その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。

中国・北京で民主化を求める学生らを軍が武力で鎮圧し、多数の死傷者を出した天安門事件から6月4日で35年となる。 天安門事件 戦車の前に立ちはだかった男性(1989年6月) この記事の画像(15枚) 1989年6月4日、北京の中心部では戦車が走り、日本人が住む住宅にまで銃弾が飛んでくるなど大きな混乱が起きていた。 民主化を求める民衆を軍が武力で鎮圧し多数の死傷者を出した天安門事件が発生した後、外務省は北京に住んでいた約4000人の在留邦人らに退避勧告を出した。 北京市の中心部を走る戦車や軍の車 1989年6月5日 撮影:尾坂氏 しかし、銀行は閉鎖され現金や航空券を持たない人も多く、突然の大事件に北京の日本人たちは翻弄されていた。 天安門事件当時に全日空の北京市店に勤務していた尾坂雅康氏 当時、全日空の北京支店で営業責任者として勤務していた尾坂雅康さんは天安門事件の直後、超法規的措置を断行し、

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