
この記事の写真をすべて見る 芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、インファンテリズムについて。 * * * ある時、鮎川さんからインファンテリズムについて書いてくれますかというメールが送られてきた。この言葉はかなり昔に誰かが僕のことを書いた時に初めて知った言葉だった。その時は「幼児性」と判断したように記憶しているが、このインファンテリズムは僕の本質でもあると論評されていた。その後、ずっと経ってから僕は『新世紀少年密林大画報』(平凡社)というムック形式の本を編集することになって、巻頭に三島由紀夫さんの文を引用した。少し長いが紹介しよう。 「恥かしい話だが、今でも私はときどき本屋の店頭で、少年冒険雑誌を立ち読みする。いつかは私も大人のために、『前にワニ後に虎、サッと身をかわすと、大口あけたワニの咽喉の奥まで虎がとびこんだ』と云った冒険小説を書いて

投稿日2023-12-21 Author Kana Yoshioka LIFESTYLE 観察する 路傍の編集人、都築響一が手掛ける向島の美術館「大道芸術館」で、大衆・昭和・性をテーマにアートの真髄を知る。 都築響一 都築響一 1956年、東京都生まれ。作家、編集者、写真家。1989年から91年にかけて美術選集『アート・ランダム』にて『アウトサイダー・アート』と『アウトサイダー・アートⅡ』を出版し、欧米のアウトサイダー・アートの動向をいち早く日本に紹介。現在に至るまで、独自の視点で世界各国のアウトサイドに属するアート、ファッション、民俗など幅広く紹介し続けている。これまでに昭和のラブホテル、世界の地獄アートなど、長年追い続けてきた数々の出版書籍は、年代、人種を超え多くのコアなファンを持つ。現在は大道芸術館のキュレーションを行う他、自身が発信するWEBメディア「ROADSIDER’s we

2023年10月、アーティストの草間彌生は、過去に人種差別発言をしたことを謝罪した。 価値観を時代にあわせてアップデートする過程で、かつての過ちを認めることは大切だろう。だが、それによって「キャンセル」されることは必ずしも正しいのだろうか──英メディア「アンハード」が論じる。 美術界の大御所が排斥の危機に 「人は生命の美と同じように恐怖も描くべきだと、私はずっと前に心に決めた」 芸術家はいかに怪物を創り出すか──あるいは、いかに怪物になるか。これを主題にしたH.P.ラヴクラフトの短編小説『ピックマンのモデル』の主人公はそう語る。 ピックマンの描いた絵は悪夢そのもので、語り手を務める友人かつ芸術家仲間は、ひと目見るのも堪えられないほどだ。語り手は身震いしてこう語る。


「横」を見るだけでは不十分2017年にノーベル文学賞を受賞した小説家カズオ・イシグロ氏の、あるインタビューが各所で大きな話題になった。 そのインタビューが多くの人から注目されたのはほかでもない――「リベラル」を標榜する人びとが自分たちのイデオロギーを教条的に絶対正義とみなし、また自身の感情的・認知的好悪と社会的正義/不正義を疑いもなくイコールで結びつける風潮の高まりに対して、自身もリベラリズムを擁護する立場であるイシグロ氏自身が、批判的なまなざしを向けていることを明言する内容となっていたからだ。 〈俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。 私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」では

ピクチャレスク(英: Picturesque)は、ウィリアム・ギルピン(英語版)の『主としてピクチャレスク美に関してワイ川および南ウェールズの幾つかの地形その他の1770年夏になされた観察』によって、1782年に初めてイギリスに文化的な議論として導入された審美上の理念である。この書は「ピクチャレスク美の規則に従ってある地方の表情」を吟味する、余暇旅行者を教化した実用本だった。ゴシックやケルト主義といった審美的文化的陣営とともに、ピクチャレスクは、18世紀に新たに出現しつつあったロマン主義的感性の一部をなしていた。 修道院廃墟の美。The Chancel and Crossing of Tintern Abbey, Looking towards the East Window 、J. M. W. ターナー、1794年[1] ギルピンの書名が示唆するように、ピクチャレスクは、他の二つの審美理


マレーヴィチの作品『冬』(1909年) ナタリア・ゴンチャロワの作品『Велосипедист(Cyclist)』(1913年) ポポーワの作品『ピアニスト』(1914年) マレーヴィチの作品『シュプレマティスム』、1916年-1917年作(Krasnodar Museum of Art、クラスノダール) タトリンの第三インターナショナル記念塔(ロシア語版、英語版)(1919年) マヤコフスキーの手がけたポスター 「寒いのは嫌だろう。飢えたくもないだろう。食ってみたいだろう。一杯飲りたいだろう。──だから直ぐにでも突撃作業班(ウダルニク)に加われ」というコピーがマヤコフスキーの作 リシツキーの作品『プロウン(Proun)』(1922年作成、MOMA) シューホフの設計したモスクワのラジオ塔(1922年) エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』の虐殺シーン(1925年) ゴーロソフの設

前々回に引き続き、「あいちトリエンナーレ」(以下「あいトリ」と略記します)の問題を取り上げる。 補助金交付(あるいは不交付)の是非については、前々回の当欄で比較的詳しく論じたので、今回は、別の話をする。 別の話というよりも、そのものズバリ、最も基本的なとっかかりである「表現の自由」ないしは「アート」そのものについて書くつもりでいる。というのも、「あいトリ」問題は、各方面のメディアが取り上げた最初の瞬間から、ずっと、「表現の自由」それ自体を考えるべき事案であったにもかかわらず、なぜなのか、その最も大切な論点であるはずの「表現の自由」の議論をスルーして、「公金を投入することの是非」や「日韓の間でくすぶる歴史認識の問題」や「皇室への敬意」といった、より揮発性の高い話題にシフトする展開を繰り返してきたからだ。 ここのところを、まず、正常化しなければならない。 今回、私がつい2週間前に扱ったばかりの



