ふと思ったけど、これは他人ならではだよね。離婚して1年して思うこと スキンシップがなくなると、必然的に会話も減り、相手の考えていることがわからなくなった。 そうして3年くらいかけて、ゆっくりとゆっくりと他人に戻っていった。離婚して1年して思うこと これを逆に考えると、スキンシップとか会話を積み重ね、相手を理解し、受け入れることで、少しずつ他人じゃなくなるわけだよね。微妙な段階がある。もちろんそれをすっとばすきっかけとか、ターボ装置もあったりするんだけど(「できちゃった」とか)、基本的にはゆっくり少しずつ。 元々他人だからなのかな。他人だからこそ手間がかかる。縁がないからこそ、縁をつくるのに順序がいる。ゼロから関係性を構築するわけで、意外に手間がかかる。 でも、一度関係性ができると長続きするのもこっち。いきなりは他人にならない。他人から脱するために段階を踏んでいるので、他人に戻るのにも時
http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20080104/1199387682 http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20080111/1200025863 太古の昔より、「作家のやる気を殺ぐレビューはやめろ」と「レビューは作家じゃなくて読者のためにやるものです」という意見は対立してきたんですが、個人的には断然後者を支持します。 理由は以下のとおり。 レビューを読むのはまず読者。 誉めるだけでは参考にならない可能性もある。 的外れと感じたら、誰でもレビューを批判して構わないし、実際いくらでもできる。 たとえ批判レビューで作家が一人潰れても、他に作家はいくらでも……。(←ヲイ) しかし、当該レビューの質が低かった場合はもちろん、読者の嗜好(例:オススメだけを知りたいのであって、批判意見は聞きたくない)によっても、レビューが読者の参考にならな
ニセ科学批判批判をされているmercaさんの新しいエントリー。 ■ニセ科学批判の意味空間(社会学玄論)*1 ニセ科学は、やはり科学が唯一絶対的な正しい真理であるという暗黙の前提に支えられているような気がする。そして、ニセ科学批判も、科学の立場からなされるのならば、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという暗黙の前提をもつことになる。「科学が唯一絶対的な正しい真理である」という信念を共有する者どうしの熱い議論である。ところで、科学以外の立場から、ニセ科学を批判する視座はあまり見かけたことがない。 ニセ科学批判者たちが、なぜそんなに熱くニセ科学やニセ科学批判批判を批判するのか、その理由が釈然としないもどかしさを感じる。科学だけが正しいとは限らないという私のような相対的な認識をもっている者には不思議にうつるのである。科学が唯一絶対的な正しい真理と堂々と思っているから熱く議論するのであると正直に言え
《効憲 , Enforce the Constitution》-- 九州は筑後から九条実施のための情報を発信します.2004/12/25創設、2025/1移転。 (末尾に追記.2011年11月28日) 護憲派の議論で欠けるもの,あるいは不足するものの一つに,侵略に対して国家や社会をどう防衛するかという問題がある.これを補うかもしれない方法論を見つけた. 以前の記事「マイケル・ランドル氏にこそノーベル平和賞を」の中で紹介した「市民的抵抗」(新教出版,2003年)という本に「代替防衛*とは何か」という章(第5章)がある. この本は,圧政や政府の違法行為に市民が非暴力で抵抗する方法について述べたものだが,この章とそれに続く部分では,市民的抵抗(非暴力抵抗)を,軍隊に代わるものとして国防に応用することを論じている.それが実際に成功した例として,バルト三国に対するソ連の侵略の阻止(90−91年),さ

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