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人生を振り返って、あのとき、これしか選択できなかったということがある。客観的に考えるなら、他の選択もあった。しかし、その可能な選択をしていたら、今の自分ではない。まあ、そこまではいいとしよう。 今の自分が不幸だとする。その不幸の原因はあの選択にあったと考えるのが合理的だったとする。幸福であるためには、あの選択は間違っていたということになる。そういうこともある。 そこで悔やむならつらい悔恨でもあるのだが、問題として難しいわけではない。難しいのは、不幸であっても、あの選択の上に生きて来た自分というがまさに自分なのだという自覚だ。これがやっかい。 この問題でいつも思う挿話がある。「長崎先生」という人の人生だ。歴史に残る有名な人ではないと思う。明治30年頃の生まれではないかと思う。ちなみにグーグルとかで関連キーワードらしいもので検索しても特に情報はなかった。 「長崎先生」は小樽教会の牧師だった。廃
評価:★★★★★星5つ (僕的主観:★★★★★5つ) ■はじめに〜とにかくいいたいこと 大ファンで毎日読んでいる(更新がない日は過去にさかのぼって読んでいる。一日一読。)ちきりんさんのブログで、『世界を歩いて考えよう!』の書評コンテストをするというので参加してみました。理由は、ちきりんさんが大好きだから、この大好きな思いを表現したくて書きました。大好きです!。(二回いいました。重要なことなので。)うむ、これを言いたかった(笑)。これで目的は達成いたしました。なぜならば、コンテストをするというくらいだから、読んではくれるだろうということで、確実に目に触れる形で、ちゃんと愛を告白しておきたかったのだ(笑)。ちきりんさんのブログで、本当にいろいろな見方を体験できたり、考えるきっかけをもらえてうれしいです。 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120602 1)「自分

ソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想 作者: ニコラス・ハンフリー,柴田裕之出版社/メーカー: 紀伊國屋書店発売日: 2012/04/27メディア: 単行本購入: 5人 クリック: 195回この商品を含むブログ (10件) を見る うーん、意識やクオリアの話はどうしてもウダウダしくなってしまうなあ。ハンフリーにしてもそうだ。 ハンフリーは、ブスやバカがなぜいまだにいるのか、なぜ淘汰されていないのか、というのに対して、そのほうが進化的に有利だから、という身もふたもないがおもしろい説を述べていて、ぼくは進化生物学者の中でもとても好きだ。 そのハンフリーが、意識やクオリアの謎に挑むのが本書。なぜ意識やクオリアがあるのか? この質問はむずかしい。スイッチを押すと「痛い」と録音が流れる機械は作れる。でも、機械は本当に痛みを感じているわけじゃない(だろう)。でも隣のやつを針でつきさすと「痛い」とい

