ところが、思わぬオファーが届く。 ベオグラードでセミプロ経験を持つ2人の通訳がピッチでオシムをサポートすることになっていたが、それとは別に、会見やミーティングでの通訳を日本サッカー協会は探していた。そして、オシム家と共通の友人だったボスニア人が、千田のことをアシマ夫人に話したのである。 「それで僕に声が掛かって、面接をすることになった。JFAに行ったらミーティングルームに通されて、そこにオシムさんやコーチングスタッフの方々がいたんです。スカウティングの和田(一郎)さん、技術委員長の小野(剛)さんたちもいらっしゃって、『これからミーティングを始めます』と。面接はなくて、採用が決まっていたんです(笑)」 「なぜ、阿部や遠藤を呼べないんだ」 7月25日に行われた最初のスタッフミーティングでは、いきなりオシム節が全開だった。8月9日に予定される初陣のトリニダード・トバゴ戦は、A3チャンピオンズカッ


稀代の名将がこの世から去ったという一報を受けて、SNS上では数多くのサッカーファンから悼む声が。さらには阿部、巻誠一郎、水野晃樹らといった“教え子”たちも、オシム監督への感謝の言葉をつづっています。 3月にNumberWebで実施したアンケート『サッカー日本代表の30年、あなたが選ぶ「最高の名将」は誰ですか?』で、オシムさんは500を超える全体の得票数のうち、約35%を占める断然の1位に輝きました。 なぜオシムさんはこれほどまで、日本人から愛されたのか。 アンケート結果発表の際にご紹介しきれなかった「ファンからオシムへの感謝」を掲載します。 1)日本サッカーの進化を促す育成・戦術アプローチ オシム監督のサッカー哲学で代名詞となったのは「考えながら走る」。スキルと走力、連動性を融合したスタイルによって、ジェフは当時国内最強と言われたジュビロ磐田相手に完勝を飾るなど、一気に躍進。2度のナビスコ

イビチャ・オシムに電話をしたのは日本がシドニーでオーストラリアを破り、1998年以来7回連続のワールドカップ本大会出場を決めた数時間後だった。試合がオーストリアでも生中継されるのを筆者が知ったのは、当日(ヨーロッパ時間で3月24日午前)になってからだった。そのためオシムに伝えることができず、彼は日本が会心の戦いでオーストラリアを下した試合を見てはいない。それでもオシムは日本の突破を心から喜び、同時にロシアの侵攻が止まないウクライナの状況を憂えるのだった。 ■■■ ――元気ですか? ADVERTISEMENT 「ああ、元気だが君はどうだ?」 ――私もまあまあです。 「あなた方は勝ち点3を得たのだな」 ――ええ、とても満足しています。 「予選を突破できたのだから。ジャーナリストも仕事が増えて嬉しいだろう(笑)」 ――まあそうです(笑)。これからも続けられます。 「世界チャンピオンになるまで仕事

イビチャ・オシムとは定期的に連絡を取り続けている。ここに掲載するのは、11月1日の電話による直近の会話である。 この日は、オシムが日本代表メンバーとしても信頼を置いていた中村憲剛選手が引退を発表した日。オシムが語った“プロサッカー選手・中村憲剛”とは――?(#2に続く/全2回) ◆◆◆ 中村憲剛の引退は「サッカーにとって大きな損失だ」 ADVERTISEMENT ――元気ですか? オシム ああ、元気だ。いったい何があったのか? ――中村憲剛が今季限りの引退を発表しました。 オシム 憲剛はまだプレーしていたのか。引退するなら彼のために何か別のスポーツを探してやるべきだ(笑)。日本サッカーにとって大きな損失だ。彼自身にとってもサッカーにとっても残念なことだ。彼はピッチの上で常に的確なプレーを実践し、オーラを発揮し続けた。本当に優れた選手でスターとしての人生を歩んだ。そうした選手が表舞台から去る

