たろう🛜 @tweetaro2020 那覇の三原のコンビニ駐車場で電話してたら、オバァが運転席窓の前に立つから窓開けたら『すいません、今日退院したんだけどお家まで送ってくれませんか?タクシーが捕まらなくて。』 とりあえず電話切って『いいよ、乗って乗って!』って重たい荷物とオバァを持ち上げて乗せて、言われたアパートまで着いて、2階だって言うので荷物を2階に置いて、階段上がってくるオバァが『ありがとう、ありがとう、本当にありがとう。』って拝みながら1000円札を渡そうとするので『そういうのいらないいらない🤣』って言う私と何としてでも渡そうとするオバァ👵。 私の手を掴む力の強さに若干びびりながら、何とか振り解き『身体気をつけてよ🙋🏻♂️』って階段を降り始めたら、1000円札を投げられた。。 その後もずっと『ありがとう、ありがとう』と唱え続けるオバァに泣く泣く1000円札拾って階段を降

きっかけ はじめてアプリを使った。田舎の片隅で20ちょいの年数を生きてきて、彼氏欲しいな〜って思ったこともあったけど、嫌な思いもしたのである時から興味を持つことをやめた。私の好きなものは推しと推しカプとBLで、お金も仕事も自信ないし、いずれ適当に死のうと思ってその日その日が過ぎるのを淡々と待っていたから。 些細なきっかけでした。 それはTwitterのフォロワーがマッチングアプリで男漁り(言い方)をしてるのを上げていたから。 そのとき私は気付いた。(私もマッチングアプリが使える年齢じゃん)と。そう思ったら俄然興味が湧いてきた。話のネタになればなーって思って動いた。 とりあえず顔面登録しなくても使えて、漫画とアニメと、もうオタク感満載のプロフィールを適当に。 地方都市で人口が少ないからか色んな人とマッチングした。歳上、歳下、みんな趣味は似てたけど、タメ口だった。なんならヤリモク(性行為目的)

To Read in English, click here. 3年前の今頃、僕は文字通り、9時5時の仕事をしていた。 いや、実際は5時3時だった。朝5時から午後3時までの仕事だったんだ。 それは2020年、マイナーリーグのシーズンがキャンセルされたあとのことだ。僕はフロリダのジュピターで行われていた春のキャンプから、エルセグンドの実家に戻っていた。最初は本当に最高だったよ。目が覚めたらボールを投げて汗を流し、友達のアンジェロとチップス(本名はジョン)と一緒に南カリフォルニア大学へ行ってね。キャンパスの近くにクルマをとめて、USCトロージャンズのバッティングケージに忍び込んで。警備員の目を盗んで、GoGoGo! とフェンスを飛び越え、壁の隙間に入り込んでさ。楽しかったよ。 ところがある夜、バッティングの練習から戻ってくると、両親から座るように言われ、彼らはこう切り出した。「いいかい、あ

18歳でエステティシャンになって気付いたら23歳になってた ふと、こんな給料良いわけでもなく社会的地位も低い仕事やだなあと思い その日から勉強始めて1年後ITエンジニアに転職した ちょうどコロナが始まったくらいだったからめちゃくちゃタイミングが良かった 最初はそれはもうほぼ毎日泣いたし自分が無力すぎるのに周りの人は優しすぎるのが情けなくてさらに泣いたけど 慣れたらめちゃくちゃ楽しくなったし契約社員から正社員になれてエステティシャン時代から給料は倍近くなったし在宅勤務楽だしで最高だ…と思ってた しばらくすると、自分がエステティシャンやってたこともなんだか恥ずかしくて経歴を隠すようになってた オンライン会議とかで人の顔見てすぐ、(この人顔のここの筋肉凝ってるなー…)と思う自分も嫌だった そんな感じだったんだけど、コロナがおさまり始めたから出社したとき 大好きな先輩が「なんか自分のマスクの下の顔