「この作品にはこんなに厳然とした"つまらない理由"があるのです。だからこの作品はつまらない。そうでしょう?」といった種の物言いは一見もっともらしく聞こえます。 でも「作品の面白さ」とは「面白さ」と「つまらなさ」の単純な引き算で決まるような性質のものでないことを私たちは知っています*1。なにしろここは、「つまらないけど面白い」といった状態が平気で存在する世界なのです。 「作品がつまらない理由」を列挙することで「その作品に対する面白いという評価」に対抗しようというのなら、それはあまりにも分の悪い勝負です。なにしろ、彼らは厳然とした事実として今も確かにその作品を「面白い」と感じているいるのですから。「その面白さは作り手に踊らされた結果生じた偽物の感覚だ」とか「その作品の面白さは批評的に誤りだ」といった主張の、なんと空しいことでしょう。 その作品が人々に好意的に受け取られることが我慢ならないなら、
作ろうとしたこともないひと、作ったこともない人が、「俺が作れば傑作ができる」と思うのは、よくあるばかげた話だけれど当たり前のことで、すべての人が、作る前には「これから作るのは傑作だ」と信じている。あたりまえだ、想像の中でなら、本来なら厳密にきめなければいけない細かい部分は都合よくあいまいにぼかしておけるし、矛盾も無視できるし、作りたい部分は、想像した通りに100%で実現できると信じている。けれど実際に作り始めると、頭の中で想像したものをそのまま100%、アウトプットすることは不可能だとわかるのだ。作り始めてからこそが、本番なのだ。すべての意味で。 自分の中で想像していたものを、アウトプットしようとしたさいに、それがそのまま100%で、外に出せないことにはじめて気付く。どんな人間だってそうだ。頭にプリンターでもとりつけて、ウィーンと印刷しない限りは、思った通りのものなど100%では実現できな
今から酷いことを書くつもりだ。わかっている人には頷いてもらえると思う。仕事が出来るとは仕事が出来る人というのはどんな人なのだろうか?どんな人が仕事が出来るのだろうか?私はプログラマーだから、プログラマーで例えるが、技術がある人だろうか、きちんと仕様に通りに作れる人だろうか?私は、成果が出せる人だと思う。答えを見てそりゃそうだと思っただろうか?これは別に頓智ではない。これはちょっといいことを言ったわけでもない。仕事というのはタスクと、そのタスクを決定することに分離することができる。プログラマーなら、「プログラム作業」と「どんなプログラムを作るのか決定すること」だ。 プログラム作業が上手い人が、良いプログラマーかと言われると、確かにそうなんだろう。ただ、仕事が出来る人かと言われると、「わからない」というのが正解だろう。それは良い作業者であろう、でも仕事が出来るかどうかは、何を作ってどんな成
爲末大 Dai Tamesue @daijapan 世の中にはどうしようもない事と、どうにかしようがある事があって、なせばなるが信念の成功者も、よく見ているとこの判断をすごく上手にやっている。絶対に逆らえない流れには逆らわず、自分の長所が生かされる場を選んでいるから、やりきれば結果が出る。 2012-03-02 23:58:01 爲末大 Dai Tamesue @daijapan 昔200Hというのがあったのだけれどある日廃止された。諦めずに200Hをやって日本一になろうとした人もいたかもしれないけど、発揮する場所が無くなってはどうしようもない。自分が向かう方向は社会が望んでいるか、時代が望んでいるかという事が夢が叶う為の前提にある。 2012-03-02 23:58:46 爲末大 Dai Tamesue @daijapan アスリートの才能があったからといって小説が書ける訳じゃない。なせ

という言葉について、ここのところずっと考えている。あるいは、ぶちあたってる。 すごいと思う人、非の打ち所なんてないじゃんだいすき!あなたになりたい!って思う人、ビビっちゃうくらい頭いい人でも、その人なりの悩みがあるんだなあ、それはわたしのくだらないなんやかんやと比べて優劣とかないんだだなあって最近よく思う。 自分が自分について知ってること把握してることなんて本当にたかが知れてると思ってて、自己評価ってあんまり信用してない(というかネガティブすぎてどうにもならない、ネクラすぎる)。それより、親しいあるいは近しい人が赤裸々に評価してくれるところをちゃんと聞こうってしてる。普段ひとりで気になっているようなところって、意外に周りの人は「まぁそういう人だよね」で済ませられてるところも多い。自分が思うよりずっと、他人はわたしのことよくわかってるし、ごまかせない。だから直す必要がないよ、と言いたいんじゃ
思いは言葉に。はてなブログは、あなたの思いや考えを残したり、 さまざまな人が綴った多様な価値観に触れたりできる場所です。

