この記事の写真はこちら(全14枚) 同賞は、故・向田邦子さんがテレビドラマの脚本家として、数々の作品を世に送り出し活躍してきた功績をたたえ、現在のテレビ界を支える優秀な脚本作家に送られる賞として、1982年に制定。前年度に放送されたテレビドラマを対象に、選考委員がノミネート作品を選定した。 記念品を受け取った三谷氏は「向田邦子さんは僕にとって憧れであり目標。毎回、本を書く時は向田邦子さんのシナリオを読み返して、どうすれば向田さんに近づけるのか考えて書いています」と感慨深げに受賞のスピーチ。駆けつけた『鎌倉殿』のキャスト陣を壇上から眺めて「テレビで見た人ばっかり。本当にうれしいです」とかみしめた。
小栗旬主演の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)が18日に最終回を迎え、トウ役を演じた山本千尋がコメントを寄せた。 トウ役の山本千尋 平安末期から鎌倉前期において、源平合戦や鎌倉幕府誕生、執権政治に至るまでの権力争いを描いてきた『鎌倉殿の13人』。三谷幸喜氏が脚本を手掛けた。 山本のコメントは以下の通り。 【トウを演じ切って】 オリジナルキャラクターでしたので、参考にできる歴史の資料もなく、自分がいったいどういう人生で、どう終えていくのかと想像を楽しみながら現場にいたんですけれども、なんとなく自分で「きっと悲しい結末だろうな」みたいな予想はしていたんです。実際に三谷幸喜さんからも実は、悲しい結末になるということをお伺いしていて「まぁそうだよな」と思っていたんです。でも善児(梶原善)を討ったあと、三谷さんからご連絡をいただいて「トウは希望にしたい」と言っていた

「鎌倉殿の13人」最終回 まさかの“13人”再びタイトル回収 ネット驚愕…頼家の死が重くのしかかり

残す放送も5回となったNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。主人公の北条義時(小栗旬)がダークに、シビアな決断をしていくほど息子である泰時(坂口健太郎)は反発し、姉の政子(小池栄子)も覚悟を決めて自分の考えを主張し始めた。源実朝(柿澤勇人)の後継者問題においても義時は泰時と政子と意見が対立。実朝の気持ちを尊重しようとする泰時や政子に対して、義時は苛立つ。そんなギクシャクした雰囲気で一際コミカルな持ち味を発揮し、愛らしい笑顔で場を和ませるのが、義時の弟の北条時房(瀬戸康史)だ。 2代目鎌倉殿の頼家(金子大地)が存命の頃、蹴鞠の指南役だった平知康(矢柴俊博)に球筋が真っすぐで邪念がないと褒められるほど蹴鞠が得意で無邪気な時房。時連から時房に改名するように奨めたのも平知康だった。 ちなみに、時連から時房に改名したのは第30回「全成の確率」。第30回では、比企と北条の権力争いに巻き込まれて源頼家への

「鎌倉殿の13人 応援感謝!ウラ話トークSP~そしてクライマックスへ~」。劇中は親子の小栗旬(左)と坂口健太郎(C)NHK 今月9日に本編の代わりに放送され、注目を集めたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(日曜後8・00)のトーク特番「鎌倉殿の13人 応援感謝!ウラ話トークSP~そしてクライマックスへ~」(45分)の60分版が、今月17日深夜(18日前2・11~3・13)に放送される。題して「鎌倉殿の13人 応援感謝!ウラ話トークSPディープバージョン」。 【写真】東野幸治「鎌倉殿の13人」“北条家の2人”との笑顔の記念写真? 稀代の喜劇作家にして群像劇の名手・三谷幸喜氏が脚本を手掛け、俳優の小栗旬が主演を務める大河ドラマ61作目。タイトルの「鎌倉殿」とは、鎌倉幕府将軍のこと。主人公は鎌倉幕府2代執権・北条義時。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男。野心とは無縁だ