イビチャ・オシムはグラーツで静かに暮しながら、コロナ禍により静止した世界がどうなっていくのかをじっと見守っている。遠い日本にも常に思いを馳せながら。地理的な距離と心の距離、このふたつはオシムの中ではまったく異なっているのだった。オシムの近況を伝える。 ――元気ですか。 「ああ、元気だ。君はどうだ?」 ADVERTISEMENT ――私はまあまあというところです。 「そうだろう。日本が悪いはずがない」 ――そうは言っても今はまだ状況は厳しいですが。 「いや、酷くはないしいい状態を保っている。私は日本という国を信じている。一緒に仕事をしたときなど、日本人は信頼するに値する。それでそちらはどうなっているのか?」 ――今は少し良くなっていますが……。 「試合は始まっているのか?」 ――それはまだです。 「私は韓国のリーグ戦を見た。崔龍洙が監督を務めているチーム(FCソウル)が勝っていた。久しぶりに

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第13回サッカー人生を劇的に変えた運命の出会い~阿部勇樹(1) 「オシムさんがいなかったら、今の僕はいなかったでしょうね」 阿部勇樹にとって、イビツァ・オシムとの出会いは、まさしく人生を大きく変える運命的なものだった。 オシムとの出会いについて語る阿部勇樹 オシムが、ジェフユナイテッド市原・千葉(当時ジェフユナイテッド市原)の監督に就任したのは、2003年だった。 どんな監督だろう――。 阿部は、楽しみにしていたという。 阿部はそれまでにも、ズデンコ・ベルデニックやジョゼフ・ベングロシュら、優れた外国人監督のもとでプレーしてきた。学ぶことが多く、外国人監督に対する印象は悪くなかった。 オシムについても、ドラガン・ストイコビッチらを軸とした旧ユーゴスラビア代表を率いて、1990年イタリアW杯でベスト8という結果を残した名将であることは、事前に聞いてい

時間は少々遡るが、10月末に久しぶりにイビチャ・オシムに連絡をとった。日本列島に訪れた様々な事柄に関して、オシムもきっと多くの思いを抱えているだろうと思ったからだった。 アシマ夫人によると、このところリハビリは順調にいっているとのこと。次々と台風に襲われた日本とは異なり、この秋のグラーツは晴天続き。絶好の散歩日和をしばし満喫しているという。 グラーツの自宅で、オシムが語った。今も心を寄せる日本のこと。ボスニアサッカーのこと。自身のこと。そしてサッカーの未来を。 「市原や千葉の人たちのことを考えると心が痛む」 ADVERTISEMENT ――元気ですか? 「ああ、君はどうだ?」 ――私は大丈夫ですが、日本は大丈夫ではありません。今年は台風が頻繁に日本を襲って、つい最近も大雨で千葉県を中心にさらに被害が出ました。 「日本は常にそうだな……。そうした自然災害と寄り添って生きる以外にない。長い日本


「1964年の東京は素晴らしかった」――元サッカー日本代表監督のイビツァ・オシム(78)は、前回の東京五輪にユーゴスラビア代表として参加した。ヨーロッパの選手にとって日本は「文化衝突を怖れていた」というほど遠い国だった。終戦から19年、東西冷戦下の五輪はどのようなものだったのか。2度目の東京五輪を来年に控えて、当時の思い出と未来に向けての提言を聞いた。(ジャーナリスト・木村元彦/Yahoo!ニュース 特集編集部) 言葉は少しも分からなかったが、気持ちは伝わってきた。代々木の選手村で各国代表のために無料で貸してくれた自転車の乗り心地は最高で、毎日乗りまわしていた。ある日、気がつけば千葉県まで来ていた。田園地帯で休んでいると、農家の女性がやってきて梨をくれた。身振り手振りで、ノドが渇いているでしょう?食べなさい、と。その梨は、甘くて、柔らかくて、今まで食べたことのないおいしさだった。お土産にし