今のうちに宣言しておくがもしブロガー将棋大会なんてものが行なわれるとしても私は絶対に出ない。もし出て自分の棋譜がネット上に晒されたら、もう恥ずかしくて二度と将棋のことを書くことができなくなってしまう。それくらいヘボなので絶対に出ないよ。 でも、ヘボでもプロの将棋を鑑賞して楽しむことはできる。大きな対局では棋譜中継というのがあって、ブラウザから解説付きでリアルタイムの棋譜を見ることができる。Kifu foriPhone というソフトを使うと、iPhoneから見ることもできる。 当然、盤面だけを見てもチンプンカンプンなのだが、プロ棋士の解説がつくと、単に勝ってる負けてるだけはなくて、何が争点になって、それがどういうふうに推移していくかよくわかる。勝負の決め手となる重要な場面で何が起きたのかもだいたいわかる。 電車の中でワクワクしながら、固唾をのんでiPhoneを見てたりして、「本当にいい時代
WEB2.0と世間で騒がれた時期に竹の子のように乱立したサービス群。 その幾つかを自分も使い日々のネットライフ?を満喫?し、恩恵を受けている。 今日、交通事故で死んだとする。 その瞬間、自分の時間はフリーズし、先に進むことは無い。 1ヶ月、半年、1年、みんなの記憶からも段々と消えていく。 しかし Gmailはメールを届け、Twitterは知人の呟きを伝え、 mixiは知人の日記の更新を伝え、 Tumblrはネタ画像を教え、yahoo auctionは掘り出し物の出品を伝え、amazonはオススメのアイテムの発売を伝え、 youTubeは面白チャンネルの更新を知らせてくれる。 これらのサービスからの参照が存在している間、開放(成仏)されかなったりしたらなんか切ない。

坂井直樹さんのブログで見事な水滴の写真が紹介されていたのでそのまま拝借。 子供の頃、「湿度70%」が不思議でした。「空気中に含まれる水分の量」と聞いて、空気全体の七割が水なのだと思ったのです。すると本当の空気は3割しかない!。そんなに水が空中にあったら溺れちゃうかも。中学生になって、空気が水蒸気を抱え込める量には限界(飽和水蒸気量といいます)があって、その限界に対して、70%なのだということを知りました。だから湿度100%でも溺れる事はないと。 さて、暖房を入れたりストーブを焚いたりすると「空気が乾いて、喉が痛くなる」と感じる人はたくさんいるでしょう。ヒーターでタオルを乾かすように、熱が水分をどこかへ飛ばして空気そのものを乾かすイメージがありますが、考えてみると妙です。タオルの場合は水が空気中に逃げていく、でも空気を乾かすといっても、水の行き場がないし。 ではなぜ乾くのか。実は。気温が上が
http://anond.hatelabo.jp/20100129222703 最悪な夕食だった いつもは自炊しているんだけど今日は面倒になったので途中駅で降りてご飯を食べてきた。そしたら隣の席に座ってた女性2人の会話がクソ過ぎて引いた。 彼女たちは最近行った合コンが最悪だったって振り返っているみたいだった。男性側幹事が高学歴を連れてくるとか言ってたから、2人はすごく期待して参加したのに、来た男性陣がぜんぜん高学歴じゃなくて、これじゃ詐欺だったと嘆いてた。彼女ら曰く「○○大って言っても○○学部だったらエア○○大卒じゃん。その学部で○○大卒とか言うなってのwww」とギャハギャハ笑ってた。こう書くとネタくさいけど、でもギャハギャハとしか表現できない笑い方だった。 なんていうか、合コンが残念な結果だったって話は良くあることだし愚痴ったっていいと思うけど、レストランとかで大声でする話じゃない。席変


