1.台湾に拠った鄭成功の子孫が1683年まで抗戦を続け、明の命脈を保った。 2.南明に公式な国旗は存在しない。 南明(なんみん)は、明が首都の北京を失ったのち、明の皇族によって1644年から1662年までの間に華中、華南に立てられた地方政権の総称である。 南明の最大勢力圏(1644年11月)(英語) 1644年3月に北京は順の李自成に陥落させられ、崇禎帝は万歳山で自殺した[1][2][3]。副都の南京の官僚は江南へ退避していた皇族の中から新帝擁立を試み、史可法ら東林派は朱常淓(中国語版)を、馬士英ら反東林派の官僚や盧九徳(中国語版)ら宦官は万暦帝の孫の福王朱由崧を推した。結局、史可法らが折れ、5月に朱由崧は南京へ入り即位した(弘光帝)[1][2]。 朝廷では誰を出鎮させるか議論となり、馬士英の推挙で史可法が兵部尚書兼武英殿大学士となり「督師輔臣之印」をもって出鎮した[1]。馬士英は自らの出
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く