(2025年10月5日更新:カザフスタン、バングラデシュ、ウズベキスタン、シンガポールを追加) 万博。開幕まではほとんど興味ありませんでした。 でもよく考えてみると、これは世界中の人たちと直接会って話せる絶好の(というか、たぶん最初で最後の)チャンス。 なので、この国の人にはこれを聞いてみたい・・・と前から思っていたことをたずねてみました。 質問日:2025年4月21日、5月13, 27日、9月25日 ※ここに書かれているすべての「回答」は、応えてくださった方個人の意見であり一般化できないものであることをお断りしておきます。 目次 目次 カザフスタン - 中央アジア最大かつ最も裕福な国のもつ「兄弟」意識 バングラデシュ - パキスタンと分離して正解だったと思うか ウズベキスタン - サマルカンドの国で「ザナルカンドにて」は知られているのか シンガポール - 建国の父リー・クアンユーは今も尊

初潮がいつだったかは覚えていない。 初潮なんてそれまでの短い人生の中では最も印象深い出来事の一つだろうに、全く覚えていない。私はこんな風に、たまに不安になるくらい子供のころのことを覚えていない。 でもまあ、中学の時点では始まっていたと思う。プールの授業を見学していた記憶があるから。 肌が弱かったので、蒸れたり濡れた感じがしたりというのが不快だった。ちなみに神アイテムのウィスパーは1986年に発売され、2018年に販売を終了したらしい。自分で生理用品を買うようになってからはずっと使っていて、でもこの記事にある通り近年はソフィとかの方が快適だったので買ってなかった。長年お世話になりました。 生理痛も出血量もひどい方だったと思う。高校時代、部活のお使いで生理2日目に電車ででかけたとき、あまりに生理痛がひどくてホームでしばらくうずくまっていたのをいまでもよく覚えている。貧血もひどくて、鉄剤を飲んで

あれは20年以上前、小3か小4の時だったか台湾小皿料理の店に親に連れられて行ってそこの麻婆豆腐を食べてから全て変わってしまった台湾料理の店だったけどなぜか麻婆豆腐は本格四川風で激辛 あんな刺激の強い食べ物は初めてですっかりハマってしまった はてブでバズった「四川料理のスゴい人」の麻婆豆腐あるじゃん、あれ作って美味かったから店舗まで食べに行ったけどその店とリバヨンアタックの味はかなり近かった んで、その近所の店は夜のセットはご飯おかわり自由、料理2つ選べて杏仁豆腐もついて当時は確か600円とかだったんだよな 偏食のガキだから選べる料理2つとも麻婆豆腐を頼んでご飯をモリモリ食べるみたいなことをして週1で連れてってもらうレベルでハマってた。 そして本物の麻婆豆腐に「氣付いて」しまったガキの頃の俺は丸美屋の麻婆豆腐を「なんだこの甘ったるいだけの偽物は!!!肉も全然入ってねえし!!」と理解して食


(フランドランの『性の歴史』の表紙が「センシティブ」ということらしいので、宮本太郎先生編著(筒井分担執筆)の『子どもが消えゆく国の転換』の表紙にしました。) 参院選前ということもあるのだろうか。少子化問題について、いろんな人が自由に考えを出しあっている。だからこそ、研究者の間である程度知られている知識を共有しておくにこしたことはないだろう。今回はまず、人類社会における長期的な出生率低下について解説する。 ▼出生率の低下は世界的現象前近代では、地域によるが、女性は平均して一生で4〜7(人)くらいの子どもを産んでいたのではないか、といわれている。それでも長い間人口がそれほど増えず、定常状態に近かったのは、死亡率が高かったからだ。結局、ネットの再生産率(純再生産率)は1前後になって、女性は平均すれば1人くらいの女性を残す、という状態が長く続いた。 現在では、いわゆる経済先進国でなくとも出生率(期

昔々あるところに、利権にメスを入れようとしてパワハラの冤罪をかけられたお爺さんとお婆さんがいました。 お爺さんが山にジャンボタニシを、お婆さんが川にジャンボタニシを放っていると、川上から大きな桃がドンブラコドンブラコと流れてきました。 「不自然に巨大な桃が流れてきた。これは人工地震の計画が進んでいるに違いないのう」 桃を家に持ち帰ると、お爺さんとお婆さんは教科書じゃ教えてくれない桃の真実暴露動画を生配信しました。 桃の中にはなんと赤ん坊とマイクロチップが。お爺さんとお婆さんは、暇なときに空からやってきたすてきなナニカという意味を込めて「桃太郎」と名付けました。 桃太郎は祖父母と姓が異なることに、文化の破壊を目論む海外勢力の存在を感じながらもすくすくと成長し、ある日突然言いました。 「お爺さん、お婆さん。鬼がピザ屋で人身売買や児童売春を行なっていると聞きました。もう我慢できません」 お婆さん

