が麻雀入門にふりがなを書いてくれた
                        • 快活クラブをずっとラブホだと思ってた話

                          時々みかけるお城みたいな建物を指差して「あのお城いきたい!」「あのぴんくの建物はいりたい!」っていうと母からはしかめっ面をされた。 その理由をしるのは中学生になって性に対して様々なことをしる時だった。 それ以来私は妙に目立つ24時間とか休憩とか書いてある店はすべてラブホだと思ってた。 20歳の同窓会。私は同級生と24時を超えるまで酒を飲んでいた。 オールするぞ!といってオールできる年齢ではあったが流石に3時ぐらいになるとみんな眠くなってきて帰り始める人も増える。 そろそろお開きという空気が蔓延し「増田ちゃんどうやってかえんの?」といつも優しかった安田(仮)君が声をかけてくれる。 安田くんは「みんなが帰るのに足がいるだろ?だから俺は飲まない」というぐらいの紳士だ。 「始発で名古屋まで戻って新幹線のるー…」というと「眠そうだし駅まで送ってこうか?」と安田くん。 「今駅いっても始発まで3時間弱あ

                          快活クラブをずっとラブホだと思ってた話
                          • しょうもないのに忘れられない言葉

                            たぶん自分以外は全く気にしていないだろうふとした言葉が、どうしても頭から離れず残っていることはないだろうか。心に残る名言とかそういったものではなく、もう少し生産性のないもので、忘れてもまったく困らないようなことなのに、なぜか忘れられずに頭にこびりついていること。 暇になったので、私の人生の各地点におけるそういった言葉をいくつかピックアップして振り返ってみる。 高校時代:「利休かよ」私の出身高校はお寺に附属している私立高校で、地域のお寺の跡取り息子という生徒が各学年に何名かいるような、ちょっと変わった学校だった。そのため、選択科目の時間は「書道」「茶道」「修行」を入学時に選択することになる。 (この「修行」については実際のところ別の名称があるが、それを検索すると容易に学校名が特定できてしまうため伏せている) そのシステムを全く知らずに入学した私はこの3択の中で最も普通そう…と思い「書道」を選

                            しょうもないのに忘れられない言葉
                            • レビューがヤバすぎるラーメン屋に行った日の話|マキヤ

                              「待って。この店ヤバいかも」友人と2人で旅行。予定していたラーメン屋に向かう道中、友人が歩みを止めた。目を大きく開いて、ゆっくりとスマホで文字を読んでいるようだった。 ヤバいわけがない。俺は旅行前にちゃんと調べた。欲をそそる肉厚のチャーシューがゴロゴロ乗ったラーメンの写真。30年以上続く老舗で、名店だとの声もある。べログの評価もかなり高い。 「どうした」 空腹も相まって少し乱暴にスマホを覗き込むと、たくさんの低評価レビューが視界いっぱいに広がっていった。 ・前の客がこぼしたスープを拭かないで座らされる ・スープがぬるく麺も伸びていて不味い ・全体的に不衛生 ・お客の前でスタッフを怒鳴る ・携帯電話使用禁止の張り紙がたくさん貼られており、スマホを手に持った瞬間厨房から怒号が飛んだ ・後からきて同じメニューを注文した客のほうが早く配膳された ・半ライスが運ばれた15分後にラーメンが来た

                              レビューがヤバすぎるラーメン屋に行った日の話|マキヤ
                              mochige
                              mochige2021/07/29非公開
                              ツイッターで極コンテンツって言われてて笑っちゃった。初見クリアほぼ不可能なところとか確かに
                              • Netflixとブコメに救われた

                                Netflixのステマではないです。アマプラとか動画サブスクサービスならなんでもいいと思う。 祖父のTwitterがひどすぎて(anond:20200910162504この増田に書いてる)悩んでいた時期があったんだけど、Netflixを契約させてから一気に改善した。 まずTwitter映画の感想を書くようになった。契約して二週間くらいでツイートの半分が映画の感想に変わった。映画を好きな人たちと繋がるようになった。多分これが一番よかった。 優しい人がやんわり注意してくれたり、過激なツイートがあまり好まれないことに祖父も気づいたのだろう、一ヶ月経った頃には誹謗中傷と陰謀論が完全に消滅した。最近はAV女優へのリプも消滅し、映画への感想やおすすめ映画のツイートが並ぶいいね欄にごく稀に登場する程度になっている。洋画に囲まれたAV女優はちょっと面白かった。映画は祖父との新しい話題にもなった。電話す

                                Netflixとブコメに救われた
                                • ゴリラに育てられた4年間の話

                                  小学3年から6年までの間、担任がゴリラだった。 もちろん正確には人間だったんだけど、なにせガタイがよく、振る舞いもゴリラのようだったので、生徒たちには「北ゴリ」と呼ばれて親しまれていた。 北ゴリは草履を履いて生活し、機嫌がいいといつのものか分からない昭和歌謡を歌い、毎日マウンテンバイクで隣県の家から学校に訪れては、日が暮れるまで体当たりで子どもの相手をした。すべてが風変わりなゴリラだった。 北ゴリの授業は自由だった。彼はゴリラらしく、われわれ小ザルにもわかる作法で勉強を教えてくれた。 算数で体積を習った日の宿題は、いっぱいに張った風呂に頭まで浸かって、減った湯の深さから自分の体積を計算するというものだった。 比率の授業には、醤油と酢と油を持ってきて、一番おいしいドレッシングの比率を計らされた。円周率を初めて知る日には、コンパスで引いた円に沿って糸をなるべく正確に張りつける遊びをして、その