まずは、僕が野球を嫌いになりかけた話から始めさせてください。 幸運にもプロ野球選手になれて、好きなものを仕事にできて、それなりに1軍で結果を残せて。満ち足りた野球人生を送らせてもらいました。 でも、結果的に現役最終年だった2020年、僕はあんなに好きだったはずの野球が嫌いになりかけていました。調子がよくても、結果を残しても使ってもらえない。1軍に上がるのは若い選手ばかり。プロ9年目、31歳になった僕も「これがプロの世界だ」と理解していたはずでした。 元プロ野球選手の就職活動 最初に頭に浮かんだのは家族のこと。僕には妻と息子、娘の家族がいます。現役時代は家族との時間が取れなかったので、半年近くは仕事もせずに家族サービスの時間にあてました。一緒に買い物に行ったり、娘の幼稚園の送り迎えをしたり、息子の学校行事に参加したり。 それはそれで楽しかったのですが、さすがに仕事をしないと家族を養えません。

姉から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分の意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟だからなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。 ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院に入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。 医者からは一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。 「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」 とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に

10年以上前の話。友達の家のあたりで遊んでいたら、大型犬がリードもつけず歩いているのを発見した。 野良犬なんて滅多にいない時代だったし、飼い主らしき人もどこにもおらず、二人で迷子だろうと結論付けた。 小学校高学年あたりだったけど、隣に並んで立つと私の腰くらいの大きな犬だった。犬が立ち上がれば私と同じぐらい、いやもっと大きいかもしれないと思った。もうあまり覚えてないけど毛並み的にゴールデンレトリバーぽい感じの犬種だったと思う。 笑顔に見える人好きのする顔で、全く吠えず人懐っこい犬だった。 よく吠えられるせいで犬に近寄れない私でさえ怖がらず撫でることができた。 首輪をみると名前しか書いておらず、悩んだ私たちは交番まで連れて行くことにした。 なのに、犬は道がわかっているかのようにスタスタとどこかへ歩き出した。まるで私たちがついてきてるか確認するように振り返りながら。 私たちは好奇心でその犬につ

ローテーブルの前で片膝を立てて、僕はネタを考えていた。 無音にしたテレビ画面には、津波の映像や、悲しみに暮れる人々が映っている。 東日本大震災から、数日が経った夜だった。 ゴールデンウィークに単独ライブを控えており、そのチケットはすでに発売されていた。 僕はその台本を書かなくてはならなかったが、どうにも集中することができないのだった。 こんなときに、自分はいったい何をやっているんだ? いま「面白いこと」を考えるなど、許されるはずがないだろ——。 いっそテレビを消してしまえば、いくらか現実を忘れられるのかもしれないが、僕にはそうする勇気も持てなかった。 このまま当日を迎えたら、一番困るのは自分だ。何より、チケットを買ってくれた人たちにどんな言い訳をするつもりなんだ? そんなふうに自分に言い聞かせながら、目の前に広げられた大学ノートを睨んだ。そこに書かれたコント設定やセリフの断片を、頭の中で膨

共通の女友達が夕方私の家に来て、そのあとに彼が来て3人で鍋をした。 なもんで、その日の朝方、みんなが来る前に部屋を片付けているときは 「ベッドの下に隠しておけばいいか」と思ってしまったのだ。友達とベッドに入ることはないから。 彼が泊まるなら、彼が風呂でも入っている間に いつも通りクローゼットに隠せばいい。 そう思ってしまったのだ。 自らシーツをめくって彼に披露してしまうぐらい、 私はこんなにもウッカリ者だというのに。 ぬいぐるみこと、わんころべえとは、恐らく小学校2、3年生からの付き合いだ。 近所の小さい夏祭りのバザーで売られていた犬のぬいぐるみ。 別に某漫画のキャラクターでもなんでもなくて、本当にただの犬のぬいぐるみ。 白くて茶色い垂れ耳、茶色のリボンを雑に首に巻かれた、 当時から既に「少し古い印象」が漂うぬいぐるみを、 私はわんころべえと名付けて大切にした。 毎日一緒に寝た。 怖い夢

