リモノフ エマニュエル・キャレール 中央公論新社 2016Emmanuel Carrère Limmonov 2013 [訳]土屋良二 編集:郡司典夫 装幀:細野綾子 協力:沓掛良彦 エドワルド・ヴァニアミノヴィチ・サヴィエンコ。政治名また筆名はエドワルド・リモノフ。 作家・政治家として知られる以前の謎と噂が囂(かまびす)しくて、実像がなかなか掴めない男である。面と向かってプーチンに対決できる唯一の男と言い立てられてからも、テロリスト、国籍剥奪者、カウンターカルチャリスト、ネオファシスト、パンクな革命家、自暴自棄の作家、最後のトロツキスト、単なるならず者などという、実情がさだかにならないレッテルばかりが先行した。ぼくが「遊」をつくっていた70年代後半では、ただ一言「赤いリモノフ」あるいは「ロシア・アナーキーのデヴィッド・ボウイ」と聞くだけだった。 先だっての2020年3月20日に亡くなっ
作家としてのリモノフは徹底したシニシズム(冷笑主義)に貫かれた作風を得意とし、また自身の亡命経験を生かした回顧録なども執筆している。ロシア帰国後はモスクワの英字新聞「ザ・エグザイル」の記者として寄稿しており、アメリカに長期亡命していた経緯から英語に熟達する機会があったものと考えられる。一方で「強いロシア語訛り(ロシアン・イングリッシュ)」であるとも指摘されている。 リモノフの寄稿する記事は殆どが政治的内容だが、しばしば「野心のある若者への助言」など人生相談的な記事も執筆している。政治新聞「Limonka」を手に演説する国家ボリシェヴィキ党の党員。 1991年、ソ連崩壊後に故郷へ戻ったリモノフは新生ロシアの混迷に対してアレクサンドル・ソルジェニーツィンのように幻滅してかつては反対したソ連に対する評価を改めた。ロシア語で手榴弾を意味するスラングであるレモンの名を冠した政治新聞「Limonka
イラクリ・グドゥシャウリはスラヴ・ギリシャ・ラテン・アカデミー(ロシア語版)を卒業後、「イリア」の名の下に叙聖され、1957年に修道輔祭、1959年に修道司祭となった。1960年にモスクワ神学アカデミー(ロシア語版)を卒業すると、ジョージアへ戻り、1960年にバトゥミ大聖堂で司祭となった。1961年に典院、その後掌院に昇叙。1963年8月26日、バトゥミおよびシェモクメディ(英語版)の主教に叙聖され、また総主教代理に任命された。1963年から1972年までムツヘタ神学校の初代学長を務めた。この神学校は、当時のジョージアで唯一の聖職者教育機関であった。 1967年、イリアはスフミとアブハジア(グルジア語版)の主教に叙聖され、1969年に府主教に昇叙。 1977年11月にジョージアのカトリコス総主教ダヴィト5世(グルジア語版)が死去すると、1977年12月25日にイリアが新しいジョージアのカト

中井 木菟麻呂(なかい つぐまろ、安政2年6月11日(1855年7月24日) - 昭和18年(1943年)3月25日)は漢学者であり正教徒。号は天生。聖名はパウェルであった。中井桐園の長男として懐徳堂内に生まれる。 自身が14歳の時に閉校された懐徳堂(重建懐徳堂)の再建に尽力すると共に、ニコライ・カサートキンを助けて日本正教会のために、聖書や、正教会の各種祈祷書の翻訳を行う中心人物の一人となった事でも知られる。日本における正教会の奉神礼の基礎を固めた一人であり、戦後、重建懐徳堂は、新制大阪大学に受け継がれたという意味で、大阪大学文系の源流を作った一人としても評価できる(戦前の大阪帝国大学は緒方洪庵の適塾を源流とする医学・理学・工学系のみの大学であった)。 日本正教会訳聖書の翻訳はのちに亜使徒として列聖されたニコライ・カサートキンと、パウェル中井木菟麻呂が中心になって行われた。聖書翻訳事業の

