買ってきたおもちゃに赤ちゃんが興味をもたず、部屋にあるティッシュの箱でひたすら遊ぶ、みたいなことってある。逆に、じゃあどういう日用品で赤ちゃんは遊ぶのか、について調べて新商品に結びつけたという展覧会があったので話を聞いた。 展覧会で話を伺った 展覧会が開かれていたのは東京都世田谷区の「HOME/WORK VILLAGE」。もともと中学校だったところを複合施設に改修して利用している。グラウンドでは子どもが遊んでいた。 展覧会は「(1歳の好奇心)への好奇心展」という。おもちゃメーカーのピープル株式会社によるもの。 右側の大きな写真は、CDを床材の切れ端と組み合わせたものだ。こういう日用品を組み合わせたものを、こどもたちが実際に気に入って遊ぶことがある。じゃあどういうものが気に入るのか、年齢によってどう違うのか、どうやったら商品化できるのか、といったことを探った。その過程と結果が展示されている。

誰かがルールを破った。すると、なぜか全員が同じペナルティを受ける。違反した当人だけに責任を問えばいいはずなのに、「もうみんな使えません」「全体の利用を中止します」「制度自体を撤廃して規制します」と、巻き込まれた側まで不利益を被る。 この「集団罰ゲーム」のような構造に、どこか見覚えがある人は多いはずだ。学校でも、会社でも、役所でも、街中でも、日本という社会はなぜこうも「一部の違反者の存在」を理由に「全体の自由や機能」を排除するという選択を取りがちなのか。 もっと言えば、なぜそれが「仕方ない」「当然」として受け入れられ、むしろ歓迎すらされてしまうのか。 この問いの奥には、日本人に特有の「正しさ」に対する過剰な信仰と、その裏に潜む「ズルされたくない」「損したくない」「出る杭は叩け」という根深い心理がある。 この記事では、その背景を、徹底的に言葉にしていきたい。 「全員で損すれば平等」:なぜそんな


リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く