文学部になんか行くな、勉強しても報われないぞって初めから言え https://anond.hatelabo.jp/20220114133403 の筆者です。三年後の現状を追記。 当時叱ってくれた人、励ましてくれた人には心から感謝しています。 当時たくさんの方からいただいたアドバイスを元に、学部四年生ながらにできることはたくさんやってみました。手遅れ感はすごかったけど、もうこのまま色々なことから逃げてはいけないと思ったので勢いだけはあった。 ・教職を取る ・ボランティアに参加する ・長期インターンで働く ・バイトをする ・心理学の本を読む 卒業研究も就活も並行してやった。 教職はめちゃくちゃ大変だった。大学四年生にもなって(しかもあそぶんがくぶ)、教職=専門科目+教職科目で時間割はいっぱい。毎日朝9時から夜8時まで授業が詰まっていて、土日も現職教員が教えてくれる授業に出ていった。 ヒーヒー言

文学フリマという催しがあります。 なんなのかというと、自分が文学だと信じるものを自分の手で作って売る人たちが集まっているフリマです。 わたし(37歳・文筆業11年生)は行ったことないんだけど、わたしの身の回りの、ホネのある作家さんや詩人さんが軒並み出ている。今回で全国通算91回目になる歴史あるイベントらしい。2000を越えるブースが出るそうです。 入るのに1000円かかる。けど、書店・出版社・印刷会社といった企業、はたまた、自分の好きな海外文学をすごい熱量で翻訳する人たち・自分の好きな何かを徹底的に研究し尽くす人たち・豆本やブックカバーや紙もの雑貨を作る人たち、などなど、さまざまな団体および個人がやりにやりあげている5時間なので、ぜひぜひ、ね、日曜の東京に行けない人も1000円払うのがむずかしい人も、カタログだけでも見てみたら面白いと思います。カタログはインターネットでタダで見られるよ。


ずいぶん間が空いた山形月報ですが、今回は文学好きの間では話題ながらも難物と言われるコーマック・マッカーシー遺作2部作を中心に、ホームズの格闘術と、財政金融政策の話。文学にネタのような真面目な格闘術、さらには経済話といつもながらバラバラですが、さて、どんな話になるでしょうか! ずいぶん間が開いた (一年以上かよ!)。いつもながら、採りあげるつもり満々の本が一冊あって、それをどう料理しようか考えるうちに、ずるずる先送りになってしまうというありがちな話ではあります。 で、今回扱うのは、それではない。 コーマック・マッカーシーの遺作となる2部作『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』だ。 マッカーシー『通り過ぎゆく者』 コーマック・マッカーシーは、現代にあって、本当の意味での文学を書けた数少ない作家の一人だ。そして、それは文学というものの意義が変わってきた現代では、決して容易なことではない。 村上龍は

チェコ・中欧文学の研究者で、現在プラハに滞在中の須藤輝彦さんによる特別寄稿をお届けします。本文校了後の昨年12月21日、プラハにあるカレル大学が銃撃され、14人の方が亡くなるという痛ましい事件がありました。本記事の末尾には、事件に関してご執筆いただいた追記も掲載しております。どうぞあわせてお読みください。(編集部) 現代チェコを代表する小説家。 自分が専門とする作家をひとことで説明するとき、僕はたいていそう言っている。これまでもそうだったし、これからも多分そうだろう。現代という言葉が20世紀後半を含んでいるかぎり。 その作家とは、昨年の7月11日に94歳で亡くなり話題となったミラン・クンデラだ。代表作は『存在の耐えられない軽さ』。ある意味でキャッチー、ある意味で中二病的、いずれにせよ多くの意味で読み手を選ぶこのタイトルを聞いたことがある方も多いのではないだろうか。 冷戦期に起きた民主化運動


11月11日(ポッキーの日)、かねてより見物したいと思っていた「文学フリマ」に参加した。おのぼりさん感覚、文化祭感覚、そしてかつて開いていた僕の本屋「フィクショネス」感覚を、存分に味わうことができた。誘っていただいた破船房の仲俣暁生さん(当「マガジン航」の編集発行人)に、まずは感謝する。現場でも仲俣さんは大奮闘なさって、おかげで僕は楽ができた。 開場は12時の予定で、準備は10時からということだったが、僕たちが到着した時(つまり開場2時間前!)には、すでに来場者が行列を作っていた。東京流通センターをフルに使った会場は広かったが、個々のブースは狭かった。破船房もひとつのテーブルを半分だけ使うことができて、そこに仲俣さんや僕の本を、なるたけ見栄えよく並べて客を待った。 テーブルの残り半分を占める隣のブースは、11時を過ぎても人が来なかった。大きな段ボールがいくつも積んであるばかりで、他人事なが

