松岡正剛は、2024年8⽉12⽇(⽉)、東京都内病院にて肺炎のため逝去いたしました。⽣前のご厚誼に深謝し、謹んでお知らせ申し上げます。 通夜および葬儀は近親者のみにて執り⾏われましたので、訃報のご連絡も法要後とさせていただきました。何卒ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。 また、誠に勝⼿ながら、ご遺族の強い意向により、ご供花、ご供物、ご⾹典、ご弔電、ご弔問等は固くご辞退させていただきます。何卒よろしくお願い申し上げます。 記 故⼈⽒名:松岡 正剛(まつおか せいごう) ⽣年⽉⽇:1944(昭和19)年1⽉25⽇(享年80) 出⾝地:京都市 死亡⽇時:2024年8⽉12⽇ 午後1時53分 死因:肺炎 なお現時点で⽇時・場所等の詳細は未定ですが、後⽇「お別れの会」を予定しております。 <略歴> 編集⼯学者。編集⼯学研究所所⻑、イシス編集学校校⻑、⾓川武蔵野ミュージアム館⻑。 70 年代に

JRA所属の角田大河騎手が急死 21歳 デビュー2連勝&昨年重賞初制覇も…8月3日から騎乗停止 2024年8月10日 09:01JRA(日本中央競馬会)に所属する角田大河(つのだ・たいが)騎手が亡くなったことが10日、JRAから発表された。21歳。滋賀県出身。 22年3月に阪神競馬場でデビュー。79年栗田伸一、96年福永祐一に続くデビュー2連勝。23年3月には毎日杯で初重賞制覇を果たし、将来を嘱望されていた。 角田さんは1日午後8時30分ごろ、自らが運転する自動車で函館競馬場の馬場内に侵入して芝コースを損傷させた。同競馬場での今年の競馬開催は先月14日で終了したが、以降も調教施設として使用されている。この一件をJRAは「重大な非行」と認め、日本中央競馬会競馬施行規程第148条により3日から裁定委員会の議定があるまで騎乗停止となっていた。 23年5月には、開催日における通信機器・スマートフ

10月19日、俳優の財津一郎さんが14日に慢性心不全で亡くなっていたことを週刊女性PRIMEが報じた。 財津さんは「ピアノ売ってちょーだい!」のフレーズで知られる中古ピアノの買い取りを行う『タケモトピアノ』のテレビCMに20年以上にわたって出演していた。 バラエティー番組『探偵ナイトスクープ』(ABCテレビ)では、赤ちゃんが泣き止むCMとして検証が行われ、実際に100人近い赤ちゃんが泣き止む結果となった。 財津さんの逝去を受けて、タケモトピアノの竹本功一会長に話を聞いた。取材中、涙声でときに言葉を詰まらせながら、話してくれたこととは……。 20年目の節目で契約を終了した理由 ――財津さんが亡くなられたことは知っていたか。 「先ほどニュースで知りました。財津さんと直接は、もう長らくお話しさせていただいておりませんが、財津さんの所属事務所から“元気でゴルフにも行っている”と、ウチの広報から伝え

ハーブ研究家のベニシアさん死去、72歳 「猫のしっぽ カエルの手」2023年06月25日17時54分配信 英国出身のハーブ研究家で、京都・大原での古民家暮らしをエッセーなどで紹介したベニシア・スタンリー・スミスさんが21日午前8時33分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため京都市内の自宅で死去した。72歳だった。葬儀は近親者で済ませた。喪主は夫で写真家の梶山正(かじやま・ただし)さん。 〔写真特集〕追悼2023 英貴族階級の家に生まれ、インドを経て1971年に来日。京都市で英会話学校を開校した後、96年に家族で大原の築約100年の古民家に移り、ハーブや花を育てる日々の暮らしを「ベニシアのハーブ便り」「ベニシアの京都里山日記」などのエッセーにまとめた。NHKの番組「猫のしっぽ カエルの手」や、ドキュメンタリー映画「ベニシアさんの四季の庭」などにも出演。自然と調和したライフスタイルが人気を集めていた。

日経ビジネス電子版で「『ア・ピース・オブ・警句』~世間に転がる意味不明」、日経ビジネス本誌では「『pie in the sky』~ 絵に描いた餅べーション」を連載中のコラムニスト、小田嶋隆さんが亡くなりました。65歳でした。 小田嶋さんには、日経ビジネス電子版の前身である日経ビジネスオンラインの黎明(れいめい)期から看板コラムニストとして、支えていただきました。追悼の意を込めて、2021年11月12日に掲載した「晩年は誰のものでもない」を再掲します。 時の権力者だけでなく、社会に対して舌鋒(ぜっぽう)鋭く切り込む真のコラムニスト。その小田嶋さんがつむぐ1万字近い原稿を、短い言葉でどう表現するか。記事タイトルを短時間で考える担当編集者にとっては、連載の公開前日は勝負の1日でもありました。 再掲載するコラムは療養中の病室から送っていただいた原稿です。「晩年」という言葉やそれを何も考えずに使う社

