堺市や国学院大などは19日、国内最大の前方後円墳で、宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理する大山古墳(同市、5世紀)の副葬品として、金メッキのさやに入った鉄製ナイフ「金銅装刀子(とうす)」や甲冑の破片を確認したと発表した。国学院大が入手した新発見の史料で、共同で研究していた。 見つかった刀子は、金メッキの銅板で覆われたヒノキのさやに、鉄製の刃が収められていた。さやには銀製の留め具「鋲」を5カ所で確認。当時の先端技術を用いて作られたとみられる。 刀子は二つに折れており、長さは合計約10・5センチ。持ち手の部分が欠損しており、本来は約15センチと推定される。 大山古墳は全長486メートル。1872年(明治5年)に前方部で石室が見つかり、多数の副葬品が確認された。緊急調査の後に全て埋め戻したと伝わっていたが、調査で絵図の作成を担った古美術収集家の柏木貨一郎が刀子などを保管していたという。

山梨県西桂町内の遺跡から出土した1000点以上の縄文時代の土器の破片を町が廃棄していたことが分かりました。 【写真を見る】「文化財に関する認識が浅かった」 発掘した縄文土器片1000点以上を残土置き場に廃棄 県の文化財指定検討による確認で発覚 西桂町の教育委員会が廃棄していたのは、西桂町下暮地の「宮の前遺跡」で出土した土器の破片です。 この欠片は1987年の発掘調査で見つかった縄文時代の「釣手土器」の近くから出土したものです。文化財指定を検討するため今年7月に山梨県の担当者らが町に確認したところ、すでに廃棄されていたことが分かりました。 土器片は1000点以上あったとみられ、コンテナに入れ40年近く倉庫で保管していましたが、今年4月、西桂町内の土木業者の残土置き場に廃棄したということです。 廃棄した理由について町の教育委員会は保管場所が手ぜまになったことや調査報告書が作成されていたためと
秀吉の「幻の城」見つかる 天下取りまでの政治拠点「妙顕寺城」池の跡が初出土 さらなる遺構出現も期待09月10日 18:48 文献でしか伝えられていなかった、豊臣秀吉の”幻の城”の遺構が、初めて見つかりました。 京都市によると、ことし7月からの調査で見つかったのは、豊臣秀吉が1583年に造ったとされる「妙顕寺城」の池の跡です。 妙顕寺城は、秀吉が天下を取るまでの重要な政治拠点として築いたとされていますが、これまで文献でしかその存在は伝えられておらず、城の遺構が見つかったのは初めてです。 遺構が見つかったのは、中京区にある京都中京労働局の建設予定地で、文献などから妙顕寺城の跡地と推定されていたため、調査したところ、発見に至ったということです。文化財保護課は「さらに掘り進めることによって、平安時代や以前の遺構も出現の期待が持てる」としています。

奈良市の富雄丸山古墳(4世紀後半、円墳)で出土した国内最大の蛇行剣は、クリーニングの結果、剣の特徴である突起がある一方で、刀の特徴であるくさび形の柄頭が付いていたことが分かった。奈良県立橿原考古学研究所と奈良市教育委員会が26日、発表した。 同研究所は「剣と刀のデザインを併せ持つハイブリッド構造だ。古墳時代中期以降に盛んになる刀装具と剣装具はこのようなものから分化していく可能性が考えられる」としている。蛇行剣は30日から研究所付属博物館で初めて一般公開する。 剣身を収めるさやは広葉樹のホオノキ製で、全長約2.5mに復元できる。剣先側のさや尻には、さやが直接地面に付かないように保護するための細長い石突(長さ18.5cm)があり、刀剣のさやでは初確認とみられる。長大な蛇行剣を立てて使用することも想定した構造という。さや尻とさや口には黒漆が塗られ、文様もあった。 また剣を握る柄は全長38cmとみ

東京都千代田区一番町の英国大使館跡地から弥生時代の集落跡が見つかったことが千代田区への取材で分かった。見つかったのは三菱地所レジデンス(東京都)などが再開発を進めている土地で、縄文時代のものも含めこれまでに竪穴住居跡が28棟確認された。ただ、遺跡として現地に残すことは難しい見込みで、調査後に埋め戻されてマンション建設が始まる予定。現地説明会も開かれない。都心における遺跡活用の難しさを改めて浮き彫りにした。 千代田区などによると、10月下旬までにこの土地で見つかった弥生時代後期前半(1~2世紀)の竪穴住居跡は21棟。縄文時代のものも3棟あり、そのうち1棟には貝が残っていた。時期が不明の竪穴住居跡も4棟あった。弥生土器や縄文土器も出土し、近世の上水木樋(もくひ)や井戸、地下室なども確認された。

