乗りものニュース ›› 鉄道 ›› 「通勤地獄」を作ったのは誰か? 戦後の焼け野原からの「理想的な都市計画」が大失敗に終わるまで 1945年に日本は終戦を迎えました。その前から東京の「通勤ラッシュ」は限界に達していたため、国は復興とともにこれを解決しようと試みたのです。 「脱・通勤地獄」プランは終戦前から作られた 東京都心の鉄道は、地下鉄を除けば昭和戦前期には概ね現在のネットワークが完成していました。大正時代、第1次世界大戦、関東大震災後の郊外化を背景に郊外私鉄が次々と開業し、沿線開発と人口増加が続きました。 その結果、東京府(当時)の人口は、1920(大正9)年の約370万人から1930(昭和5)年には約541万人まで急増。戦時体制に入ると軍需景気でさらに人口集中が強まり、1940(昭和15)年には約735万人にまで達しました。鉄道各線は通勤客で大混雑し、日本初の「時差通勤」が行われたの

統一地方選で、議会の勢力図が激変したのが東京都杉並区だ。女性の当選者が男性を上回り、現職や最大勢力の自民党の候補が大量落選。新陳代謝を印象づけた。変化を引き起こしたものは何か。(原田遼)

東京とその近郊にお住まいのみなさん。 みなさんは「東京をやって」いますか? 先日、ある場所で「東京をやっていこうとしている人たち」というフレーズを耳にした。 その時フレーズが暗に指し示していたのは、たとえば、タワマンに住んでいるパワーカップルの人たちだったりした。 ただ東京に住んでいるのでなく、彼/彼女らは「東京をやっていこうとしている」というのだ。どういうことか。 正反対の人々を連想すれば理解しやすいかもしれない。東京には「東京をやっていこう」としているわけではない人たちも住んでいて、そちらは二種類に大別できる。 ひとつは、東京をやっていこうとしていなくても自動的に東京的なライフスタイルや佇まいになる人たち。親の代から都内やその近郊の邸宅に住んでいて、なんの屈託もなく東京で暮らしている人たちだ。 もうひとつは、首都圏の不動産持ちではなく「東京をやっていこう」としているわけでもない人たち、

終戦から77年。都心のオフィス街には、わずかながら戦前・戦中の東京の姿を伝える建物が残っている。撮影:吉川慧77回目の「終戦の日」を迎えた。 戦時中の度重なる空襲で、東京の街は焦土と化した。終戦から77年が経った今、あの戦争の記憶は遠くなりつつある。街には無数のビルがそびえ、自動車や鉄道が行き交い、人々は街を闊歩し、平和を謳歌している。 それでも東京都心、それもオフィス街に、わずかではあるが戦前・戦中の東京の姿を伝える建物が残っている。 馬喰町一丁目の交差点。撮影:吉川慧東京・中央区の日本橋馬喰町(ばくろちょう)。中央区の北端に位置し、台東区との境にある地域だ。北側は神田川の下流に面し、隅田川にもほど近い。隣接する横山町とともに国内有数の繊維・アパレル・雑貨類の問屋街として長年栄えてきた。 馬喰町の町並み。撮影:吉川慧そんな町に戦争の記憶を伝える建物がある。その名は「イーグルビル」。東京大
参院選(6月22日公示、7月10日投開票)で、全国の選挙区で有権者数、改選数ともに最も多く、首都決戦として注目を集める東京選挙区(改選数6)。今期限りで引退する意向を明らかにしている人などを含めて現職6氏が、選挙後の7月25日に任期満了を迎える。6氏の任期中の活動を、重要法案の採決時の賛否や、国会の「花形」とされる予算委員会での発言などをもとに振り返る。(横山大輔) まもなく任期満了を迎える6氏は、当選回数順に▽小川敏夫氏(立憲民主党、当選4回)▽中川雅治氏(自民党、当選3回)▽蓮舫氏(立憲民主党、当選3回)▽竹谷とし子氏(公明党、当選2回)▽朝日健太郎氏(自民党、当選1回)▽山添拓氏(共産党、当選1回)。このうち、小川氏と中川氏は今期限りでの引退を表明しており、今回の参院選には立候補しない。

めまぐるしく変化するIT業界から、お堅いイメージの“お役所”へーーー 「ヤフー」の社長を務めた宮坂学さん(51)の東京都副知事への転身は周囲を驚かせました。民間出身の副知事は、石原都政時代の作家・猪瀬直樹さん以来です。“爆速経営”で名をはせた宮坂さんが、行政の世界に飛び込んだ真意は何か?就任から1か月、彼の目に都庁はどう映っているのか?話を聞きました。(首都圏放送センター記者 早川沙希) 8月29日の東京都庁。この日の主役は、小池知事とともに記者会見に臨みました。「ヤフー」の元社長の宮坂学さんは、次世代の通信規格「5G」を普及させるため、東京に世界最速のモバイルインターネット網=“電波の道”を構築する戦略を打ち出しました。 高画質な動画の配信や自動運転、遠隔医療など新しい産業やサービスを支えるインフラをいち早く整備し、都市間競争を勝ち抜くことがねらいです。 これまで何度も中国を訪ね、発展の

明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。 ■今昔マップ on the web 首都圏編 で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。 なお、情報源はこの今昔マップが主で、一部ウィキペディアからの情報で補足しているが、事実と異なる記述があったらご容赦。自分の興味地域は、東京南部~神奈川なので、以下はそのエリアについてのみ。 【おもな放射道路編】 東海道(国道1号・15号)日本橋~品川区間。 1900ごろ時点で現在の国道15号と同じルート。市電も敷設されていた。八ツ山橋が現在の道路形状になったのは1960ごろ。品川~横浜間。 京急本線が1900ごろ時点ですでに敷設されているが、道路は現在の旧東海道のみ。六郷橋は1900ごろ時点ですでに架橋されていた。現在の国道15号品

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