私には、自分が全共闘運動の唯一の継承者であるという自負がある。 そもそも私の世代に、全共闘運動をたえず参照しながら自らの進むべき道を探ってきたような人間は、狭い政治運動のシーンにさえ他にほとんど(せいぜい数人くらいしか)存在しないだろうし、しかも単に参照するにとどまらず、全共闘のさらに先へ進もうと志して、なおかつその具体的な方向性を提示しうるにまで至ったのはおそらく私一人だろう。 そんな確信を深めているところだったから、『悍』創刊号に掲載された千坂恭二「一九六八年の戦争と可能性」にある、「プレ・ファシズム性こそが、この運動(全共闘運動)の最大の思想的遺産でもある。つまりファシズムの自己肯定を経過しない思想は、この運動以降には到達出来ないということでもある」との記述は、ますます私を天狗にさせている。 全共闘を意識して以来10余年に及ぶ試行錯誤の末に、5年ほど前、私はファシズムへの「転向」を宣
袴田ネット通信 http://www.hakamada.net 2003年3月15日号外(面会実現特別号) 12年ぶり!! 弁護団と保坂衆議院議員と 袴田さんとの面会が実現しました。 少しずつ重い扉が開きだした 保坂展人(社民党 衆院議員) 今回、『次世代政治家活用法』という本を出しました。国会議員を6年やって、しんどいことも苦労もありますが、「議員でよかった」と思う瞬間が年に4~5回はあります。わけても、昨日は心底から「物事の本質」をこの目と耳で確かめるという体験をしました。東京拘置所に袴田巌さんという確定死刑囚を訪ねたのです。 袴田さんは、元プロボクサーでした。一家を惨殺して放火したという容疑で逮捕されましたが、証拠もずさんで早い時期から冤罪事件であると救援運動が起きていました。死刑判決が降りてから、東京拘置所で確定死刑囚として無罪を訴えてきました。現在は、東京高裁に再審請求中であり
南アフリカ最大の都市ヨハネスブルクのアパルトヘイト博物館内、死刑のホールに展示される絞首刑用のロープ〔AFPBB News〕 2007年秋の、とある日の朝、私は霞が関の法務省を訪れました。行き先は大臣の執務室、福田康夫政権で再任されたばかりの鳩山邦夫法相が「死刑執行に関する勉強会」を開くということで、そこに團藤重光教授のメッセージの代読に呼ばれたものでした。 引率してもらったのは現在は世田谷区長を務める保坂展人さん、当時は衆議院議員で「死刑廃止議連」の事務局長をしておられました。 私はあくまで團藤先生のメッセンジャーボーイで、死刑の問題や死刑廃止運動で闘ってこられた歴戦の勇士の方々とは比べるべくもありません。 とはいえ、東京大学の教官ということもあり、一定の役割を果たす必要があることは自ずから知れました。 鳩山氏は法相就任直後に「死刑執行エスカレーター発言」(これは、死刑が確定したらエスカ

人口87万人の世田谷区長に就任する朝がきた。東日本大震災、そして原発事故が続く中での立候補の決意、そして選挙があった。余震も頻繁にあり、原発事故の収束も見通しがつかない緊張感を強いられながら、私たちは明日の扉をひらかなければならない。何が始められるのか、具体策を次々と方針を打ち出す前に区民の皆さんと区職員の皆さんの声をじっくり聞いてみたい。 今回の区長選挙結果の報道は「原発問題」が一点で焦点化したが、私の政策の土台には「情報公開と区民参加」を掲げていた。お役所然とした行政組織ではなくて、区民の使いやすい「道具」にどう変革していけるのか。また、「地域の問題はみんなで解決する」ことが定着して、「お互いの顔が見える街」となることで災害時の救援や被害からの再生力が強い世田谷区にしていこうと訴えた。最後の決断はトップがするが、区民と区職員からの提案・提言が日常不断に潤滑に行なわれるようにしたいと思う
世田谷区長選挙、区民の良識の勝利。 4月24日投開票の世田谷区長選挙で、激戦の上、当選させて頂きました。応援してくださった多くの皆さまの日夜を分かたぬ支援に勇気づけられました。また、従来の政党の枠組みが壊れる中、世田谷区(東京6区)を地元として長年にわたり国会活動をしてきた私への評価と信頼を、多くの区民・有権者の皆さんから頂けたことを、今後の何よりの励みといたします。 今回の区長選挙で私を擁立したいとの打診があったのが、3月31日。区内の都市再開発や環境問題、教育・子ども問題などで活動する人々約50人から「立候補要請」を受けたのが4月2日でした。3月11日の東日本大震災と原発事故を受けて、私自身の価値観も大きく揺さぶられました。3月26日には、福島第一原発から20~30キロの「屋内退避」圏外に指定されて「陸の孤島」になりつつあった南相馬市の桜井市長を訪ねました。 原発事故の重大化にともない

本日午後2時、北沢タウンホールの12階で記者会見をしました。記者・支持者・区民70人の前で「世田谷区長選挙立候補要請を受けて1週間かかり決断しました」と抱負を語りました。会見は1時間に及び、記者や参加者から活発な質問が出ました。 昨年秋から何度か世田谷区長選挙に立つように求められてきました。当初、衆議院議員3期11年の場で培った経験を国政の場に戻ることで生かしたいという理由で、区長候補と目されるのは光栄としながらも固辞してきました。 3月11日午後、激しい揺れが東京を襲いました。大地震による大津波が言語を絶する被害を生みました。私は、東北・宮城県の生まれです。地震の晩、帰宅困難者となって都心の出版社にいた私は、「福島原発の異変」のニュースに背筋が凍りました。 それ以来、地震と原発事故の緊張と恐怖が東京を包みました。停電が始まり、交通機関が乱れ、すべてが停滞する中で、この災難に立ち向かってい
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