                                  ゴリラに育てられた4年間の話
                                  • この割れ切った世界の片隅で|山邊鈴

                                    クラスに1人は「ひまわり学級」の子がいた。いつも教室の後ろの掃除用具入れに上って犬の鳴きまねをしたり、机の上に立って踊ったりしていた。班対抗百ます計算レースでも、その子が入っている班はいつもビリだった。宿泊研修の沢登りでは、その子を含めた私の班は、目標時間から1時間遅れてゴールした。水が怖いと泣き喚く彼女を必死でなだめるが、ただ足をジタバタさせるばかり。周りに頼れる人は誰もおらず、私もパニックになったのを覚えている。しかし、彼女の気持ちを想像すると決して酷いことは言えなかった。彼女について何も説明はなかったが、ただ彼女が自分の意思でそれをしているのでは無いことは見て明らかだったからだ。もし私があの子だったら、酷いこと言われたら、きっと「なんで?」って思うだろうな。さみしいだろうな。ただその意識だけは持ち続けていたように思う。 https://www.mext.go.jp/a_menu/sh

                                    この割れ切った世界の片隅で|山邊鈴
                                    • 「先生がオメガを倒したら宿題やってきてやるよ」と生徒が言ったので、わたしはゲームライターになった|Yuka S. (or rurune)

                                      (四半世紀前の思い出。間違い、勘違いがいくつかあります。修正しようと努力しましたが、次第につじつま合わせに必死になり、書き上げた時の情熱を自ら消してしまいかねないと気づきました。なので10年以上も迷って、やっとついに書き上げることができたままの文を残しておきます。) 大学生時代、塾講師のバイトをしていた。理由は金。岩手県で「現役東北大学生が勉強を教えます」とぶん回せば仕事がたくさん来た。家庭教師もしていたが、すぐに塾一に絞った。希少性を高めるため、不便なところを狙った。動機は金。岩手の実家から高速バスで1時間半揺られ、山奥の町の中にあるたったひとつの塾に週3回通った。当時の岩手はのんきなもので、高校進学の選択肢もそんなに多くはなかった。進学校に行くか、そうではない高校に行くか、それぐらい。それでも我が子のよりよい将来を願って、子供を塾に通わせる親が増えてきていた。 両親の願いを背負って送

                                      「先生がオメガを倒したら宿題やってきてやるよ」と生徒が言ったので、わたしはゲームライターになった|Yuka S. (or rurune)
                                      mochige
                                      mochige2020/03/17非公開
                                      初回プレイ時ぜになげでほぼすべてのボス倒したな……。そういうプリミティブな気持ちを思い出した
                                      • 「姉は大して苦もなく医者になった。」

                                        姉は昔から「お勉強」はできるけれど、世間知とか常識とかにはあまり聡くない、いわゆる天然なお嬢さんだった。 小学生くらいの頃から「医者になる」と公言していて、周囲もそれが当然と考えていた。頭がいいのもあったし、なにより勉強に関しては誰より律儀だった。 不真面目な学生だった俺はなんであそこまで毎日真面目に机に向かえるのだろう、と不思議だった。 彼女は県内でも一番といわれる高校(もともと男子校で、姉の入るタイミングくらいに共学化された)に進み、そこでもしゃかりきに勉強に励んだ。 成績も「医学部には普通に入れる」くらいをキープしていたらしい。 俺も親も姉も普通に現役合格するものと思っていた。 だが、落ちた。 姉は気で悔しがっていた。 俺は「やはりお医者さんになるのは大変なんだな」くらいにしか思わなかった。 姉は浪人し、上京して予備校通いを始めた。 そして翌年に私立の医大に合格した。 そうしてつつ

                                        「姉は大して苦もなく医者になった。」
                                        • 「インドに漂着したお相撲さん」を演じた日本人は元力士だった「相撲に助けられてきた」人生(DANRO) - Yahoo!ニュース

                                          まわし姿の力士が、インドに流れ着くーー。聞くからに荒唐無稽(こうとうむけい)なストーリーのインド映画。その予告編が400万回以上再生されるなど、ネットで話題になっています。 【動画】「インドに力士が漂着する映画」予告編 タイトルは、その名も『Sumo』。南インドで使われているタミル語の映画で、2020年1月に現地で公開されます(日公開は未定)。漂着した力士を演じたのは、田代良徳さん(43歳)。かつては東桜山(とうおうやま)という大相撲の力士でした。 ケガが原因で31歳のときに力士を引退した田代さん。なぜ、俳優の道に進んだのでしょうか? どのような経緯でインド映画に出演することになったのでしょうか? 話を聞いてみました。(土井大輔) ーーそもそも日人がインド映画に出ること自体、珍しいと思うのですが、どのような経緯だったのですか? 田代:「インドで映画を撮りたいんだけど、力士役を探している

                                          「インドに漂着したお相撲さん」を演じた日本人は元力士だった「相撲に助けられてきた」人生(DANRO) - Yahoo!ニュース

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