アメリカ合衆国、モンタナ州ミズーラで、牧場主と教師の子として生まれた。 1902年モンタナ大学卒。1908年に社会奉仕活動の経験を始めるきっかけになったニューヨークに移住。その後シアトルのワシントン大学に入学し、初期の選挙権運動に参加。モンタナ州での女性参政権容認に重要な役割を果たしたうちの一人といえる。 1916年11月7日、下院議員に共和党から出馬して、モンタナ州選出議員として当選。1917年3月4日に初登院した。1年もしないうちに第一次世界大戦への参戦を決める議決において、彼女は他の55名とともに反対し、新聞などで非難された。戦争には反対したものの、戦費調達のための自由公債を購入し、また徴兵令には賛成した。1918年、共和党上院議員候補の指名を受けようとしたが得られず、無所属候補として立候補したが落選。その後約20年間、ワシントンD.C.でロビイストとして活動した。 1940年、反戦

北畠親房が『神皇正統記』を書いたのは、常陸の筑波山麓にたつ小田城の板の間でのことだった。同じころ吉田兼好が『徒然草』を書いていた。二人の執筆の姿勢はまことに対極的で、親房は日の本を背負い、兼好は草の庵を背負っていた。14世紀になってしばらくのこと、内乱の時代の只中である。 しかし、親房と兼好とがまったく逆の世界を見ているのかといえば、そんなことはない。二人とも同じ社会の流れを凝視した。同じ日本人の気の振舞を凝視した。二人とも日本の将来を憂い、二人とも無常をぞんぶんに知っていた。 ただ、二人には大きな違いもあった。親房は動きまわった人であり、兼好はじっとした人だった。親房は権力の側にいて、兼好は権門に背を向けた。 親房が『神皇正統記』を筑波くんだりで書いたというのも、このとき親房が小田城を拠点にして、南朝のための東国工作に従事していたからだ。そのころ南朝の勢力はそうとうに逼迫しつつあって、な

ケレスティヌス5世(Caelestinus V, 1210年頃 - 1296年5月19日[1])は、中世のローマ教皇(在位:1294年7月5日 - 12月13日)。修道士として有徳の人であったが、教皇空位の混乱を収拾するために政治的に一時的に「つなぎ役」の教皇として選出された。しかし教皇の座を厭い、在位約半年で自ら退位した[2][3]。イタリアのイゼルニア出身、本名はピエトロ・ダ・モローネ(Pietro da Morone, モローネのピエトロ)である。 1209年から1210年頃にイタリアのイゼルニア(現モリーゼ州イゼルニア県)にて、小作農の家に生まれたと考えられている[2]。若くしてベネディクト会の修道士となり、禁欲主義を貫きながら隠修士、司祭、修道院長などを歴任した。その後、修道院を離れ苦行に耐えつつ隠遁の生活を続けながら、貧者や病人の世話に専念する修道会(のちのケレスティヌス修道会
アレクセイ・ホミャコーフ(1842年) アレクセイ・ステパノヴィチ・ホミャコーフ (ロシア語: Алексей Степанович Хомяков, Aleksey Stepanovich Khomyakov, 1804年5月1日 – 1860年9月23日もしくは9月25日) はスラブ派の論客として知られる、ロシアの詩人・批評家・神学者・哲学者。モスクワを中心に活躍した。 大地主で、モスクワ大学物理数学部卒業後、論文『古きものと新しきものについて(O starom i novom )』(1839年)を書き、スラヴ派の哲学を初めてロシアで展開。また、『曙(K zare )』(1827年)、『霊感(Vdokhnovenie )』(1828年)などロマン主義的・宗教的な叙事詩も残している。 ホミャコーフの全生涯はモスクワを中心に送られている。彼はこの「千の丸屋根を持つ街(モスクワ)」を、ロシア
「ショーンK」ことショーン川上氏(56)が、4月24日開催の千葉県「君津商工会議所 創立30周年記念事業」の講演会に登場することが4日、分かった。 日刊スポーツの取材に対し、君津商工会議所はイベントの開催とショーン川上氏の登壇を認めた。 場所は君津市民文化ホールで料金は1000円(全席自由)。開場午後2時30分、開演は同3時。 ショーン川上氏は16年3月に経歴詐称問題を報じられ、フジテレビ系報道番組のキャスターを放送開始前に降板していた。 自身の公式サイトで自身のプロフィルを昨年8月1日付で更新。現在は経営コンサルタントで、「金融、製造業、ハイテク、情報通信、産業財、メディアなど大手から中小零細、ベンチャー企業まで約720社(1995~2023年1月末)、日系・外資問わず様々な事業領域における経営・事業課題に対する分析、戦略立案、実行支援業務に従事」とある。他にも「自身が企画提案、放送開始