イビチャ・オシムに日本対エクアドル戦の話を聞いたのは、試合の翌々日だった。初戦のチリ戦は見たが、日本が引き分けたウルグアイ戦は見ることができなかったオシムは、やはり引き分けに終わり準々決勝進出を逃したエクアドル戦を高く評価している。いったいオシムは、エクアドル戦に何を見たのか。コパ・アメリカでオシムが見出した日本の真実とは何であったのか。オシムが語った。 16番は期待以上の優れた逸材だ。 ――元気ですか? 「ああ、君はどうだ?」 ADVERTISEMENT ――元気ですが、パリはすごく暑いです。 「この季節に雪は降らないからな(笑)。女子の試合(ワールドカップ・ラウンド16の日本対オランダ戦。ちなみにオシムは日本対イングランド戦はテレビで見ている)は見られなかったが、男子の試合(日本対エクアドル戦)は見た。技術的には悪くなかった。チームが試合を重ねるごとに進化しているのはわかるし、見ていて


2000年にプロデビューした佐藤寿人は 市原、C大阪、仙台、広島、名古屋、そして再び千葉と 多くのチームで印象的なゴールを残してきた 記憶に留まる得点だけではない J1通算ゴール数は歴代2位という高成績 いつも前線の頼れる選手になる だが日本代表に招集されても なかなかチャンスは巡ってこなかった 常に「ジョーカー」という立場でもあった そんな佐藤に苦しかったとき日本代表での後悔 そして愛するものについて語ってもらった 「サッカー人生は終わったかな」と思った瞬間 僕は苦しいって思うことってあんまりないんですよ。辛いってケガとか病気のときとかには思いますけど。 ケガで1番辛かったのは、広島にいたときの2010年のヤマザキナビスコカップですかね。準々決勝で肩にケガして、決勝の前に復帰できたんですけど、決勝ではピッチに立てなくて。僕が広島に行ってから、まだリーグタイトルを獲ってない状況だったんで

アジアカップ決勝で日本が敗れた。勝敗が決まった時、私は少なからず憤慨していた。そして試合から日が経つにつれ、悲しさと、日本の戦い方を残念に思う気持ちが、私の心を覆うようになっていった。日本サッカーを愛する者なら当然だろう。 決勝のカードを知った時、私は日本が有利であると考えた。大勢の意見もそうであったろうし、もしかしたら選手たちも――意識はしないにせよ――そう思ったのではないだろうか? だが、こうした考えは非常に危険だ。相手がどんなチームであれ、軽んじてしまえば、自分たちの首を絞めることになる。それがサッカーの掟だ。ただ、日本人は真面目で、何事にも全力を尽くし、ベストな結果を出すために入念な用意をする。だからこうした心配は杞憂だと思っていた。 ところが......決勝戦を前にピッチに降り立った日本を見て、このチームはアジアカップ決勝という重要な一戦への準備が万全ではないと私は感じた。彼らは

アジアカップ決勝の日本対カタール戦は日本の完敗に終わった。言い訳の余地のない敗戦を、イビチャ・オシムはどう見たのか。オシムが語った。 順当な結果だったということ。 ――元気ですか? 「ああ、君は元気か?」 ADVERTISEMENT ――まあまあですが、凄くいいわけでもないです。 「そりゃそうだろう」 ――大変な試合でした。 「決勝はいつでも特別だ。どちらのチームも絶対に勝ちたいと願っている。しかも周囲は日本が有利という雰囲気を作り出していた。そんな中で敗れたのだから、当然失望は大きいだろう。 しかし言えるのは……順当な結果だったということだ。試合の入り方は、カタールの方が日本よりも圧倒的に決意に満ちていたのだから」 運は勇気を出した方に味方する。 ――その通りでした。 「カタールは、最初から全力を出し切って戦う気持ちに溢れていた。日本の入り方は典型的な強者の入り方だった。この試合がどうい