短いサクッとバージョンもあります 絶好調のゲームアプリ「ウマ娘 プリティーダービー」に登場する個性的なキャラの〝本家〟である競走馬の伝説を東スポで振り返る第2弾は、ゲームやアニメの中で常に張り合う同級生のルームメイト、ウオッカとダイワスカーレットにスポットを当ててみます。 ウオッカはカッコ良さを求める不良気取りのウマ娘。スカーレットはかわいさを求める優等生。タイプは違いますが、互いに超がつく負けず嫌いで、アニメで「何のために走ってるの?」と聞かれたときに、互いに「こいつに勝つため!」と答えたときは笑いました。とはいえ、火花バッチバチの合間に、ウオッカがふざけて真面目すぎるスカーレットをいじったり、漫才みたいな微笑ましいやり取りをしたりするので、多くのファンに愛されています。 そんな2頭は、実際にどんなバトルを繰り広げたのか…5回あった直接対決を振り返ってみましょう。改めて調べてみると、一緒

拾ったねこなので誕生日とかもわからないのだけど、20年前にボロボロのこねこを9月に拾った時に多分生後3ヶ月くらいだった。ということで毎年6月に健康診断と血液検査をすることにしているので、今年も行ってきた。 昔はワクチン注射もしていたけど、17歳の時に室内一匹飼いだし、老ねこには負担にもなるので。と先生がおっしゃったので注射はしなくなった。 幸いなことに腎臓の数値はまだそこまで悪くない。毎年ちょっとづつ減ってきた体重も今年は減らなかった(といっても2.7キロしかないやせっぽちだけど)。 ひと一人ねこ一匹の暮らしなので、平日の日中は20年間ほぼ留守番させていたのだけど、3月から在宅勤務になって今も継続しているので、これまで経験したことのないような距離感でねこと暮らしている。まあ、老猫なんでほぼ寝てるのだけど。 カリカリは常に出しっ放しだったけど、今までは朝と夜しかあげられなかったパウチのウェッ

(前回のご報告)https://anond.hatelabo.jp/20201224131256 拾ったねこなので誕生日とかもわからないのだけど、ボロボロのこねこを20年前の9月に拾った時に多分生後3ヶ月くらいだった。ということで毎年6月を誕生月ということにしているので、なんとあと2ヶ月で21歳ということになります。この一年でかなりまえ足あと足が動きづらくなったご様子ですし、耳もだいぶんと聴こえづらいように見受けられますが、いたって元気にこの冬を越えられたことをことほぎ、増田に駄文をしたためたいと思います。 20年以上続いたねこ一匹ひと一人の生活ですが、とくにここ一年続いているリモート勤務のおかげでねこと増田との距離感も随分と変わったように感じます。彼女にしてみれば、昼夜問わずとにかく要求すれば何らかのリアクションが返ってくるのが心地よいのでしょう。もはや、自分がいま大声で要求しているもの

無印良品のビーズクッション(通称:人をダメにするソファ)を実家リビングに置いた。 一人暮らしで長く愛用していたためにくたびれているが、常に家族の誰かしらが使っている。 母はお菓子を食べながら、 父はいびきをかきながら、 妹はスマホをいじりながら。 そして、人間が誰も座っていない間は犬が寝そべっている。 遠慮がちな性格をしているので、人間が使っている間は近寄ってこない。 しかし確認を怠ることはなく、空席になるとそそくさと乗りに行く。 「間違ってもここでトイレをするな。穴掘りも禁止。」と初日に言い聞かせたおかげか、粗相も穴掘りもせず、 人間がつけた凹みに沿ってゴロンと寝転んでいる。 粗相はともかく、犬の習性でありしつけには難しい穴掘り(寝床を整えたいらしい)がひどいようなら、 設置場所を変えようと思っていた。賢い犬で助かった。 体重3kgのトイプードルにとっては、この無印ビーズクッションはかな

座右の銘は常在ツイッター、@SHARP_JPです。常在ツイッターとは「常にツイッターにいる心構えで事をなせ」と、われわれを諭す格言ですが、私がいま考えたのでぜんぶ嘘です。そんなもんです。 座右の銘は嘘ですが、私はいつも(仕事で)ツイッターにいるわけで「常在ツイッター」というのも、あながち嘘とも言えない気もしてくる。そしていつもツイッターに身を置いていると、やがて見えてくるのは「生きるのがしんどい」という、世間の、みんなの、空気だ。 企業アカウントという性質上、さまざまな人をフォローすることになるから、私のTLは脈絡のない言葉が奔流のように流れる。そうするうちにいつしか私は、「死にたい」という文字列を含んだツイートがいかに多いか、認識するようになった。いまや私は、おどろくほど、ほんとうにおどろくほどたくさんの人が、それぞれの状況でなんらかの生きづらさを抱えているという、確信めいた感覚がある。