www.itmedia.co.jp 90歳というのは、人生を終えるのには早すぎる、という年齢ではありません。 『ドラゴンクエスト』シリーズの最新作が発表されるたびに、僕は内心、すぎやまこういち先生の姿を思い浮かべ、どうか先生がずっと『ドラクエ』の音楽をつくり続けてくれますように、と願っていました。 堀井雄二、鳥山明、そして、すぎやまこういち。 この3人のうち、誰が欠けても、それは僕にとっての『ドラゴンクエスト』ではないから。 僕は高校時代、家の近くの『ベスト電器』のマイコンコーナーで、すぎやま先生の音楽をずっと聴いていました。 当時はまだマイコン(今のパソコン)が世の中にようやく浸透しはじめた頃で、そのマイコンコーナーには、新しもの好き、機械好きの人たちが集まっていたのです。 マイコンコーナーでは、さまざまなゲームのデモが流れていて、僕は何時間も、そこで『イース2』や『ザ・スクリーマー』『

ファンの皆様、関係各位 「三浦春馬支援」に関しまして、ご報告させていただきます。 2020年9月4日にお知らせさせていただいておりましたとおり、 弊社では三浦春馬の遺志を継ぎ、本人が「Act AgainstAIDS(現Act Against Anything)」の活動を通し携わってきたラオ・フレンズ小児病院へ、医療サプライの寄贈というかたちでの支援を継続してまいりました。 支援を通じて現地と向きあうなかで、遠方から入院、通院する子どもたちの家族が宿泊できる施設が必要であると感じ、毎年の医療サプライ寄贈に加え、宿泊棟の建設も行ってまいりました。家族用宿泊施設の必要性は本人が病院を視察した際にも感じていたことであり、現地スタッフの方からも声が寄せられていたことでした。 そして建設開始から約1年、ついに建物が完成し、無事に運用をスタートすることがかないました。 これからは、屋外にテントを張り泊

toya.hatenablog.com fujipon.hatenadiary.com 雨宮まみさんの訃報を知って、僕は、二階堂奥歯さんのことを思い出しました。 雨宮さんが亡くなられた原因は自宅での事故死だそうですが、お二人とも若くて、自意識と感性が強すぎて、それを持て余して生きづらさを抱えていた、という印象があるんですよね。 もちろん「違い」が多々あるのは承知のうえで。 ただ、不躾な言い方なのですが、「命を終えることによって、決着をつける」というような生き方のかたちというのも存在するのかもしれないな、とも考えてしまうところもあるのです。 久々に『八本足の蝶』を少し読んでみようか、と思って検索してみたのですが、そこにあったのは、「404 Not Found: ページが見つかりません」という表示でした。 そういえば、niftyのホームページサービスって、そろそろ終わるというのをどこかで見た記

迷ったけど、中途半端に140字を連発して真意が伝わらないのが嫌なので、別の箇所に書いたものをここに転載する。 思い出などは特に書かない。自分のためだけにわがままな文を書く。 腹が立つ気持ちと、悲しい気持ちと、恐怖がかわるがわる訪れる。忙しい。気持ちだけで大変なので仕事などできない、と思いながらちゃんとギリギリのことはやっているので、自分の鈍感さを頼もしく感じながらも憂う。毎日15回くらい泣いている。昨日も起きていきなり泣いてびっくりした。今も泣いている。 昨日は人との仕事が終わったあともう何をしたらいいかわからず、国会図書館からなんとなく歩いた。歩いたら文藝春秋に着き、ホテルニューオータニの華やかな光の前を通り、土手に上って真っ暗な道を歩き、四ツ谷にたどりつき、四ツ谷のロンに初めて入った。喫煙可の表示を見て、思いつきで、吸わないタバコを買って来て吸った。強いものをやっても定着しないだろうと

声優の肝付兼太(本名・肝付兼正【きもつきかねまさ】)さんが20日、肺炎のため死去した。享年80。所属事務所が発表した。葬儀は家族葬にて執り行われた。 肝付さんは1935年11月15日生まれ。鹿児島出身。1979年から2005年まで『ドラえもん』でスネ夫役を務めたほか、『怪物くん』のドラキュラ役や『それいけ!アンパンマン』ホラーマン役、子供向け番組『にこにこぷん』のじゃじゃまる役などで人気を博した。
日隅一雄氏が亡くなった。訃報を受けて、私が最初に心の中でつぶやいた一言は「お疲れさまでした」だった。 享年49、あまりに若すぎる死だが、日隅さんの「闘い」を知る者としては、「お疲れさまでした。ゆっくり休んでください」とホッとする気持ちが先に来たのが正直なところだった。 ジャーナリストの日隅さんは、産経新聞記者から弁護士に転身した変わり種だ。 私が最初に日隅さんと関わりを持ったのは2005年頃、NHK番組改変問題の取材(文藝春秋)でのことだった。 ただ当時の印象は「メディアのことに精通した鋭い弁護士だな」という程度のものだった。その後、いくつかの取材の際に、よく名前を聞く弁護士として記憶していたに過ぎない。 お互いきちんと話をするようになったのは、自由報道協会の設立時のことだった。 2011年、自由報道協会の法人設立の際の連帯保証人のなり手がなく、筆者は途方に暮れていた。フリーランスジャ

1リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く