話は母がガンになったところから始まる。 就職と共に家を出て2年ほどして、母がガンにかかっていることを知った。最初はガンと言ってもピンキリだろうと呑気に構えていたら、余命半年も無いらしい。 母が心配していたのは、典型的な昭和世代の価値観をもつ父のことだった。今でこそ男性も家事をするのが当たり前の風潮があるが、私の親世代は全く異なり、母は専業主婦で父は家のことは何一つ出来ないような人だった。 医者の話によると母は半年以内には亡くなる。その後、父がどうなるかを想像すると、 ・二人暮らしから一人暮らしになる(下手したら後追い自殺するんじゃね?) ・酒に溺れる(弱いくせに酒飲み) ・まともに食事をしないので体調を崩す(仕事が忙しいと昼食を取らないなどのため痩せ型) と、ろくな未来が想像できないため、仕事を辞めて実家に帰ってきた。 まだ社会人3年目だったため、不安もあったが、「親の余命が残り少なかった

お母さんのこと、好きですか? 私はそんなに好きじゃありません。 私を産み落とし、ひとつの命としてこの世に放ってくれた事実には感謝しています。 そのことを思えば、私はそれなりにいい人生を歩んで来られたと言えるでしょう。 ただ、母に感謝できることと、母のことを愛せるかどうかはまったく別のお話だと私は思っています。 母は、私を産んでから27年間失踪していました。 この記事は、私が母親をTikTokで見つけるまでの記録です。 「好きじゃない」し「嫌いじゃない」母に思っていたこと母のことを「そんなに好きじゃありません」と言える人間の胸中。 そこには憎しみや怒りとかいった激情が渦巻いていそうなものですが、そのような感情は私の中に殆ど存在していません。 私を捨てたという事実から「好きじゃない」のです。 でも、感謝をしているから「嫌いじゃない」のです。 パッとしません。 だって母を好きになろうにも、嫌いに

倉本圭造@新刊発売中です! @keizokuramoto これは過去一トランプ支持者の気持ちが伝わってくるスレッドかも。英語苦手な方も自動翻訳で読んでみるといいよ。父親が長年働いてた工場がメキシコに移り解雇された話。グローバリズムに対する静かな強い怒りが感じられる数代にわたる家族の物語。これに比べると日本は、続 x.com/fedpoasting/st… 2025-04-05 14:40:34 Bugman Hegel @FedPoasting In 2011, my papa was laid off from a Whirlpool manufacturing plant, the kind that had for so long made America great. In the wake of the financial crisis, the C-suite had deci

GoPro「凋落」の理由、華々しいスタートアップの紆余曲折を振り返る 大きな分岐点は8年前に:小寺信良のIT大作戦(1/5 ページ) 例年9月ごろに新製品を発表するGoProだが、今年は9月11日に新モデル、「GoPro HERO 13Black」と小型の「HERO」を発表した。HERO 13は即日販売開始となったが、HEROの方は予約販売となっている。 すでに多くのYouTuberがHERO 13を購入してレビューを公開しているが、あまり芳しい評価にはなっていないようだ。さらには経済紙を中心に、9月中旬から”GoPro凋落”といった趣旨の記事が展開されている。8月19日に、全社員の15%に相当する140人のリストラが発表されたことを受けて書かれたものだろう。GoProは、1社でスポーツ撮影専用カメラというジャンルを築き、2010年代のスタートアップとして華々しい成果を上げてきた。確か

田島享央己 / Takaoki Tajima @shidokou 仏師の流れをくむ彫刻一家にたまたま生まれ、私自身は5代目の彫刻家です。田島享央己と申します。美術界の「フチ」にかろうじて手をかけている者ですので、どうかご存知のない方はこれを機会に覚えていただけると嬉しいです。shidokou.blog20.fc2.com https://t.co/jxTo6z8aNj 田島享央己 / Takaoki Tajima @shidokou靴結婚したての頃、大事にしていた15,000円の靴を洗ってボロアパートの玄関先に干していたら盗まれた。 悲しくて何日もかけて油絵にした。その時間働けと妻に言われた。 pic.x.com/xcryfev62j 2024-09-01 08:17:08 田島享央己 / Takaoki Tajima @shidokou ストーブ結婚したてでボロアパートに住んでいた

東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。 私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書

OpsBR SoftwareTechnology Inc. 代表 岩永 亮介 ソフトウェア業界で15年以上、物理的なデータセンター運用から、世界最大規模の分散システムの運用、多数の業界のお客様のシステム設計支援、フロントエンドからバックエンド、データベース管理者、DevOps やテスト設計・実装、アーキテクチャレビュー、などを経験。特に、運用に関する改善や設計は得意で、OpsBR SoftwareTechnology Inc. を立ち上げた。カナダのバンクーバー在住。経歴は、Autify で Staff Software Engineer、Sr.Technical Support Engineer、Amazon で Sr. Systems Development Engineer、Solutions Architect など。 ソフトウェアエンジニアとして海外、特に北米を目指すのであ