私の家で友達とお菓子を作った。2月13日、バレンタイン前日のことである。 もう夏だって?うるせえ書き溜めてたメモを発見したからいま投稿すんだよ。 私を入れて4人、その中の2人は数ヶ月前に彼氏ができたばかりだった。一人をAとしよう。 クリスマスイブに告白され、なんやかんやで後日付き合い、バレンタイン当日に彼氏の家に泊まりに行くというAとその彼氏を「イベントに乗っかりすぎじゃね?」とからかった。 私たちのグループはとても下品で、よく下ネタを話していた。ちなみに全員処女である。Aに彼氏ができてからはよく彼氏の下半身の話をよくした。まあ、有り体にいうとち◯このことだ。 わたし「一人で致す時でさえ指二本も入らんのに、ちんこなんか入るのか?」 A「いやほんまにそれすぎる……しかもあいつ(彼氏)のブツはかなりでかいっぽいしどうしたらいい?」 わたし「普段でそれだと臨戦体勢になったらどうなるんや……」 身

もしあの出会いがなかったら、運が悪かったら、これまで20年以上も、営業という仕事をやってこられなかったと思う。新卒で入った会社で営業部に配属してからの半年ほど、まったく結果が出なかったので、継続的に結果を出せるとはとても想像できなかったのだ。当時はインターネットで情報を集められなかったし、今のように営業スキルを教えてくれるような書籍もなかった(有名経営者の立志伝はあった)。会社の上司や先輩からは、足で稼げ、名刺を配れ、見込み客を増やせるだけ増やせ、と言われただけ。具体的に何をすればいいのか教えられなかった。新人もライバルの1人と見る風土があった。 当時、顔を出していたスナックで、時々見かける初老の男性がいた。彼はいつも一人で静かに飲んでいた。ママからは保険の営業マンだと教えられた。何十年もその道の新規開発営業でやってきた人だと。その頃の僕は、まったく結果が出せずに自信を喪っていた。仲の良か

残念ながらブスに生まれ、さらに小学生にしてオタク。 5年生のとき、当時の自分の中で精一杯のオシャレだったヘアピンを「似合ってない」「調子こいてる」「きもい」とクラスで馬鹿にされてから、『オシャレ』がトラウマになった。 今思えばくだらないことだが、あのときの私にとってはそうでなかった。小学生の私にとって学校は全世界だった。 だからさらに地味な服を着るようになった。好きだった花柄のシャツも着なくなった。気に入っていた髪飾りもつけなくなった。 オシャレをして攻撃されるのが怖かった。ブスで似合わないから、ブスが着飾っても見苦しいから、オシャレしてはいけない、資格がないと思うようになった。 その状態から全然成長できなかった。 中学、高校、大学ととにかく身なりに気をつかわなかった。髪は真っ黒モサモサひっつめ。所有するスカートは制服のみ。私服はジーパンにヨレヨレパーカー。化粧はおろかスキンケア皆無。眉は

photo by Dani_vr 大学時代の友人Tが、事情があって無職になったのが2年前のことだ。 僕とほぼ同い年で、彼が52歳か53歳の時だ。 子供が巣立っていれば、あまり深刻に考えずともよい年代なのかもしれないけれど、高校生だか大学生だかの娘さんがふたりいてその学費が必要だし、家のローンも残っていて生活を縮小するだけではやっていけないという。 当初、Tは再就職しようとして活動した。 が、その年齢でそれなりの給与の職を得るのは難しかったらしく、否応なしに起業に追い込まれた。 そして、「蕎麦屋をする」と言いだした。ある蕎麦屋に弟子入りし、僕や大学時代の友人たちに自分で打ったそばを送ってきた。 僕は心配でたまらず、もちろん蕎麦屋も素晴らしい仕事だが、Tのおかれている事情では、やめたほうがいいとアドバイスした。そして、こんな記事を書いた。 やめろよ!と言いたくて言えない、蕎麦屋開業 - ICH

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