大本事件(おおもとじけん)は、新宗教「大本」の宗教活動に対して、日本の内務省が行った統制[1]。大本弾圧事件とも呼ばれる。1921年(大正10年)に起こった第一次大本事件と、1935年(昭和10年)に起こった第二次大本事件の2つがある[1]。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本は壊滅的打撃を受けた。また、宗教団体に治安維持法が適用された初の例であった。 明治維新以降、帝国政府(大日本帝国)は宗教に対する統制を強化し、神道系新宗教(黒住教、金光教、天理教等)も教派神道として国家の公認下に入った[2]。一方、明治時代後期に誕生した大本教(事件当時は皇道大本)は、教祖出口王仁三郎の活動により教勢を拡大し、知識人・軍人の入信、新聞社の買収、政治団体との連携や海外展開により大きな影響力を持つようになった[1]。大本教(王仁三郎)の活動に政府・警察・司法当局は危機感を抱き、結果、二度の大
『出口王仁三郎』村上重良 大正11年(1922)4月、バハイ教徒の女性布教師のフィンチとルートが大本教を訪問した。バハイ教は、19世紀末にイランの農民反乱のなかで創唱されたイスラム教系の宗教で、はやく本国を追われ、本拠をアメリカにおいていた。ハバイ教の特色は、世界の諸宗教の本源的一致を説き、宗教間の提携協力を強調する点にあり、国際的活動を展開していた。大本教とバハイ教とのめぐりあいは、前年7月、出口すみ一行が巡教の途中、伊豆の大仁で偶然バハイ教のフィンチらと知り合ったのが発端に、いわば偶然の出会いであったが、バハイ教との交流を契機として、大本教は世界主義への指向を本格的に展開することになった。 『巨人出口王仁三郎』出口京太郎 大正11年(1922)におもしろいできごとがおこる。というのは、伊豆へ旅行中のすみが、三島駅の近くの電車の中で偶然、フィンチというバハイ教徒の米国婦人と親しくなった。
1リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く