Executive Summary トマス・ピンチョンのオーウェル『1984年』序文は、まったく構造化されず、思いつきを羅列しただけ。何の脈絡も論理の筋もない。しかもその思いつきもつまらないものばかり。唯一見るべきは、「補遺;ニュースピークの原理」が過去形で書かれていることにこめられた希望だけ。だが、考えて見れば、ピンチョンはすべて雑然とした羅列しかできない人ではある。それを複雑な世界の反映となる豊穣な猥雑さだと思ってみんなもてはやしてきた。だが実はそれは、読者側の深読みにすぎないのかもしれない。そしてその深読みが匂わせる陰謀論が意味ありげだった時代——つまり大きな世界構造がしっかりあって、裏の世界が意味をもった60-80年代——にはそれで通ったのに、1990年代以降はもっと露骨な陰謀論が表に出てきてしまい、ピンチョン的な匂わせるだけの陰謀論は無意味になった。それがかれの最近の作品に見られ


この人は、毎日、勉強していて楽しかったのだろうなぁと思いました。勘は鋭いし、具体的なことから抽象的なことを読み取る力も優れているし、一緒に話したら楽しいだろうなぁと思って、頁を捲ったのでした。 さて、宣長のすごい業績は、三つあります。 ひとつは、古典研究についてです。なんと言っていいのか分からない、ことばにしてしまうと失われてしまうかもしれない、日本的な情緒を「もののあはれ」ということばで表すことができたからです。 二つめは、日本語の文法についての研究、三つめは漢字音研究です。 さて、本居宣長の日本語の文法の研究の中心は、「係り結び」と「活用」です。「係り結び」は高校の古典で習いましたね。「ぞ、なむ、や、か」という「係り助詞」があると文末の活用形が連体形になる。「こそ」があると已然形になる。 これを発見したのは、本居宣長です。 古代日本人思考を知るカギだった 我々がいわゆる「古典」で習う『


僕は”ジャズに言葉は不要なのか?”というテーマの評論を書きましたが、依頼されたお題が評論ではなかったら書けるなと思っていたアイデアがあるので、ここで紹介しておきます。 それは "現代ジャズ×文学"のためのディスクガイド です。 ジャズの新作を山ほど聴いていると定期的に文学や詩、本からのインスピレーションを形にしたとアーティストが語っているジャズ作品に出会います。普段は「そういうの意外とあるのね」と心の中で思うだけですが、せっかく出せるきっかけになる特集を文芸誌がやったのここにまとめておきます。 ■ナオミ・クラインなど ⇒ ブライアン・リンチ・ビッグ・バンド - The Omni-American Book Club: My Journey Through Literature InMusicNY屈指のトランぺッターで、ラテンジャズやビッグバンドにも精通する名手としてその筋でも知られる

私はディルクにさまざまなテーマで論争ではないが長い説明をした。私の心の中で数多くのことがぴたりと符合しハッとした。特に文学において、人に偉業を成し遂げしむるもの、シェイクスピアが桁外れに有していたもの――それがネガティブ・ケイパビリティ、短気に事実や理由を求めることなく、不確かさや、不可解なことや、疑惑ある状態の中に人が留まることが出来る時に見出されるものである。[4] キーツは、偉人たち(特に詩人)には全ての物事が解決できるものではないということを受け入れる能力があるのだと信じた。ロマン主義者としてのキーツは想像の中で見出される真実により神聖な真正性に接することが出来るのだと考えた。そのような真正性は他の手段によっては理解し得ず、よってキーツは「不確かさ」と書いた。この「不確かさの中(にあること)」は俗世のすぐそこにある現実と、より完全に理解された存在のさまざまな可能性との狭間にある場所
(2020/12/10 追記) この記事で行なった議論を大幅に改訂したものを、晶文社スクラップ・ブックの連載で発表した。どちらかといえば、この記事ではなくそっちを参照してほしい。 s-scrap.com 近年、「学問は役に立つのか?」「人文学を学ぶ意味はあるのか?」「利益を上げない学問に税金を投入する意味はあるのか?」みたいなことが言われることが多くなっているような気がする。大体の場合、やり玉に挙げられるのは人文学や文系の科目全般だったりする。 私は学生時代に人文系の学問を専攻していたし家族にも人文系の大学教授がいるのでわかるのだが、人文系の大学教授の大半は、「人文学は役に立つのか?」あるいは「お前のやっている学問は何かの役に立つのか?」ということを問われると憮然としたり心外だと言わんばかりに憤ったりする。それで「役に立つかどうかという理由で学問をやっている訳ではない」「何かの役に立つから