何気なくインターネットを開くと、たまに「あなた、大丈夫なの!?」と思わず声が出てしまいそうになるものが目に飛び込んでくることがある。 そして、この「あなた、大丈夫なの!?」には、 (なんでそんなことするのか意味がわからない) (絶対に大丈夫じゃない…) というふたつの内心の声がくっついているわけである。 たとえば、はあちゅう氏のなりすましをめぐる裁判などは私にとってそういう案件である。 有名ブロガー・はあちゅう氏を巡る不思議な裁判の判決が出ました。①はあちゅう氏の「アンチ」であるA氏がTwitter上で、はあちゅう氏が自分のなりすましアカウントを作成したと言及する。②はあちゅう氏がA氏の複数の投稿についてプライバシー権の侵害や名誉を毀損したとして訴えたのだが、その中になりすましアカウントに対する言及も...

舵のない舟 かくて早くも彼の心は、洗練された隠遁の地、心地よき無人の境、人間的愚かさの絶えざる氾濫を遠く逃れた、びくとも動かぬ、なまぬるい方舟を夢みつつあった。 ユイスマンス『さかしま』 思えばおれの人生というのは舵のない舟に乗って川を流れてきただけだ。みすぼらしい帆や、壊れかけのエンジンはついていたかもしれない。ただ、流れてくるように、流れてきた。 おれは人生に興味がなかった。正確にいえばおれはおれの人生に興味がなかった。明日、どうしよう。五年後、どうしよう。大人になったら、どうしよう。なに一つ向き合ってこなかった。 親だとか誰かだとかにいわれるがままに、適当に流れてきた。意思というものがなかった。 べつに親だとか誰かだとかを信じていていたとか、そんな話もない。自分は確固たる意思をもって、意思を持たずに生きてきた。人生の岐路に立って自分で道を選んだという覚えもなければ、なにごとかに目覚


【追記】 思わずしていろいろな方に読んでもらえて嬉しいです。 ただ、一部の私の言葉の使い方がまずくて気分が悪くなってしまった方には本当にごめんなさい。 祝ってくださった方、ありがとうございました! 【本編】40歳の誕生日を迎えた日に私は、自称”地元の郷士”を名乗るご年配のご婦人に罵倒されていた。 なんでも、絹ごし豆腐と思って買ったそれが木綿豆腐だったらしく、絹ごしの気分だった喉が酷く傷ついたらしい。 何できちんと「これは木綿です。絹ごしではありません」と明記してくれなかったのか、と。 たしかにそれはたいへんだ、申し訳ないことをしたと思いながら無心で謝罪をしていた。 その心の裏側では今どきのゴーシさんって自分で豆腐を買いにくるのか、ゴーシさんもご多分に漏れず人手不足なのかなぁ、と余計な憐れみを感じていたことをあわせて詫びていた。 申し訳ないことをしたと思う反面、やはり自分の心は荒むもの。

【はじめに】・自己紹介こんにちは。 今年の1月にワシオ株式会社(以下ワシオ)の代表取締役社長に就任しました、三代目の鷲尾 岳(ワシオ タカシ)と申します。 鷲尾家の次男坊として1991年2月10日に生まれ、小学校5年生までは地元の公立、小6から私立の学校に転校し、中3までは福井県、高校は和歌山県にある姉妹校にて寮生活をしていました。 ここで詳しくは書きませんが、その学校の特徴として、「義務教育は最低限」「校則は生徒が主になって話し合って決める」「1年を通して大半のコマを占める”プロジェクト”という授業で目標を決め、達成に向けて何をするか生徒が決める」「やりたいことは大概やらせてもらえる」などなど、おそらくかなり一般的な学校からかけ離れた環境で多感な時期を過ごしました。 高校を卒業した後、大学で中国語を学んだので、卒業してからは父の伝手を頼って入社後すぐに中国で駐在させてくれる会社さんにご縁

最近東大で博士号を取りました。専門は数学です。数学の道を志すと決めたのは15歳のときでした。 この時の私は生活保護受給世帯で暮らしており、他の人より多くの困難を覚悟してこの決断をしました。 そして、実際に、ここまで来るには多くの困難がありました。 ここではその困難についてと、私がそれをどう打開したのかについてを書きたいと思います。本稿は私の経験を共有することにより、次の世代を励まし、生活保護制度や大学・大学院の問題点を明らかにすることを目指して書いています。 一方で、私の事例がこれとは逆の使われ方をすることがあります。 例えば「生活保護世帯出身でも努力すれば大学に行ける。行けない奴は努力が足りないんだ。」というような主張の根拠として使われることがあります。 このような使われ方は、私の意図するところとは全く異なります。 むしろ私は、どんなに努力してもくじ引きで当たりを引かなければ前に進め
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