ドイツのネオナチ活動家、ウルスラ・ヘードヴィヒ・メタ・ハーバーベック=ヴェッツェル(ウルスラ・ハーバーベック)氏が2024年11月20日にお亡くなりになられました。96歳でした。 Germany: Inveterate Holocaust denier Haverbeck dies at 96 – DW – 11/21/2024 世間的には「ナチスばあちゃん」としてよく知られており、かなりの高齢でホロコースト否定の主張を公に行って、逮捕を繰り返していた人として有名でした。刑法の民衆煽動罪の条項にきっちりジェノサイド否定の禁止を謳う項目のあるドイツで堂々とホロコースト否定の主張を行う人でした。 日本ではハーバーベック氏の逮捕がニュースになると、「何もそんな高齢の人まで逮捕しなくとも良いのに」という反応が多かった様に思われますが、推測ですけれど彼女もそう思われることを狙っていた様にも思えます。

ナサニエル・セイヴァリーの墓碑 (父島・大根山墓地) ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory、日本名:瀬堀 南山〈せぼり なんざん〉、1794年 - 1874年)は、初めて小笠原諸島に移民したとされるアメリカ人で、日本領有時に父島に居住していた欧米系島民開祖の一人。ナザニール・セボリーまたはナサニエル・セーボレーとも。 ナサニエル・セイヴァリーの直系子孫達。左から長男ホレイス、曾孫モーゼス、孫アイリーン・ワシントン、三男ベンジャミン、孫ジェーン(1927年撮影) 1794年、アメリカのマサチューセッツ州ブラッドフォード(英語版)に生まれた。1810年代から船員として働き、その後イギリスの商船に乗り組んでいた[1]が、1829年、船がホノルルに入港した際の事故で右手指を負傷し、治療のため下船した[1]。ハワイでの療養中、イギリス領事のチャールストンが小笠原諸島への入植計画
トマス・ミジリー・ジュニア(Thomas Midgley,Jr.、1889年5月18日 - 1944年11月2日)は、アメリカ合衆国の機械技術者、化学者。 米国でTELとよばれるテトラエチル鉛を添加したガソリン(ハイオク有鉛ガソリン)、および海外ではフレオンとして知られているフロン類(クロロ・フルオロ・カーボン(CFC))など含め、100を超える特許を取得している。生前、その発明は賞賛されていたが、今日、その発明が環境問題の主要な原因と判明していることから、現在の評価はおおむねマイナスである[1]。例えば、環境歴史学者のJ・R・マクニールは彼を「有史以来、地球の大気に最も大きな影響をもたらした生命体」と評価し[2]、作家のビル・ブライソンは「すごいほど残念な才能を持つ」と評価した[3]。 ミジリーは米国ペンシルベニア州ビーバー・フォールズに生まれる。父もまた発明家であったオハイオ州コロン