不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 運命みたいなことを考えています。 人が自分ではどうしようもないものとしての運命。運命が決まってるか、決まってないかという話は割とどうでもよくて、むしろ決まってるかどうかがわからないことも含めて、人がどうにもできないものとしての運命を考えてます。 なぜ、そんなことを考えているかというと、人がどうにもならないものへの敬意とか、逆にどうにもならない運命の力を借りて進む他力本願みたいなものへの意識が足りないなと感じるからです。いや、正確にいえば、足りないどころか、人にはどうにもならないものを意識の外、社会の外に排除している。 排除しておいて、自分たち視点で何でも都合よく考える。自分たちができることの範囲で、できることとできないこと、あるいはできる人とできない人を順序づけています。
現実は小説より奇なり、という言葉を私は信用しない。なぜなら宇宙が好きだから、そして誰もが宇宙を愛しているから。現在は多くが観測によって検証され、妄想が現実へと変換されているが、はじめ、地球が星という球体、物体であること自体が人の妄想でしかなかった。科学がそれらを検証し、現実としたのは後付けであって、特にいまでも、果てのことは妄想で満ちている。そんな宇宙を人が愛するのならば、現実、つまり理性が、小説、つまり妄想より奇であるとは言いがたいと思うのだ。 現実とはずるい。たとえば、創作では「そんなご都合主義な展開があるか!」といわれるような奇跡も、現実では「そこまで出来た話があるのか……!」という感動に変わる。つまり小説では見られない奇が現実にある、というのは小説では「どうせ創作だろ?」と邪魔する理性が、「これは現実である」という事柄によって競り負け抹消されてしまうだけにすぎない。本来人の妄想とは
糸井重里がほぼ日の創刊時から 2011年まで連載していた、 ちょっと長めのコラムです。 「今日のダーリン」とは別に 毎週月曜日に掲載されていました。 溜めてばっかりの人たち。 2009-11-09 ずいぶん前に、トレーナーのケビン山崎さんが、 こんなことを言っていた。 「みんな一所懸命にワークアウトして、 ボディを鍛えるのはいんだけど、 それでゴルフがうまくなりたいとか、 野球でもっと活躍したいとか、 そういうのはないのかな、と不思議なんですよ。 ナイスなボディつくって、 それでどうしたいっていうのを、 日本の人たちはあんまり思わないんですかね」アメリカで育ったケビンさんは、 なにかと日本人の気持について不思議がっていた。 「目的がないのに、ボディを鍛える人々」というふうに 思われている日本人のなかには、ぼくも入っていた。 スポーツの選手たちは、アマチュアでもプロでも、 どうなりたいとい

「長生きが地球を滅ぼす」を読了した。ご紹介いただいたむっちゃんさんに感謝。 「長生き」が地球を滅ぼす ― 現代人の時間とエネルギー ― 作者:本川 達雄発売日: 2006/01/20メディア: 単行本 代謝量と寿命の問題が書かれていた。人間ではなく動物の場合の体の大きさと代謝量が3/4乗の関係にあることは、「生き物たちは3/4が好き」に出てきた。 d.hatena.ne.jp 生き物たちは3/4が好き 多様な生物界を支配する単純な法則 作者:John Whitfield発売日: 2009/01/29メディア: 単行本 代謝量から考えると、ヒトは同じ大きさの動物が生存に必要なエネルギーの40倍を消費している。しかも、通常の代謝量から考えられる30年という寿命を大幅に超えて生きることを自分自身の環境を造りこむことで可能にした。本書は、ここから一歩も二歩も先に進め、ヒトの時間を丹念に考えている

http://anond.hatelabo.jp/20091015145444 自分もそういう風に考えてた。そのときは別に明日死んでもいいやってくらい人生つまんなかった。だからそれを打開するために趣味を探した。 「趣味がない」とかでぐぐって、解決法を探しまわった。「自然に見つかるまで待とう」とか「テレビを見るとか、身近なことも趣味だよ」とか「そもそも無理して見つけるものじゃない」とか、そういう答えばかり見つかった。確かに正論なんだろうけど、そういうんじゃない!と思った。趣味が見つからないことでさらに病んでいった。 自分でもわかってなかったけど、そもそも趣味がないことが問題じゃない。人生つまらないことが問題なんだと気付いた。 そして「人生 つまらない」とかでまたぐぐってみた。「ネットばっかやってないで外に出ろ」とか「自分から動かなきゃつまらないのは当たり前、甘えるな」とか。こういう回答には腹

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