文化庁は、国の史跡に相当する価値がある遺跡のリストを初めて作成し、奈良県内では東アジア最長の剣などが出土した奈良市の「富雄丸山古墳」が選ばれました。 古墳や城跡などの遺跡をめぐっては、国の史跡に指定されると保存するために開発などが厳しく制限されますが、指定を受けていないものについては、たとえ学術的に高い価値が明らかになっても、開発で破壊されてしまうといった課題がありました。 こうした遺跡を保護するため、文化庁は、国が指定する史跡に相当する高い価値のある遺跡を「指定相当の埋蔵文化財」と定義し、初めてリスト化しました。 リストには、全国26の県から42の遺跡が登録され、このうち奈良県からは去年(令和4年)、東アジア最長とされる鉄の剣などが見つかった奈良市の「富雄丸山古墳」が選ばれました。 リストに登録された遺跡は、開発ができなくなるといった制限はありませんが、重要な遺跡があることを周知すること

2023年2月4日に開催された「南池袋遺跡」の見学会に行ってきました! 到着したら、かなりの行列。 都会のど真ん中で発見された遺跡は注目度も高いですね。 地図ではここ↓ 豊島区南池袋2-40付近。 豊島区役所が近いです。 遺跡が発見されたのは南池袋二丁目C地区再開発南街区。 2021年8月から発掘調査が行われており、現在も調査は続けられています。 受付で資料もいただけました。 南池袋遺跡について詳細に説明されています。 発掘調査では、縄文時代や江戸時代〜昭和時代の生活の跡が見つかっていますが、特に重要な発見として、日本の写真産業の始まりとなった「東洋乾板株式会社」の工場の建物跡があげられます。 オフィス街や繁華街としてにぎわう現在の池袋から想像することは難しいですが、豊島区内には明治時代以降さまざまな工場がありました。 雑司が谷地域の歴史や産業を語るうえで東洋乾板の工場は重要な施設だといえ

奈良時代の都の中心だった奈良市の平城宮跡で、聖武天皇の娘、孝謙天皇の宮殿とみられる大規模な建物の跡が見つかりました。専門家は「天皇の宮殿の実態をうかがう貴重な史料だ」と話しています。 建物の跡が見つかったのは、奈良時代の都の中心だった平城宮跡の「東院」と呼ばれる地区です。 平安時代の歴史書「続日本紀」の記述などから、天皇や皇太子の宮殿があったとされている場所で、奈良文化財研究所が発掘調査したところ、東西27メートル、南北12メートルの範囲に50本の柱が整然と並んだ建物跡が見つかりました。 建物は高床式の床張りの構造で、屋根にはひわだなどがふかれていたとみられ、発掘調査で見つかった瓦から、奈良時代の西暦749年から770年の間に建てられたものとみられるということです。 規模は平城宮跡内のほかの場所で、これまでに確認されている天皇の住まいに匹敵する大きさです。 奈良時代の歴史に詳しい複数の専門

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平安時代後期に勢力を伸ばした平家一門の屋敷の一部とみられる堀の跡などが京都市内の発掘現場で見つかり、19日、一般向けの現地説明会が行われました。この付近に平家が拠点を築いたことは記録に残っていましたが、実際に遺構が見つかるのは初めてだということです。 ホテル建設に伴って、民間の発掘調査会社が去年12月から調査を進めていました。 堀の跡は東西に長さ15メートル、深さ1メートル40センチで、いちばん上の部分の幅は3メートルほどですが、深くなるほど狭くなっています。 南側に土塁が積まれた跡があることから南に屋敷が広がっていたとみられ、堀の中からは平安時代後期に当たる12世紀ごろの土器が多く出土したということです。 発掘調査会社によりますと「平家物語」には当時、この付近に平家一門の軍事的な拠点が築かれたとされていて、見つかった堀は、その一部と見られるということです。 この地域で、平家一門のものとみ


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