江戸市中(御府内)の範囲を幕府が示したのはたった一度、しかもその時期は江戸幕府誕生から二百年を過ぎた1818年だった。 文政元年(1818)目付 牧助右衛門から「御府内外堺筋之儀」についての伺いが出された。つまり「御府内とはどこからどこまでか」との問い合わせがあり、それについて幕府評定所で評議し江戸朱引図を作成したがこれが江戸の範囲として幕府の唯一の正式見解となった。 天正18年(1590)徳川家康が江戸に入府して以来、発展・膨張をし続けた首都江戸は、100年後の享保期には町数が千を超え人口が百万人を超える巨大都市へと変貌した。 しかしながら、江戸の境界・範囲については意外にも幕閣の間でも統一見解はなかった。 というのも江戸時代は身分社会で町民・武士・僧侶により支配する機関もそれぞれ独立しており今日で言う行政区画の制度はなかった。 そこで幕府は統一見解を示すように求められて文政元年(181
清楚系、ビッチ系、天然系、ゆるふわ系......今の女子を呼び表す言葉は様々です。江戸時代はどんな風に女子をジャンル分けしていたのでしょう。 まず、挙げられるのは語感が奥ゆかしい、 1 きむすめ です。まだ色気づいていない固い蕾のような処女。無防備さが魅力です。 川柳も残っています。 「生娘を口説いた面にみみずばれ」 口説くというか、手込めにしようとしたのでしょうか。平手打ちする本能的な動きが生娘っぽいです。 「生娘は香々がありがあり食ひ」 漬物をガリガリと音を立てて食べる、全く男性を意識していない様子が目に見えるようです。 江戸時代にはきむすめを「木娘」とも書きました。まだ男性を知らない少女の痩せた体が枝のように骨張っているのを表しているのでしょう。 「木娘も文字で覚えた恋の道」 「きむすめは帯をほどいてさがす也」 人前でも平気で帯をとく姿。男性の目を意識していない女子校の光景のようです
江戸初期埋め立てによって築かれる 築地は地名のとおり海を埋め立てあらたに築いた土地です。1657年(明暦三年)、明暦の大火後の復興計画で、隅田川河口部にあたるこの一帯が開発されて武家地となります。横山町辺にあった本願寺も同大火で被災して築地に移ってきました。本願寺の再建にあたっては佃の門徒たちが海を埋めて土地を築いたと伝えられています。佃の漁師たちはかつて干潟であった佃島を自分たちの手で造成したといわれるように、当時相当な土木技術をもっていたのかもしれません。本願寺南側の町屋は1664年(寛文四年)、日本橋魚河岸の魚問屋たちが願い出て開いたことから、魚河岸のあった小田原町に対して南小田原町と名づけられました。この頃すでに築地と魚河岸が関係しているのは面白いことです。ここから明石橋のあいだに開かれた町人地の水辺には河岸がもうけられて、魚介類も荷揚げされました。古くから魚にゆかりの深い土地で

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