左翼思想でも右翼思想でもなく、かといってなにか確固たる信念があるわけでもなくて、ただただ極端な思想の人たちを冷笑し続けるだけの人。 別に偉そうにするわけじゃないから一見実害がなさそうなんだけど、議論に首を突っ込んできてその都度矛盾点を指摘しては進行を遅らせるだけ遅れさせておいて、かといって自分の意見を求めても何かを言うわけでもない。 共通して言えることはとにかく責任を負わない。責任を負うようなことをしない。でも人の間違いは生き生きとあげつらうというところ。 恐らくある程度頭の良い人なのだと思うけど、結局なんの役にも立ってないんだよね。 要するにネトウヨ、パヨクの両方を小馬鹿にして自分では何もしない人のことなんだけど、最近勢力を拡大してきてる気がして。 ネトウヨはその人をパヨクだと思いこんでいて、パヨクはその人をネトウヨだと思いこんでるみたいなんだけど、そうじゃない第三勢力ですよっていうこと

blog.tinect.jp リンク先を読み、自主性が乏しいけれども仕事が優れている人っているよね、と思った。 出しゃばらず、言われた仕事はきっちりこなし、上司やパートナーの采配次第では抜群の仕事をやってのける人材が、自主性を求められる状況に直面し、困惑して、メンタルヘルスを損ねて来院する……というパターンは精神科では珍しくないものだった。 今では死語になりかかっている感があるけれども、「メランコリ―親和型うつ病」などと呼ばれていた類型の患者さんのなかには、そういうタイプが少なくなかったように思う。フリーハンドを与えられるまではものすごく重用されて、本人も報われた感触を得ていたけれども、フリーハンドを与えられた瞬間にマゴマゴしてしまい働けなくなってしまうタイプ。そういう患者さんは2000年頃に比べて減ってしまった。ひょっとして、自主性が乏しいけれどもしっかり働く働き手は淘汰されてしまったの

チャリティを、情緒でなく数字で考えたらこうなった!本書『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと』は、ピーター・シンガーがシリコンバレーから広がる新たなライフスタイルの全貌を描き出した一冊。誰がために金を稼ぎ、何のために金を使うのか? そしてなぜ今「効果的な利他主義」なのか?(HONZ編集部) こんな場面を思い浮かべて下さい。あなたの目の前に、栄養失調で死にそうな子供が倒れています。そして、あなたの手の中には、分け与える水も食べ物も十分にあります。それを倒れている子供にあげたとしても、あなたが困ることはなにもないとしましょう。あなたは手の中の食べ物を、子供に差し出しますか? たいていの人はおそらく、「差し出す」と答えるでしょう。私たちの大多数は、目の前で倒れている子供を見殺しにできるほど、自分は残酷な人間ではないと思っているはずです。ですが、本当にそ

深く関わりたくないと思う問題の多くは、善悪二元論に陥りがちなものばかりである。豊洲は安全なのか、そうでないのか。忖度はあったのか、なかったのか。唐揚げにレモンはアリなのか、ナシなのか…。議論を単純化すればするほど、問題は本質から遠ざかる。それなのになぜ人は、かくも簡単に二元論に陥ってしまうのか? 答えを解く鍵は、文法にあった。 通常、我々が親しんできた文法の区分けは、能動態と受動態の二つである。これは全ての行為が「する」か「される」かのいずれかに配分されることを求めるが、前提として意志の概念が存在する。良きにせよ、悪きにせよ、自らの意志で行った行為であればそこに責任が伴うため、善悪の判断の基準になるのだ。 しかし、かつて能動態でも受動態でもない「中動態」なる態が存在していたという。本書は、ある日忽然と姿を消してしまった中動態の足跡をミステリーさながらに辿り、中動態が存在した時代の世界観を鮮

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