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「鎌倉殿」トウが復讐「父の敵!母の敵」父母は誰? 同じ修善寺、11年前に目の前で惨殺 拡大 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は28日、第33回「修善寺」が放送された。 伊豆修善寺に送られた二代頼家(金子大地)が北条への激しい憎悪を示して報復を企て、北条義時(小栗旬)が決断を下した。 暗殺下人の善児(梶原善)と弟子のトウ(山本千尋)が修善寺を襲撃したが、このところ心に迷いが出てきていた善児は頼家に斬り返され、深傷を負った。 庭で「しくじった…」と傷を押さえていると、背後からトウが短刀で善児を刺した。 「ずっとこのときを待っていた。父の敵」と再度刺し、もう一度刺して小さな声で「母の…敵…」と涙を流した。 1193年、善児が源範頼暗殺の刺客として放たれた際に、範頼と一緒に農民夫婦が落命したが、娘の少女だけは命を奪わなかったとみられる描写があった。同じ修善寺で11年後の敵討ちとなった。 続きを見

「鎌倉殿の13人」あの善児が涙&拒否!ネットまさかのもらい泣き トウが一幡と水遊び、ブランコの縄は…

「鎌倉殿の13人」はやはり、源頼朝の生前と死後では大きく舞台装置が異なっている。 【大河ドラマコラム】「#鎌倉殿の13人」第27回「鎌倉殿と十三人」三谷大河の本領発揮となった“13人の合議制”誕生 - https://t.co/YXd05eXMwv #三谷幸喜 #佐藤二朗 #佐藤B作 #坂東彌十郎 #宮沢りえ #小栗旬 #山本耕史 #梶原善 #横田栄司 #浅野和之 #野添義弘 #金子大地 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/tVf9JXUy1P— エンタメOVO(オーヴォ)編集部 (@EntameOVO) July 23,2022 頼朝死んで5~6年程度で 死ぬ鎌倉殿の13人に出てくる男面々 「心配するな。別に全員乱が起きて死ぬわけじゃねぇ。1/3程度は病や寿命だ」(三浦義村風に)#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/3WBLY10Wqy— ゲッサー (@sui

自身の正しさ、誠実さを証明することに命をかける生き様から“鎌倉武士の鑑”と称され、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも主要人物として描かれる畠山重忠。史実では北条時政の策謀により事切れた同氏だが、彼はどのように鎌倉幕府と関わった人物だったのか。 ここでは東京大学史料編纂所教授を務める本郷和人氏の著書『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文藝春秋)より一部を抜粋。畠山重忠の乱へとつながる歴史の流れをひもとく。(全2回の2回目/前編を読む) ◆◆◆ 義時、重忠討伐をためらう 「畠山重忠の乱」は、京都で起ったある事件から始まりました。 元久元(1204)年11月に、京都にある平賀朝雅の館で宴会が開かれました。その席で、平賀朝雅と畠山重忠の嫡男・重保が口論になりました。畠山重保も時政の孫にあたり、親類同士でした。内容は伝わっていないのでわかりませんが、些細なことだったのでしょう。鎌倉武士同士の喧嘩

こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、「北条義時と13人の御家人」鎌倉殿の大粛清劇…義時が葬った13人⁉です。 「夢中図書館読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたのお気に入りの一冊を見つけてみませんか? ■歴史人 いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。2022年7月号は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ファンにたまらない特集が組まれました。 それが、保存版特集「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」です。 鎌倉幕府を北条義時はいかに支え、権力闘争を乗り越えたのか…。歴史人2022年7月号 ドラマでは、頼朝が征夷大将軍に就き、まさに前半の佳境を迎えています。 そして間もなくやって来るのが、源頼朝の死…。 これがどう描かれるかも大変楽しみですが、「歴史人」はさらにその先を取り上げます。 頼朝亡き後、鎌倉は