「一行残れば勝ち」 斎藤 セレクションからして大変なお仕事でしたね。 渡部 選ぶだけでたっぷり半年以上かかりました。この本では、原典から抜いた惹句的な一行と僕の解題を読んでもらえれば、日本近代批評の主立ったところがわかるし、その惹句を付けた目次(後掲)だけでも、おおよそがわかると思います。 斎藤 私、これ買いだと思います。だって重要な批評ばっかりこんなに集めた本って、これまでにないですよね。 渡部 批評のアンソロジーは、『昭和批評体系』五巻本(番町書房)などが昔はあったし、いまも、岩波文庫に『日本近代文学評論』の二巻本がありますが、秋成・宣長から蓮實・柄谷まで七十本、ひとりの編著者が作った本はこれが最初だと思います。 斎藤 いまでは個人全集をひっくり返さないと読めない文章も多い。文庫の回転はこの頃えらく速いけど、真っ先に消されるのが文芸批評です(笑)。名前は知ってるけど、読んでないものも多


第45代米国大統領、ドナルド・トランプ氏が誕生した21日に、日本では遠藤周作原作の映画「沈黙-サイレンス-」が全国ロードショー公開された。その両方を体験した筆者は、頭の中を大いに刺激されっぱなしである。特に「沈黙」は、いろんな切り口から語ろうと思ったらどれだけでも語れるくらい、コンテンツが脳内を駆け巡っている。 朝一番に劇場に足を運んだが、ほぼ満席であり、しかも年齢層はかなり高め。2時間40分強という長尺の上映時間ということもあり、かなりの覚悟を要する作品であることは間違いない。それでもこれだけ各方面から「今度『沈黙』ってやるでしょ。これ、クリスチャンが見ても大丈夫なんですか?」と同じ質問をされると、やはり何か回答しないといけないかな、という気分にさせられた。そこで、今回は映画「沈黙」を早速レポートし、さらに2つの観点からまとめてみた。 (1)クリスチャンにとって、「沈黙」はどんな意味を持


『シン・ゴジラ』を監督した庵野秀明は、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の登場人物の名(トウジとケンスケ)を村上龍の『愛と幻想のファシズム』から拝借し、『ラブ&ポップ』を実写映画化したことがある。 そして庵野秀明監督の最新作『シン・ゴジラ』は村上龍以上に、2000年代以降の村上龍の問題意識を体現した作品だった。そして描かれるべき「震災後文学」をついに世に投じた作品でもあった。 どういうことだろうか? それを捉えるために、まずは村上龍の辿った道を見ていこう。 ■サラリーマンになれない 「おまえはぜったいにサラリーマンになれない」 村上龍は幼少期から親や教師たち(両親も教師である)にくりかえし、そう言われてそだった。 彼は集団作業にむいておらず、他人の指示に従うということを嫌った。 だからはじめ、医者になろうと思った。自営業者として開業医になれば、組織の論理をふりかざす「上司」のような人間にした


山田詠美の「姫君」という短編集を読んでいた。私は山田詠美のファンなので楽しく読んだ。巻末に、「蛇にピアス」などで知られる作家、金原ひとみが解説を寄稿しているのだが、それを読んでひっくり返った。 完全に誤読してる。解釈とかそういう問題じゃない。基本的な国語の問題だ。 短編「フィエスタ」は、「欲望」が主役だ。「欲望」という感情が擬人化され、その一人称で、自分が宿っているブスな主人公の状況を愚痴ったり嘆いたりして話が進む。「欲望」は、主人公のことを「主人」とよんでいる。 なのに、金原ひとみの解説にはこう書いてある。 主人公の名前は瞳である。私はこれを読み始めた瞬間、「醜いだと?」と思った。ごめんなさいね。名前というのはとても大きな力を持っていて、他人事をは思えなかったのです。瞳だからではないけれど、私はこの主人公が好きだ 主人公→瞳と言う名前→自分の名前と一緒。えっ、名前なんて出てきたっけ?と本


子供の入院に付き添って、しばらく病院に滞在していた。 手術の前後は必ずいなければならないのだが、親がすることできることは限られていて、概ね退屈な時間が続く。持参した本を読み終えて、院内文庫で本を借りることにした。頭は使いたくないが、すぐ読み終わるようなものは困る。村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」があった。好きな小説だが、ここ数年は読んでいなかったので、これを読み始めた。 小児病棟というのは、悲劇が日常になっていることが、感じられないくらい空気に溶け込んでいる場所だ。 付き添いで泊まり込んでいる若い母親が、もう泣きたいよーと笑いながら話す声が聞こえる。子供なんて、普通に生まれたら普通に育つもんだと思ってたら、まさか癌になるとはね。私からは見えないところから、笑い声の合間に鼻をすする音はするが、声は乱れず明るい。 細い足をむき出しにした小さな子を抱っこ紐で抱えたパンクファッションの母親が、


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