三島由紀夫は日本を代表する文豪・憂国の士といわれるが、過大評価され過ぎだと思い、所感を書いておく。 駄作が多すぎる三島由紀夫はかなり多作な作家で、小説・戯曲だけでおそらく200作を超える。 新潮社の三島由紀夫全集はバカデカサイズの全42巻からなり、通読した人間は三島の専門家くらいだろう…専門家すら怪しいが。 なぜならあまりにしょーもない作品が多すぎるから。 三島由紀夫といえば金閣寺。少し落ちるものとしては仮面の告白、潮騒、美徳のよろめき、鏡子の家、憂国、豊饒の海がある。 しかし他の95%の作品は・・・? 私は三島由紀夫が好きで、小説だけでなく戯曲を含めて結構読んでいる方だと自認しているが、若者がつまらぬ観念を語るだけの作品、あまりに紋切り型の恋愛作品が多すぎて、読むのが時間の無駄・苦痛だ。 打率の低さは擁護しきれないほどである。 三島由紀夫vs東大全共闘2021年に『三島由紀夫vs東大全共

電撃ネットワークの南部虎弾が、1月20日、脳卒中のため亡くなった。南部虎弾は伝説級のエピソードに事欠かない人物だったが、それらについて本人の口から語られた例は少ない。そこで、初期の頃から南部と共に活動していたギュウゾウとダンナ小柳に、南部虎弾の伝説を大いに語ってもらった! 聞き手はおなじみの吉田豪。『実話BUNKA超タブー』2024年5月号掲載版よりも原稿の分量が多い、豪華バージョンでお届けします! かなりの変人でしたからね ――先日亡くなった南部虎弾さんの追悼対談ということで、電撃ネットワークの初期メンバーのお2人に集まっていただきました! ギュウゾウ まさかこういう状況になるなんて思ってなかったよ、ホントに……。 ――ボクは南部さんとは昔から交流はあったけどちゃんと取材したことはなくて、でもやっぱりかなりの奇人なのは間違いないから、一回ちゃんと取材しなきゃなってギュウゾウさんと話してた

ロバート・オウエン(Robert Owen、1771年5月14日 - 1858年11月17日)は、イギリスの実業家、社会改革家、社会主義者。人間の活動は環境によって決定される、とする環境決定論を主張し、環境改善によって優良な性格形成を促せるとして先進的な教育運動を展開した。協同組合の基礎を作り、労働組合運動の先駆けとなった「空想的社会主義者」。「イギリス社会主義(英語版)の父」とされ、初めて本格的な労働者保護を唱えたとされる[1]。ロバート・オーウェンあるいはロバート・オーエンの表記ゆれがみられる。 ロバート・オウエン 1771年、ロバート・オウエンは、北ウェールズ地方モントゴメリーシャー(英語版)のニュータウン(ポーイス)(英語版)で、小手工業者の子として生まれ、10代で商店に奉公して各地を転々とした。この間に産業革命にともなう労働者の困窮を目撃する。 1790年、マンチェスターの紡績工
ジェレミ・ベンサム(英: Jeremy Bentham、1748年2月15日 - 1832年6月6日[1])は、イギリスの哲学者・経済学者・法学者。功利主義の創始者として有名である。ジェレミー・ベンサム[2]、ベンタムとも(後述)。功利主義の理念は、19世紀前半、インドにおけるイギリス東インド会社の勢力圏で用いられた行政法体系に相当な影響を与えた[3]。 法学を専攻するもウィリアム・ブラックストンの講義を聴いて失望し、功利主義の立場から自然法を批判的に論じた。法典化を推奨し、後世の国際法に影響を与えた。これらの分野で使われている「codify(法典化する)」や「international(国際的な)」などはベンサムによる造語である。また、「maximize」や「minimize」などの多数の造語をしており、これらの造語は既存の用語による先入観をできるだけ排除して新たな方法論を記述するための

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