俳優の小栗旬が鎌倉幕府の第2代執権・北条義時を演じているNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(日曜午後8時)に出演することが発表された女優の山本千尋が24日、自身のインスタグラムを更新し、剣を使った演武を披露した。中国武術が特技で世界ジュニア武術選手権で金メダルを獲得したことがある山本はアクションも高く評価されている。この日は「5年以上月日の違う動画ですが、3歳から初めて今も尚思う事は、末永く剣と中国武術とお付き合いしていきたいです」と書き込み、見事な演武の動画を公開。「カッコいいです」「流石です」と絶賛の反応が多く集まっている。 木村拓哉主演のテレビ朝日系ドラマ「未来への10カウント」で強豪ライバル高校の女子部員役を演じ、プロライセンスを持つボクシングの動きも披露した山本は、「鎌倉殿の13人」では梶原善演じる“アサシン”善児に育てられた孤児トウ役での出演が発表されている。

まず、頼朝が平家打倒のために挙兵した理由が、通説とは異なります。 後白河法皇(ごしらかわほうおう)の皇子である以仁王(もちひとおう)が治承4(1180)年4月に出した令旨(りょうじ、皇太子などが命令を下達するための文書)を受けて立ち上がった、といわれます。ですが私は、頼朝に以仁王の令旨は、直接は届いていなかったと思っています。 そもそも以仁王は、頼朝のことを知らなかったでしょう。 頼朝は13歳まで京で過ごしましたが、平治元(1159)年の平治の乱で父・義朝(よしとも)が敗れ、以来、令旨が発せられるまでの約20年間、伊豆で罪人として流人生活を送っていました。そのような人間を、以仁王が知っていたのでしょうか。 仮に知っていたとしても、犯罪者に令旨を出すことなどあり得ませんし、兵を持たない者に挙兵を促すこともあり得ません。 頼朝は令旨のことを、「諸国の源氏に令旨が出た」と触れ歩いた誰かから聞いた

御家人同士の権力闘争はなぜ起きたのか 正治2年(1200)に討たれた梶原景時の場合、彼は頼朝の側近中の側近で、秘密警察的な役割をして讒言などをしていたため、多くの御家人から嫌われていました。 ですから、その結果ともいえるのですが、源頼朝の死後に起こった有力御家人同士の抗争は、「鎌倉殿に次ぐナンバー2に誰がなるか」、言い換えると「御家人筆頭をどうするか」に関わる争いといっていいでしょう。 それを象徴するのが建仁3年(1203)の「比企の乱」です。源頼家の乳母夫だった比企能員と、源実朝の乳母夫だった北条氏とは、直接対決にならざるを得ず、北条時政が比企氏を滅ぼしました。 さらに元久2年(1205)には、頼朝の挙兵以来、武蔵国で大きな勢力を築いていた畠山氏を時政は滅ぼし、相模国と並んで幕府が最も重視した武蔵国に、影響力を広げます。 しかし、その2ケ月ほど後に、実朝を将軍職から引きずり下ろして後妻で

梶原景時終焉の地・梶原景時親子供養塔(梶原山公園・静岡市清水区) 日本史上初の本格的な武家政権である鎌倉幕府では、創設者頼朝の源氏の血統は三代で途絶え、継承されなかった。 その断絶に至るまでの幕府内の権力闘争の歴史を描いた1冊、坂井孝一氏の『源氏将軍断絶』より、二代将軍頼家の補佐として集まった「宿老の13人」について触れた一節をここで紹介する。 ※本稿は、坂井孝一著『源氏将軍断絶』(PHP新書)の一部を抜粋・編集したものです。 宿老の13人 ここでは、頼家を補佐する宿老13人についてみてみたい。武士の御家人が北条時政、同義時、三浦義澄、和田義盛、梶原景時、比企能員、安達盛長、足立遠元、八田知家の9人、吏僚である文士の御家人が中原親能、同広元、善信、二階堂行政の4人、文武のバランスが取れた構成である。 このうち政所吉書始にも出仕した8人が頼家を補佐する主要メンバーといえよう。吉書始に出なか

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