浅田 彰(あさだ・あきら) 1957年、神戸市生まれ。 京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。 同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。 著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。 最新のエントリー 19.05.01 昭和の終わり、平成の終わり 19.03.29 原美術館のドリス・ファン・ノーテン 19.03.07 マックイーンとマルジェラ――ファッション・ビジネスの大波の中で 18.12.07映画のラスト・エンペラー――ベルナルド・ベルトルッチ追悼 18.11.03トランプから/トランプへ(5)マクロンとトラン


先日、現代美術家の村上隆の『芸術闘争論』という本を読んだらとても面白かったよーという内容の話を先走って書いてしまったのですが、今回はこの本の感想を、もう少しがっつり書いてみようかと思います。 個人的には、現代アートに興味のない人でも、私がタイトルにあげた”圧力”という言葉にピンときた方にはぜひ読んでほしいなぁという本です。 「ウケる」ための作品作りはダメなのか? まず村上隆というアーティストに対する私の勝手なイメージは、「美術界での嫌われ者」でした。美大生なんかにアンケートをとると、「嫌いなアーティスト」として名前が上がることが多いみたいな、そんな印象です。 参考:好きなアーティスト、嫌いなアーティスト2 - Ohnoblog 2 私自身は、彼の作品自体は正直見ても何とも思わないというか、「好きなわけでも嫌いなわけでもない」といったかんじ。でも、なぜ彼の作品がこんなふうに嫌われてしまうのか


今、村上隆の『芸術闘争論』という本を読んでいるんですが、これがとても面白いです。いずれまた別の機会にがっつりとした感想文を書きたいと思っているのですが、今回はこれを読んで考えた、ちょっと軽めのことをメモしておきます。 マルセル・デュシャンの呪い マルセル・デュシャンの便器が変えたもの - (チェコ好き)の日記 マルセル・デュシャンについては過去のエントリでも何回か書いているんですが、最近いろいろなことを考えるにあたって、デュシャンの『泉』がやってしまったことって本当に大きかったんだなぁというか、デュシャン以降の現代美術ってもうこの「呪い」にかかってしまっているんですよね。「美しいとは何か」とか、「自分の手で創造するものが芸術である」とか、そういった芸術に関する神話を全部壊してしまったのがこの『泉』で、現代美術は初心者が見てもすぐ”わかる”ものではない、何層にもなった歴史を読み解かなければな


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