日本対イランのアジアカップ準決勝試合直後に、イビチャ・オシムのグラーツの自宅に電話をした。するとアシマ夫人に、少し休みたいから3時間後にかけ直して欲しいと言われた。 「決勝は日本対カタールになるという、大会前の私の予想が当たりそうですね(カタール対UAEの準決勝は翌日におこなわれた)」と、夫人の声も弾んでいる。 「ええ、覚えています。私はカタールがここまで勝ちあがるとは思っていませんでした。後ほどまた電話します」と応えていったん通話を切った。 ADVERTISEMENT スタジアムからホテルに戻りかけ直すと、「今、起きたばかりなのであと1時間後に」と言われ、さらに1時間後にようやくオシムが電話口に現われたのだった。 日本はアジアにおけるドイツやブラジルに。 ――いい試合でしたね。 「ああ、素晴らしかった。ちょっと驚いた。日本の3点目が入るのを待っているところだ」 ――そうですか。今、試合を

日本がベトナムをかろうじて振り切ったアジアカップ準々決勝をイビチャ・オシムはどう見たのか。試合直後にオシムに話を聞いた。 相手を警戒し過ぎたのは残念。 ――簡単な試合ではなかったです。とりわけ前半はそうでした。 「たしかにこういう試合は難しい。両チームとも何としても勝ち上がりたいと思っている。だからどちらも緊張して手堅くなりリスクを冒そうとはしない。 ADVERTISEMENT技術的にはちょっと酷かった。日本は意味もなくボールを失い過ぎた。 相手に合わせてしまうのは、敬意を抱いているからだ。お互いに相手に敬意を払った……ということなのだろう。日本も、自分たちの方が能力的に優れているにもかかわらずサッカーそのものが消極的だったのは残念なことだ。 両チームともに守備に重きを置き、途中でテレビの前から離れたくなるような展開だった。相手を警戒しすぎて、終始積極的ではなかったからだ。リスクを冒して

日本にとって厳しい戦いとなったサウジアラビア戦、終了直後にグラーツの自宅に電話をかけると、聞こえてきたのはアシマ夫人の弾んだ声だった。こちらが何かを言う間もなく、「イバンに代わります」といって、夫人がオシムに受話器を手渡した。 オシムの声も弾んでいた。もちろん筆者の声も。ただ、その明るさには、シビアな試合を冷静に戦い抜いて結果を得たことへの安堵と晴れがましさだけではなく、日本が直面したリアルな現実への懸念も少し混じっていたように思う。 語るべき点が多かったサウジ戦をオシムは高く評価した。厳しい戦いの中に、彼はいったい何を見たのか。 「後方で愚かなプレーがなかったのは二歩前進」 ADVERTISEMENT ――元気ですか? 「ああ、君はどうだ(笑)?」 ――まあ元気ですけど……。 「けど、はないだろう。試合に勝ったのだから(笑)」 ――そうなんですが、厳しい試合でした。 「簡単ではなかった。

この日、オシムはなかなか電話に出ようとしなかった。 試合後の会見の後でサラエボの自宅に電話すると、日本対トルクメニスタン戦に続いて始まったオマーン対ウズベキスタン戦を見ているという。アシマ夫人が幾度となく声をかけ、ようやく電話口に現われたかと思うと、一気に喋るだけ喋りさっさとテレビの前に戻ってしまったのだった。 しかし、彼の口から語られた言葉は、日本のサポーターやメディア、解説者などの意見や試合から受けた印象とは、たぶんまったく異なる。 ADVERTISEMENT トルシエもそうだが、ヨーロッパ人の指導者に共通の視点・評価の基準が彼の中にあり、それは日本的なコンテクストを離れたときに、日本人が語る言葉とは全然別の言葉となって現れるのだろうと思う。 もうひとつは、森保一という監督の資質である。 これは私見だが、森保にはこれまでの日本人監督にはない、オシムやトルシエの琴線に触れる指導力がある。

