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数学で証明問題の解答見てイライラした経験がある。 解答で「証明」だと言ってるそれを見てもよく理解で...数学で証明問題の解答見てイライラした経験がある。 解答で「証明」だと言ってるそれを見てもよく理解できないから、先生に訊く。 先生の解説を訊いてもわからない場合もあるが、なんとかわかる場合もある。 先生の解説まで訊いて理解できる場合、「証明」といってるものは実は「証明」じゃなくて、先生の解説という情報も付してやっと「証明」になるのではないか? なぜ納得できない人がいる説明に「証明」というラベリングを貼ってしまうのか?そこが理解できない。納得できることが証明の要件ではないか。 そして逆に納得できない証明になんの価値があるのか?そこにあるのはせいぜい権威を前提とする押し付けだけじゃないのか?(その卑近な例こそ、学校教育において「証明」を答えだとする押し付けだと思う) もっとコナンの推理みたいな、極力誰もが納得できる明快なものを証明と呼んでほしい。言葉狩りという自覚はある。