愛知トリエンナーレ内の展示企画「表現の不自由展」に行ってきた。 当初この企画のことを知ったとき、「これは大変なバッシングに晒されるだろうな」と思ったものだが、事実その通りになった。「早晩中止になるかも知れないから見に行くなら今だ」と思い定め、無理矢理予定を半日空けて名古屋まで出向いたが、その夜、脅迫に晒されてこの展示の中止が決まったことを知って予感は的中した。 なんというか、膝から崩れるような落胆を感じはしたが、驚きはなかったし、奇妙なことに憤る感情もなかった。それは、この炎天下に何日も放置していた鍋を空けてみたら予想通りにドロドロに腐りきっていてもはや手の付けようもなかったのと同じようなもので、予想通りと言うよりは予定通り、この日本社会がもう取り返しが付かないぐらいにダメになってしまっていることを知らされたというよりも再確認させられただけのことだからなのだろう。 ともあれ、落胆を通り過ぎ


平和の少女像と自分 現在開催されているあいちトリエンナーレ、本当は「さよならテレビ」*1が上映される9月22日以降にまとめていろいろな展示を見に行く予定だったんですけど、そのイベントの中の一つの企画である、「表現の不自由展・その後」が、「平和の少女像」展示や天皇を題材にした作品の展示等で反発を受け、展示が継続できるか危ぶまれているので、慌てて8月2日に見に行ってきました。 そしたら案の定、河村名古屋市市長や菅官房長官が展示を中止するよう圧力をかけてきているそうで www.huffingtonpost.jp digital.asahi.com 芸術監督の津田大介氏も撤去を含め対応を検討しているということなので、行っておいてよかったなと思ったり。 www3.nhk.or.jp で、実際に見てきた僕の感想なのですが、要約すると以下の3点になります。 いい意味でも悪い意味でも、ここまで騒ぐほど大し


愛知県内で1日に開幕した芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(10月14日まで)の企画展「表現の不自由展・その後」の展示内容に、韓国の造形家が手がけた少女像や、昭和天皇の肖像を燃やす映像などがあったことが大炎上している。 実行委員会の会長は、大村秀章愛知県知事がつとめ、事務局は愛知県県民文化局に置かれるなど、芸術祭は、公共性が強い。さらに芸術監督を左派論客の津田大介氏が務めていることから、右派を中心にネット上の非難は収まりそうにない。政府も、菅官房長官が2日午前の記者会見で「事実関係を精査」する意向を示しており、今後、県議会などの追及が起きて、大村知事の政治責任問題に発展する可能性もある。 津田大介芸術監督と。名古屋東急ホテルにて。 pic.twitter.com/Pi4fvGSKZc — 大村秀章 (@ohmura_hideaki) July 31, 2019 公式サイトによると、問題


2024年12月28日UPDATE 記事公開から早いもので約7年が経ち、こちらの記事の価格を改正させて頂きました。 Here’s my «me too» story about Araki . Sorry that is only inJapanese. I hope some of your friends can help you readit or maybe you don’t need to readit you already understand something... In the end, finally igot his answer. I do now realize what he was thinking regarding us and his “art" 📸 All i can do now is to accept the situation a

Introduction by 塩谷舞(milieu編集長) 私は海外で暮らしたことがない。だから、「あの国ではこうなのに、日本は…」という話を聞いても、「まぁ、そういうもんでは?」と思ってしまうくらいで、イマイチ危機感もなく、次の日も変わらずに過ごしてしまう。 自分の暮らしーーわかりやすく言えば、収入や、仕事や、食べるもの……などに直結しなければ、なかなか自分は危機感を抱けない。 だが、もし自分の目指す職業が、日本で成立しないものだったら? アート……それも、コンセプチュアルな現代アートの領域で、日本の中で大成しよう、というのは、なかなかの無理難題である。 「好きなアーティストは?」と聞かれれば、多くの人はミュージシャンの名前を挙げる。「じゃあ、好きな現代アートのアーティストは?」と聞くと、答えられる人数はぐっと減ってしまうことは事実だろう。 だから、現代アートを志す作家は、多くが一度は


アーティストたちがすごくサディスティックな眼差しで、誰かを望まない状況に巻き込んで、作品化して、見ているような。そういうことは、弱いものいじめと同じと言えるんじゃないでしょうか。(神野真吾さん)


刺激の強い描写が含まれています。閲覧の際はご注意ください。 マリーナ・アブラモヴィッチ(Marina Abramović)は、ユーゴスラビア出身、現在はニューヨークを拠点として活動しているパフォーマンス・アーティストです。1970年初頭より30年以上におよぶ活動から、現代美術における「パフォーマンスアートのグランドマザー」と自らを称し、世界の美術界で大きな影響力を持つ女性アーティストとして知られています。 その作品は、芸術家と鑑賞者の間の関係性を重視し、身体の限界や精神の限界・可能性を探究したものが多く、自身の身体に暴力を加えるなどの過激なものも多く発表しています。 中でも1974年にイタリアのナポリで上演された「Rhythm 0 (リズム0)」は、アブラモヴィッチの代表作として有名です。6時間に及んだパフォーマンスは、当時23歳のアーティストが観者の意のままに自らの肉体を使わせる、という



リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く