イビチャ・オシムは、サラエボの自宅で年末年始を過ごした。 冬の間は雪に埋もれるグラーツよりも、寒さが厳しいとはいえ積雪はそれほどでもないサラエボの方が、多少なりとも過ごしやすくはあるのだろう。 ただ、1月半ばには、シュトルム・グラーツのクラブ設立110周年記念式典がある。主賓のオシムを欠いては成り立たない行事であり、そのときにはまたグラーツに戻ることになるとのことである。 ADVERTISEMENT オシムからの新年のメッセージが届いた。 日本サッカーへ込める思いと期待を、オシムが受話器の向こうから語った。懐かしかった羽生直剛との再会も。ここにお届けするのは、そんなオシムの直近の声である。 なお、彼は、アジアカップ期間中の不定期インタビューの申し出にも快諾してくれた。フィリップ・トルシエも同様で、本欄ではふたりの分析と評論をロシアワールドカップ同様に掲載する。 「日本のサッカーは良くなって

25周年を迎えたJリーグの歴史のなかで、イビチャ・オシム氏の果たした役割は大きかっただろう。 ボスニア・ヘルツェゴビナ出身の名将は2003年に来日し、当時低迷していたジェフユナイテッド市原(現千葉)の監督に就任。「人もボールも動くサッカー」というキーワードを掲げ、市原(千葉)を優勝争いのできるチームへと大きく変貌させた。 2005年にはリーグカップを制し、翌2006年には日本代表監督に就任。俊敏で勤勉な日本人の良さを生かすためのサッカーを求めるも、2007年に病に倒れ、志半ばで代表監督を退いている。 会見などで語られた含蓄のある言葉の数々は「オシム語録」として注目を集め、多くのサッカー関係者に影響を与えた。現在は、ヨーロッパの地に戻り、故郷であるボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボと自宅のあるオーストリア第二の都市グラーツを行き来しながら暮らしている。競技の第一線からは退いてはいるものの、今

決勝が終了した直後に電話をすると、アシマ夫人が「セレモニーを見たいからあとでかけ直してください」という。結局、この日は話が出来ず、翌日に改めて電話をすることになった。 ところが次の日も、夕方に起きるとクロアチアの凱旋の様子をテレビで見たいとのこと。実際に話が聞けたのは、さらにその翌日だった。 そこでオシムが語ったのは、大会そのものの総括以上に、サッカーとワールドカップが世界に与える影響と可能性、さらに日本はどこに進むべきかといった、より大きく包括的なテーマに関してだった。 クロアチアで興味深い議論が。 ADVERTISEMENT ――元気ですか? 「ああ、悪くない。選手たちがザグレブに到着し、スプリトや他の小さな都市でも、クロアチアが国を挙げて彼らを歓迎した。そしてテレビでは様々な興味深い議論がなされた。そこには将来に向けてのプロジェクトも含まれていた。それは代表のために新しいスタジアムを


元日本代表監督のイビチャ・オシム氏(77)がスポーツ報知に寄稿してきたロシアW杯特別評論は最終回。大会を総括し、世界のサッカーはさらにスピードアップしていくと指摘した。日本代表のロシアでの活躍を喜ぶと同時に愛情ある激励も送り、次期監督には「何かをポジティブに変えたいという野心を持つ人物を求めるべきだ」と希望した。ロシアW杯は素晴らしい大会だった。組織・運営はしっかりしていて、ピッチもスタジアムの雰囲気も申し分なかった。モスクワはヨーロッパからも日本からもそう近いわけではない。南米からはさらに遠い。それでも多くのサポーターがロシアを訪れ、W杯を楽しんだ。プレーのレベルも高く、サッカーそのものもとても興味深かった。 いい大会だったと言えるのは、いくつかの試合が延長戦にもつれ込んだからだ。あるいは終了間際の決勝ゴールなどドラマに満ちていた。延長やPK戦は、90分で決着がつくよりずっとスリリング


リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く