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宝暦8年12月27日[3]、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれる。実際の生まれは12...宝暦8年12月27日[3]、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれる。実際の生まれは12月26日の亥の半刻(午後10時ころ)であったが[5]、田安徳川家の系譜では27日とされ、また「田藩事実」では12月28日とされている。宝暦9年(1759年)1月9日に幼名・賢丸(まさまる)と命名された[6]。生母は山村とやで、生母の実家は尾張藩士として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かってきた。とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、子の山村三演は采女と称して本家の厄介となった。とやは三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。宗武の正室は近衛家の出身であるため、とやも田安徳川家に仕えて宗武の寵愛を受けた[7]。定信は側室の子(庶子)であったが、宗武の男子は長男から四男までが早世し、正室の五男である徳川治察が嫡子になっていたため、同母兄の六男・松







