被爆80年の企画展「ヒロシマ1945」を見学し、インタビューに答えた吉川晃司さんとの一問一答は次の通り。(金崎由美、里田明美) ―広島出身の被爆2世として、被爆80年の節目をどのような思いで迎えていますか。 世界中で懐疑的な思想や、きな臭さがどんどん増していると感じる。 子どもの時にボーイスカウトの活動をしており、8月6日の平和記念式典に参加していたが、正直言って特別深い思いや考えを持っていたわけではなかった。音楽活動を通して、子どもたちと平和の歌を作るなどしながら、言葉にしたり文字にしたりすることが大事だな、何か担えることがあればできる限りのことをしたいな、と思うようになった。 ―お父様の実家が原爆ドームの対岸にあった吉川旅館ですね。 若い頃は全く知らなかった。父が入市被爆の体験を語ることはなかったが、ここ10年、20年かな、ぽつりぽつりと話すようになった。伝えておかないと、と思うよう

太平洋戦争の激戦地となったフィリピン・レイテ島で生き残った元軍人の方が、かつての戦友を弔うため現地に建てた慰霊碑を撤去している姿が映されました。すでに99歳となり、慰霊碑を維持するのが難しくなったためと言います。番組は、消えゆく戦争の記憶を後世にどう語り継いでいくかを問うものでした。 私の祖父も、フィリピンのレイテ島から生還した一人です。85名いた部隊のうち、生きて帰れたのはたったの2名でした。この悲惨な体験を後世に伝えたいと、祖父は生前、『思い出すまゝに―戦争にまつわる追想記』という小冊子をつくり知り合いに配っていました。終戦から75年を迎えた今日、その内容を公開してみることにしました。なにかしらのご参考になれば幸いです。 ※文中に差別的な表現が出てきますが、あえて原文通りとしました ※読みにくく感じた箇所を多少書き直しています ※プライバシーに配慮し、登場人物のお名前などを一部変更して

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